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第4話 知らないことだらけ
あっという間の、一週間だった。
カウンター席を挟んで、立花はおやつを作り、相楽はその姿を紙に写し続けた。二人以外誰もいない空間に、手を動かす音だけが響く。柔らかくなったバターを混ぜる音。砂糖を摺り交ぜる音、酒かシロップを注ぐ音。卵を割る音、泡立てる音、型に生地を流しいれた後に少し高いところから落として空気を抜く音。伴奏のように、鉛筆が紙の上をすべる音が、短く長く時折強く鳴る。
音と手の動きがシンクロして、台所とスケッチブックの中で、それぞれに形作られていく。
立花は自分の動作に集中しているけれど、相楽はそんな立花に集中している。だから、その音をずっと聞いていた。動きが変わったと思えば、音も変わる。どちらが先か、判然としないけれど。
そうやって、いくつかのおやつが完成し、沢山の絵がスケッチブックを埋め尽くした頃、その時間にも終わりが来た。
相楽は、ふーっと大きく息を吐いて、鉛筆を置いた。
「お疲れさん」
予想外の声が降って来た。相楽がはっと目をあげると、立花が和らいだ目で見ていた。
「あ、ありがとう、ございます。あの」
「腹、減ってるよね?」
疑問というよりも確信をもって問われて、思わず大きく頷いた。すると、口の端をきゅーっと持ち上げた子どものような笑顔が、目の前に広がった。
「ちっと待ってな」
軽やかにそう告げて、立花は冷蔵庫からラップに包まれた四角い生地を取り出した。その生地を、麺棒で伸ばして畳んでまた伸ばしてから四角く切り分けると、手早くトレイに並べてオーブンに入れてしまった。
バタンと扉を閉じる音がして、相楽は、はっと我に返った。手つかずのグラスからは結露がしたたり落ちて、カウンターを濡らしてしまっている。
「15分くらいで、焼きあがるから」
待っていろということだろう。立花は素っ気なくそれだけ言うと、今度は戸棚からティーポットやカップを取り出し始めた。
「はい」
瞬きを忘れた相楽は、一言返事をして、グラスの水をガブリと飲んだ。
そして、これはどういう事だろうかと考える。飲み物一杯で帰らされるのではなく、何か食べさせてくれるらしい。機嫌も良さそうだ。スケッチの時間を、楽しんでくれたということだろうか。それとも、もう終わりだから親切にしてくれているのだろうか。
どちらだろう?と、お茶の準備をしている立花の様子をそれとなくのぞいてみるけれど、その横顔から表情は読めない。
相楽は、当然ながらスケッチを続けさせてほしいと願っている。
ただ、どう頼めば気持ちよくOKしてもらえるかがわからない。仕事の邪魔をしたいわけではないけれど、毎朝来られるのはやっぱり迷惑だろう。週に二日か三日ならどうだろう。いや、曜日ははっきり決めたほうがいいはずだ。
通い始めすぐから、ずっと考えてきた。シャロンからの帰り道、その日の立花の様子によって、ベストな方法は何かと頭をひねった。そして、今になってもまだ、良いアイデアは浮かんでいない。
ああ、もうオーブンのタイマーが残り半分だ……!
俯いて思案していると、また頭の上から声が聞こえた。
「見せて」
すいっと手の平が伸びてきて、スケッチを見せろという。
「あっはいっ!……あの、どうぞ」
慌てて立ち上がった相楽は、スケッチブックを手に取ると、おずおずと差し出した。まるで、試験官の講評を聞く学生のようだ。
受取った立花は、そんな気も知らずに無造作にページを繰って、ふんふんと頷いたり口の中で小さく何か言っている。相楽の心臓は、今や飛び跳ねそうなほどに大きな音をたてている。背中に妙な汗が流れる。ちらりと上目に様子を伺っても、立花の表情からはやはり何も読み取れない。
相楽は、両の手の平をすり合わせたり、肩をゆすったりしながら、見終わるのを待っていた。苦手だなんだと言っていないで、人体デッサンにもっと真面目に取り組んでおくんだったと、役に立たない後悔と反省で頭をいっぱいにしながら。
そんな相楽の懊悩は知らないとばかりに、立花は涼しい顔でページを閉じた。
「やっぱり、うまいもんだな。ああ、それと」
「はい?」
「作ってる動きを描きたいってのは、本当だったんだな」
「……はい。……はい?」
「いや、腕と手先と卵ばっかりだったから。ああ、それと爬虫類?」
立花は面白そうに笑って、ページを開いて相楽に手渡した。
そこには、いくつものトカゲが並んでいた。トゲトゲごつごつとした首や前足。ぎょろっとした目。
何か、言い訳をしたほうがいいのかと顔をあげたけれど、立花はやっぱり面白そうに笑っている。それなら、良いのかもしれない。そう、安心できる目元だった。
「お。そろそろ」
さっきから漂っていたバターの焼ける匂いが、一段濃くなった。立花は、オーブンミトンを両手にはめて、タイマーが鳴るのを待ち構える。
ピピピピ!
