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第6話 いやなんだ
相楽は、それから毎週絵を描きにきた。
決まった時間にやってきて、一声かけたら即スケッチブックをとりだした。その様子を視界にいれながら、立花は自由気ままに過ごしていた。縁側に寝っ転がって本を読んだり、庭の草を刈ったり、おやつの試作をしたり。昼寝を始めないだけ、ましだと言える。
実際、縁側のすぐ傍で昼寝をしていて、相楽が来たことにしばらく気づかなかったなんて事もあった。
立花にとって、相楽がいることが当たり前になってきていた。
一度など、そんなにきっちり通ってくるなら、ポイントカードを作ったらいいんじゃないかと言い出した。嬉しくなった相楽は、半分本気でカードの絵を描いてみせた。なのに、ハンコを押すなんて面倒だと、言い出した本人があっさり却下した。それを、らしいと笑って喜ぶ相楽も、少々どうかしている。
そうやって、立花にとっての木曜日は、どんどんなんでもない日になっていった。初回は緊張し、待ち時間を持て余して寒天のおやつを作ったけれど、それもしていない。自分が小腹が空いたタイミングで、前日の店の残りのケーキや試作品の焼き菓子を「食う?」と気軽に出すだけだ。冷たい麦茶をがぶ飲みしながらかぶりつき、疲れた頭に糖分補給をした。そこに挟まるちょっとした雑談も楽しくて、傍に誰かがいる楽しさを久々に味わっていた。
そしてまた木曜日が来て、勝手に振舞う男を相楽が熱心に描いている。
今日の立花は、縁側に背の低い机を出して、ノートパソコンと分厚い本と紙の束を広げている。
一枚取り上げて、ペンで文字をたどるようにして読み込んでいたかと思うと、ばばばっとキーボードを叩く音が響く。辞書や資料本をいくつも広げて、やたらに付箋を貼ったりする。
庭をぬける風の音をかき消すように蝉が鳴き、その隙間を縫うようにして木製のスピーカーから音楽が流れる。今日は、扇風機のモーター音をベースに従えた、美しいピアノ曲だ。酷い雨の日には、雷に負けない重厚なオーケストラだったこともある。
夏の空気とピアノの音が、交互に立花の肩を撫でながら、庭と縁側の間を行ったり来たりする。そして働く男は、時折指揮者のように腕を振り上げる。
両腕をゆったり大きく振りながら、目を細めて音楽の流れに身を任せているようだ。時折、腕を強く数度振る。そのタイミングも、ぴたっと曲に合っている。
台所での緊張感に満ちた姿とは違う、自由でリラックスした動きを、相楽の目と手が追っていた。
そういえば、この縁側は相楽にとって、非常に都合が良い。
北向きでほどよく影ができて、光が眩しくない。明るい場所と暗い場所の光の差が少ないから、モデルが突然動いても見失いにくい。
実際、モデルの立花は、縁側を中心に庭や室内を自由に動き回っている。相楽もまた、庭に降りたり、縁側の遠くに座り込んだりしながら、絵を描いている。そういう自由な動きができるのも、光が安定しているおかげと言っていい。
相楽は、時折庭を眺めてぼんやりしてしまう。こんな場所にアトリエがもてたらと、つい想像してしまうのだ。
─── 北向きの広い部屋、高い天井には明り取りの小さな窓。汚れの気にならない板張りの床と、道具をしまう棚があって、庭には選んで植えた花が咲いて……
突然、遠くから何かの放送が流れてきた。小さな子どもたちに、早く家に帰りましょうと促す類のものだ。夢想を中断させられた相楽は、驚いたと目を丸くして音の流れてくるほうを見上げた。空の色が少しオレンジがかって、カラスが高い場所を横切っていく。奴らも家に帰るのだろう。まだ明るいけれど、夕方が始まっている。
