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第5話 奇妙な木曜日

 立花の住む家は、カフェと地続きに建てられた平屋の一軒家だ。母方の祖父が立てたので、あちこち古めかしい。引き継いだ立花は、まるで気にしていない。というよりも、その古さごと気に入っている。特に、北向きに長方形に伸びた庭が、好きだ。人通りの多い道路から離れているせいかとても静かで、風の音も草の揺れる音もよく聞こえる。夏の午後には、そこに虫の羽音も混じる。高い板塀に囲まれた庭を縁側から眺めていれば、まったくの一人を満喫できた。 その静かな庭に、今日は他人が来る。約束の木曜日だ。 縁側から空を見上げると、まるで七月のように晴れている。もくもくと膨らんだ雲は水分をたっぷり含んで、いつでも集合して入道雲になる準備ができているとでも言うように。 朝の雰囲気の残る9時半過ぎ、その縁側近くでは、立花がノートパソコンと辞書と参考書を睨んでいた。 勿論、彼が学生のように勉強をしているわけではない。 仕事をしているのだ。 立花の二つ目の仕事は、通信添削だ。昔懐かしい言い方をするなら、赤ペン先生。 学科は、国語だ。現代文、古文、漢詩。何でもやる。長文読解も文法も四字熟語も。 子どもの数は減っているけれど、大学受験をする子どもの割合は増えている。デジタル技術とネットワークの発達で、自宅で塾の講義を受ける子どもも増えた。塾としては、直接指導を受けられいない子どもに、通信添削でフォローするというわけだ。塾で一旦採点された解答用紙が、PDFで送られてくる。立花は、その内容を熟読する。ミスの内容を吟味検討して、指摘や模範解答を赤字で書き入れて、塾に送り返しているというわけだ。 子どものレベルによって、立花の書きぶりも変わるので、一枚ごとにそれなりに時間がかかる。 だから、本来店休日の木曜日は、採点作業に没頭しなければならない。ならないのだが、さっきから立花の手は動いていない。 まだ、9時半過ぎだというのに。 相楽が来るのは、14時だというのに。 そんな事はわかっているが、わかっているからこそ気になってしまう。来客というほど立派なものじゃないから、何も用意するつもりはない。けれど、本当にそれでいいのか。あいつは絵を描くだけというけれど、自分はどうすればいいのか。他人が来るなら、掃除くらいするべきなのか。 考えたくないのに、細々としたことが脳内を駆け回って、まるで集中できない。 しかも、昨日のうちにトイレの掃除をすませ、早朝玄関もざっと掃き掃除をしてしまっている。 立花は、目を閉じて天を仰いだ。 「だから、約束は嫌なんだ」 ノートパソコンをパタンと閉じて、辞書と参考書に栞を挟む。よいしょと年寄りくさい掛け声をかけて、結局台所にいくしかない。 頭が使えないなら、手を動かすしかないのだから。 立花は、台所の引き出しから馴染みの棒寒天を一本取り出した。それから、冷蔵庫の中を覗き込んで、レモン果汁とオレンジを一つ掴んだ。 「おやつ、作っちまうか」 手にした小さめの雪平に水をためる音が、心なしか軽快に響いた。 ☆  真昼間の眩しい陽ざしの中、相楽は急いでいた。 大学からシャロンまでの道のりは、いつもと逆方向だ。 「えーっと、この路地を」 立花に言われた通り、喫茶シャロンの前を通り過ぎて一本目の細い路地を右に曲がる。シャロンを横眼に見ながら少し進むと、すぐに、背の高い板塀が視界をふさぐ。そのまま数歩進むと、小さな扉があった。勝手口というやつだろう。一応呼び鈴がついているが、今は使えないそうだ。その呼び鈴から目をまっすぐ下におろすと、小さな箱が扉に貼りついていた。電子錠だ。相楽は、教えられた通りに番号を押す。ちょっと指が震えそうになるのが、悔しい。けれど、そんな事は気にするなとでも言うように、赤いランプが緑に代わってカチッと音がした。鍵が、開いた。 扉を軽く推すと、苦も無く内側に向かって弧を描いた。相楽はほっと息をついて、そっと入り口をくぐった。 