オーブンの蓋をあけると、ぼわっと熱気が噴き出して、何かが黄金色に焼きあがっているのが見える。
「うまそう……」
「だろ。朝飯代わりに食ってけよ。スコーン」
立花は、焼きたてのスコーンを竹笊にうつして粗熱をとる。その間に、てきぱきとジャム二種類とクロテッドクリーム、小さなクリームスプーンと小皿をトレイに並べて紅茶を淹れた。
「お待たせ」
目の前に差し出されたトレイには、湯気のあがる四角いスコーンが三つ、一列に並んでばっくりと口を開けている。
「すっげ……」
「いいから、食えよ。今が一番上手いから」
立花は、ちょっとだけ自慢気に顎をあげて、にやりと笑って見せた。
ならばと、相楽はいただきますと言いながら、スコーンの開いた口にクリームをたっぷり乗せた。
「あっつっ!ん……んっんまっ!」
「だろっていうか、落着いて食べなさいよ」
「は、はいっ。これ、ざくっとしてふわっとして、めちゃくちゃ美味いです」
「わかったから。ちゃんと前見て食え」
相楽は、口いっぱいにスコーンをほおばったまま、元気よく首をたてに振った。
立花は、頭に巻いた布を外して、相楽の隣に座った。そして、傍らに置かれていたスケッチブックを、もう一度手に取った。
描きかけなのか、これで完成なのか。にわかには判別しがたい絵が大量に描き残されている。肘から下や手首から先が多い。次に目についたのは、卵だ。割れた殻から滑り落ちてくる卵。
同じくらい沢山描かれていたのが、トカゲだった。トゲトゲした体と、独特の目。ぐっと地面を掴む前足には、大きなかぎ爪がついている。
その目は、黒目が縦に細長くて、白目が光っているような。何かを、捕捉してその動きを追っているのだろうか。
人間の顔は描かないのに。トカゲの顔は、こんなに克明に描くのか。なんか、なんか、面白い。立花の口元に、素直に笑いが浮かんだ。
「あの、何か?」
「ああ、いや。何でもない」
ほら、早く食えよと手のひらで促すと、相楽は素直にスコーンに向きなおった。
その様子を、今度は横から眺めてみた。食べ物にまっすぐに向き合って、いいリズムで、どんどん食べてしまう。つまり、「美味しそう」に食べている。正直な話、スコーンは、難しい手順が必要な菓子じゃない。それでも、余分な手をかけて作っておいたものを、喜んで食べてくれるなら、それはやっぱり嬉しい。
このまっすぐさに、押し切られたようなものかもしれない。
立花は、今の自分と一週間前の自分を思い出して、自嘲する。
あなたをモデルに絵を描きたいと言われて、浮かれているんだろうと、自分で自分に皮肉をぶつけてしまう。それもこれも、こいつの勢いのせいだと言い訳しながら。
そう。きっと相楽には不思議な力があるんだ。
バイトのような家事の延長のようなお菓子作りをしている男から、何か美しさの種になるようなものを感じ取ったのだろう。芸術を志すような人間の真意は測りかねるけれど、この数日間相楽が真剣だったことは本当だと感じている。
立花が、スケッチブックを見ている間に、相楽はスコーンを食べ終わり紅茶も飲み干してしまった。ちらりと横眼で様子を伺うと、無表情だが機嫌を損ねている風ではない。布から自由になった金髪が、フワフワと広がってとてもきれいだ。
相楽は、パンと手を合わせてご馳走様と言い、空のグラスを掲げた。
「あ」
「はい。お水、もらっていいですか?キッチンに入っていいなら、自分で行くんですけど」
「ああ、悪い」
立花は、ぶるっと頭をふると、すぐに立ち上がってキッチンに戻った。蛇口をひねると、シャボシャボと水がグラスに注ぎこまれる。
「なぁ」
グラスを差し出しながら、立花が声をかけた。相楽は、何でしょう?と上目で応える。
「いや、その。えっと、だから……、スケッチ、もう終わり?」
「いやいやいやっ!」