相楽は、そろそろ終わりにしようとスケッチブックをパタンと閉じた。
その音に、立花の手が止まった。
「おい」
「はい?」
「腹減った。飯作るから、食ってけ」
「え、いや、でも」
「都合悪い?」
「いやいやいや、あの、ご馳走になります!」
「最初から、そう言え」
相楽の大きな声に、立花はもう「うるさい」と言わない。
片方の眉をひくりと持ち上げて、「お前はいつも元気だね」とでも言いたげに視線を送るだけだ。
そのまま台所へ向かって、丁寧に手を洗う。
バクンと冷蔵庫の戸を開けて首を突っ込んだとおもったら、取り出されたのは、卵三つと刻んだ長ネギのパック。冷凍庫からは、ご飯パックが四つ。
すかさずヤカンに湯を沸かし始めて、大振りなお椀を二つ並べて、チューブで何かをひねり出した。
何だろうと覗き込むと、味噌の匂いがする。
「味噌汁?」
「そ」
「へー。便利」
「そ。便利」
相楽の顔も見ずに返事をして、立花はお椀の中に乾燥野菜を一つかみ入れた。ここに湯を注げば味噌汁が完成するというわけだ。
表面が溶け始めた冷凍ご飯をレンジにいれたら、料理人の腕の見せ所だ。
卵をボウルに割りほぐし、出汁、塩、みりん、白コショウを入れてよくかき混ぜる。長ネギパックの中味も、全部そのボウルにぶちまける。
そして、よく暖めた玉子焼き器に、玉子液を流し込む。
熱くなった油と玉子液がぶつかって、ぷつぷつと小さくはじける。黄色い生地がぷくっと膨らむのを、箸で潰して平らに延べていく。
見つめる相楽の目の前で、玉子はくるくると何重にも巻き取られていった。
最後、「よっ」という掛け声とともにまな板の上に転がり出たのは、焼き目も美しい玉子焼きだ。
「これ、切っといて」
立花は、突然そう言うと、自分はさっさと布巾を絞ってテーブルの準備を始めた。
「え、あ、はい」
突然言いつけられた相楽は、慌てて手を洗って、包丁を探す。
「あれ?」
包丁と言えばここだろうと、シンク下の扉を開いたけれど、包丁差しは空っぽだ。
引き出しに寝かしてあるのかと開けてみたけれど、他の調理道具が入っているだけだ。
「あの、包丁は」
「これ使って」
立花が別の引き出しから拾い上げたのは、スケッパーだ。普通は、お菓子やパン作りで生地を切り分ける道具だ。
「こっち側使うと、切れるから」
「はい」
なんとなく腑に落ちないけれど、相楽も腹が減っている。立花の言う通りにスケッパーを使って、玉子焼きを切り分けた。
少し形が崩れたけれど、美しい渦巻きに変わりはない。熱い湯気が上がって、今すぐにでもつまみ食いしたいくらいだ。
「うっまそ」
「皿、これ」
よだれを垂らしそうになっている立花の手元に、薄水色の丸い皿が置かれた。
相楽は、玉子焼きを慎重に皿に乗せて、テーブルへと運んだ。
そこでメインディッシュの玉子焼きを迎えたのは、きちんと向かい合わせに並んだ箸、大振りな茶碗に盛られた白飯、長ネギとほうれん草の味噌汁、明太子、海苔の佃煮、漬物だ。
茶碗が揃いの柄なのが、少し意外でくすぐったい。
「うわ」
「いいから、早く座れ」
立花に促されて、相楽は即座に椅子に座った。
「じゃ、いただきます」
「いただきますっ!」
二人は手を合わせて箸をとった。
台所近くの食卓に座っていると、庭から遠い。ついさっきまで自在に行き来していたのに、外の変化がわかりにくい。日が暮れたかと庭に目をやると、カラスの声が聞こえなくなったことに気づいた。
部屋の中もじわじわと暗くなって、向かいに座る人の表情がよく見えない。それでも、テーブル上のランプが料理と手元を照らしてくれて、食べる合間に交わす言葉には親しみが込められている。ならば、食事は十分楽しい。