一歩足を踏み入れると、そこは草原のようだった。足首あたりまで伸びた雑草が揺れて、外よりも幾分ひんやりした空気が流れている。そして、鼻先をくすぐる匂い。 「え……?」 相楽は、思わずサングラスを外した。 さっきまで眩しくて仕方がなかった日差しが、遮られている。代わりに緩やかな明るさが届く四角い庭に、柔らかな緑が広がっていた。 光の差す方を見やると、古い家が建っている。 「立花さん家、なんか可愛い」 そう呟くと、自然と口元が緩んだ。すっくと立つというよりは、その地にどっかりと胡坐をかいたような小さな家が、不思議と懐かしいような気がしたのかもしれない。 相楽は、ふっと小さく息をはくと、今度は深く吸い込んでみた。湿った土の匂いに混ざって、ハーブの香りがする。 「色んな匂い、すんな」 玄関に向かうはずだった相楽は、そのまま庭の中央に足を進めた。 じっと見ていると、皆同じに見えていた葉の見分けがつくようになる。 「お。お前知ってるぞ」 見覚えのある草を見つけて、その場にしゃがみ込んだ。指で掬うように葉を持ち上げると、やっぱり知った香りがする。この爽やかな感じは、ミントだ。そのままきょろきょろと見渡すと、似たような違う葉のハーブが生えていて、似たような少し違う香りを放っていた。兄弟か。いや、親戚くらいの近さか。 「なぁ、お前は何てーの?」 相楽は、名前のわからない幾種類もの葉にスマホをかざした。 気が済むと、立ち上がって違う草の方へとむかった。それは、草というより低い木のようだ。 「お前は、ローズマリーだったよな」 ばさばさっと枝をゆすると、ミントよりは甘い匂いがする。細いけれど厚みのある短い葉やざらついた茎には、油分が感じられる。 「草って感じ、しないよな」 相楽は、ローズマリーの細い茎を指で上下にしごいてみた。思った通り、いい匂いがして手にはうっすらと何かが残る。やっぱり油なんだろう。 しばらくそうやって、庭にしゃがみこんで匂いを浴びていた。 すると、ざざっと草をかき分ける音がした。 え?と思って振り返ると、素足にサンダルばきの足元が見えた。その足を伝いあがるように視線をあげると、呆れ顔の立花がいた。 「あっ!!あっ、あのっ!!」 ばね仕掛けにでもなっているのか。相楽は、素早く立ち上がった。 「来たんなら、声かけろ。庭が見たきゃ、見てていい」 金髪がうるさそうに揺れているけれど、声は穏やかだ。 「はいっ!あ、いや、あの」 「どっちにすんだよ」 「庭は、あの、また後で。見せて、ください」 「ふうん。じゃ」 立花は、怒るでもなく笑うでもなく、縁側にむかってくいっと顎をふった。そして、そのまま後ろも見ずに、すたすたと縁側に戻ってしまった。 その後を、転がる犬のように相楽はついていった。 ☆  庭を歩く勢いのまま、家主は縁側から家の中に入って行ってしまった。相楽のその後を追いかけようとして、慌ててスニーカーを脱いだ。 「うわっ!」 一歩足を縁側についた瞬間、相楽は飛び上がってすぐに足を靴に戻した。 立花もその声に気づいたのか、どうした?と疑問を浮かべて振り返った。 「なんだよ」 去ったのと同じ勢いで戻って来た立花は、一体どうしたというのかと少々呆れ気味に声をかけた。 「何してんだよ」 「や、あの、足が汚れてるような、気が」 「へぇ。そんな事、気にするとはな」 目を丸くしたその顔には、意外だとでかでかと書いてある。相楽は、申し訳ないと思いつつも、そこから動けないでいた。学生のとっちらかったアパートとは、まるで違う。目の前には、生活感はあるけれどきちんと整えられた部屋がひろがり、大学からまっすぐ来た自分の足元は確実に汚れている。 「んー、じゃ、こっち来て」 立花は、もう一度庭に降りてすたすたと歩く。相楽も後ろをついていく。縁側の終わり、勝手口から見れば庭の奥にあたる場所に、小さな手洗い場所があった。庭用の水道なのだろう。 「雑巾、これね。使い終わったら、ゆすいでそこにひっかけて干しとけよ」 「はいっ。