立花は、言うべき言葉が見つからなくて、思いつきを口にしただけだった。だが、相楽にとっては違う。まさにその件について、どうやって頼もうかと思いを巡らせていたのだ。
「終りに、したくないというか、その、できるなら、立花さんが許せる範囲でいいんで、スケッチを続けさせていただけないかと。どうやってお願いしようかずっと考えてて」
「わかった、わかったから」
相楽の、懇願と言ってもいい言葉の奔流に、立花は気おされている。困ったなと見下ろすと、まるで尻尾をぶんぶん振る犬のようにして、グラスの水にも手をつけずに立花からの言葉を待っている。
「あー。えっと、もうちょっとさっぱりしたもの、飲むか」
立花は、期待の籠った熱視線を避けるようにして、しゃがみこんだ。
「よいっしょっと」
持ち上げたのは、琥珀色の液体で満たされた密閉ガラス瓶だ
「それは?」
「シロップ。これは梅。この間のジンジャーエールも、生姜をこうやって漬けとくんだ」
「あれも旨かったです!」
その声に、立花は片眉を持ち上げて目を細める。にやりと口角をあげて「だろう?」と自信ありげに目で答える。
「甘いシロップは、炭酸で割るとうまいんだよ」
「梅酒は作らないんですか?」
「作るよ。有実ちゃんの分」
「有実ちゃん?」
「この店のオーナー。俺のおばさん」
「あ、店長さんですね。すみません。で、立花さんは?」
「俺は飲まない。ついでに、煙草もやらない。ゲージュツ家ってそういうの好きなの多いんだろ?」
立花は、揶揄するように片頬をゆがめる。
「まぁ多いです。俺は酒は飲めないし、煙草も吸えないですけど」
「吸えない?」
「はい。一度試したんですけど、咳きこむばっかりで。苦しいだけでした」
「ふーん」
何気ない会話を続けながら、立花はするすると飲み物をつくる。相楽は、その様子からバーテンダーを想像した。映画の中でしか見た事はないけれど、すらっとした佇まいが似ているような気がした。
「そうしてると、バーテンさんみたいですね。果物を小さなナイフでカットしたりして」
「酒は飲まないって言ってんでしょ。それに、ナイフはあんまり好きじゃない」
「左利きだからですか?」
「え?」
「違いました?」
「よく気づいたな」
「はい。何となく、ですけど。両方使えるようにしてるみたいだけど、左のほうがやりやすいのかなぁって」
立花は、子どもの頃に矯正されたので、右で菜箸を使う。それでもやっぱり、ふとした時に左手がでる。そういうところも、見られていたのだ。
「一週間、見られてたんだから、当然か」
気恥ずかしいような照れくさいような気がして、立花は梅ソーダをごくりと飲む。
「まだまだ、知らないことばっかりです。だから、通わせてください」
今度は、ひどくあっさりした物言いで、相楽は明日以降の約束を迫った。
立花は、小さく頷いた。
「いいよ。わかった。来いよ。でも」
「曜日とか日付とか、ちゃんと決めます。ふらっと来るのは嫌なんですよね」
「わかってんな。待つなら、確実に来る相手だけって決めてんの。木曜日が休みだから、あっちに来いよ」
立花は、そういって店の裏手を指さした。
「あっち?」
「俺ん家」
「家?いいんですか!?」
「さすがに、仕事中はもう勘弁。こっちの集中力がもたないよ。それに、家なら時間制限あんまりないし。毎日毎日、消化不良で物足りないって顔してたでしょうが」
「はい!あの、ありがとうございます。木曜日。はい。あの、大学が終わってからだから、あの、14時頃行きます。あの終わりは」
「好きにしなよ。俺も自分のやりたいようにするから」
「はっ!……い」
大きくなり過ぎた声気づいた相楽は、瞬時に声をひっこめた。その様子を見て、立花はやっぱり面白そうに笑った。
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