ありがとうございます!」 「だから、声がでかい」 しまったと肩をすくめると、立花は面白そうに笑っている。機嫌を損ねたわけではなかったかと、相楽の肩がゆるんで眉が下がると、立花はその肩をポンと一つ叩いて戻って行った。  慌てて手足を洗った相楽は、力いっぱい雑巾をゆすいで絞って、指さされた木の枝に、正確には木の枝にひっかかったハンガーに、干した それから静かに縁側から家にあがりこんだ。 ぐるりと見渡すと、縁側手前にはノートパソコンや本や筆記用具がまとまって置いてあり、ほの暗いリビングには小さなテーブルと椅子がある。 左手には台所があり、立花が何かを皿に盛っている。右側には何があるのかよくわからない。縁側を伝って歩けば、わかるのだろう。 そんな事を考えながら突っ立っていると、立花が盆を持って近づいてきた。 「その辺、とりあえず座れよ。座布団なんてないけどな」 そう言いながら、相楽の足元に盆を置いた。 涼しそうなきれいなものが、四角い皿に乗っている。 相楽は、慌ててその場に正座をした。 「足痛いだろ。いいよ、崩して」 立花は、少し呆れたような顔で笑って、相楽に皿を手渡した。 それは、真っ白い角皿で、その上には、オレンジ色の立方体が半透明に光っていた。 「おやつ?ですか?」 「そういう時間だろ?」 立花は、当然だとでも言うように答えて、目を白黒させている相楽を放ったまま、となりにどかりと腰を下ろした。 「冷たいうちに」 それだけ言うと、さっさと自分は食べ初めてしまった。相楽は、慌てて「いただきます」と手を合わせると、小鉢とフォークを手に取った。 冷たそうな寒天に、まっすぐフォークを刺しこんで、四つに切り分ける。 すると、食べる前から柑橘類の爽やかな香りが立ち上る。 これは、レモンだ。 相楽は、一口ほおばると、無心でレモンの香りとオレンジの果肉を味わった。 もっとと思うのに、無情にも彼らは喉の奥に落ちていってしまう。 「うまいです」 「蒸し暑い時は、こういうのがいいよな」 相楽の感激を、さらっといなして立花は寒天を切り取っていく。その手の動きに、相楽の目が吸い付くように止まった。 フォークをつまむ指先と、細かく動く間接。皿を支える手首。 その強い視線に、立花はすぐに気づいた。 「描けば?ま、先に食ったほうがいいとは思うけど」 「いいんですか?」 「描きにきたんだろ?」 当然だろうと、立花は表情を変えない。 相楽は、二切れ目と三切れ目の寒天を立て続けに口にいれて、急いでスケッチブックと鉛筆を取り出した。立花は、準備が整うのを待つように、お茶に口をつけている。すると、シャッシャッと鉛筆が走り始める音が聞こえてきた。  そこから立花は、まるで相楽がいないかのように振舞った。 寒天を見つめ、丁寧に切り取って最後まで食べた。お茶を飲んで、急須に残っていた茶を湯飲みに注いだ。湯飲みを逆さにするように飲み切って、皿を重ねて盆を持ってたちあがった。台所に運んで、そのまま洗い物をした。 殊更に、描きやすいようにと思ったわけではないけれど、少しだけゆっくり、少しだけ大きく動いた。 そして、相楽の視線をびりびり肌に感じながら、ふわりと浮かんだ考えを膨らませていた。 きっと、あのスケッチブックにはまた絵の端っきれが沢山生まれているのだろう。そう思うと、何だか妙な気分になる。あの端っきれが自分の欠片のような気がしなくもない。それとも、あれは相楽の眷属だろうか。相楽の腕が生み出した、俺によく似た小さな妖怪。 「ふふっ」 そんな事を思って、小さく笑ってしまった。 その時相楽は、立花の動きを必死で追いかけていた。腕や指や背中ばかりを見つめて、鉛筆の先ばかり睨んでいた。 だから、その時立花がどんな顔をしていたのか、まるで知らない。 相楽の視線を感じ、それに応え、筆写する音を快く聞いていた彼が、小さく口元を緩めていたことを知らずにいた。

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