「立花さん、料理もうまいんですね」
「作ったのは、玉子焼きだけだったろ。あとは、便利なものを選んでるだけ。まぁ、旨くないと困るけど」
「はい。この海苔の佃煮も、いい感じに甘しょっぱくて旨いです」
「それは、それも俺だ」
淡々と答えていた立花の声が、少し気恥ずかしそうに揺れて、首をちょっと傾げた。
「やっぱり。味覚のセンスがいいんですよ。ここ!ってとこで、味を決められるんじゃないかな」
「そういう褒めかた、芸術家って感じだな」
「結局、体の感覚に正直になるしかないんで」
「確かに」
薄暗い灯の中に、金髪に縁どられた柔らかい笑顔がほのかに見えた。相楽は、思わず箸をとめた。
「どうした?」
「や、なんでも、ないです。あー、いつもと光の感じが違うからか、立花さんがすっごい美人に見えた」
照れたのをごまかすように、相楽が大げさに笑って見せる。
「アホか」
立花は、呆れ声で言い返した。
すみませんと小声で返しながら、相楽はもう一度立花を盗み見る。
優しい光に照らされた顎のラインと、フワフワした金髪と、照れてちょっとだけ緩んだ目元がそこにある。
美人っていうより、可愛い、かな。
相楽は、鉛筆を持ちたくなってうずく手を、箸を持ち直すことでこらえた。
☆
はっきりと夜が来て、窓も障子も閉めた室内にはゆるくエアコンがかかっている。昼間は、窓を開け放って扇風機でもいいけれど、さすがに夜は不用心だ。
ぬるいお茶を挟んで、静かな時間が流れる。立花は、スケッチブックをめくりながら、知りたくなったことを口にした。
「いっぱい描いてるけど、一番に作りたいものって何?」
お前は、何に興味を持っているのか。何を作りたいと思っているのか。
それを聞いてくれたことが嬉しくて、相楽は普段意識していないことを、必死で言葉にした。
人間をモデルにする事が苦手。機械にも興味がない。風景は立体に向かないし、静物はつまらない。何かないかと、モチーフを探して考えた。昔見た、大猿の彫刻をヒントに動物や生き物を探した。あちこち動物園を回って目についたのは、哺乳類じゃなくて爬虫類。大きなイグアナだった。最初は、じっとしていて描きやすいと思った。けれど、目をみると隙がない。細やかに動く指が面白くて、尻尾には目と同じくらい強い意思が感じられた。その存在が、面白いと思った。再現したいと思った。
「最初は、そんな感じだったと思うんです。でも、結局皮膚の下が大事だなって」
「皮膚?」
「はい。要するに、骨ですね。関節とか腱とか筋肉とか。体の中で何がどんな風に動いて、それが表にはどう見えるのかっていうのが面白くなって。動きの美しいところを再現するには、中がどんな風に動いてるのかな、とか」
「ああ」
なるほど、と立花は思った。だから、あんなに見つめるんだと。あれだけ強い視線で長時間見つめていたら、そのうち間接が皮膚から透けて見えるようになるんじゃないだろうか。
「なんとなくわかったけど、骨を描くんじゃないんだ?」
「はい。骨格を描くんじゃなくて、骨格や関節を感じさせたいんです」
「しかも、金属で」
「……はい」
「けっこう、めんどくさそうな道を選んでんだな」
呆れたような感心したような溜息が、立花の口から洩れる。
相楽は、申し訳ないと頭を下げる。そんな面倒な作品を作りたいがために、執拗にスケッチを続けているのだから。
「いや、いいんだけど。で、何かできそう?」
「はい。秋には、形になると思います」
「へぇ。すげ。まぁ、できたら見せてよ」
「はい。がんばります」
いつもと違う、落着いた声がした。意外だなと目をあげると、相楽は強い意思を秘めた目で立花を見ていた。
目があって、なんだか気づまりなような恥ずかしいような気がした立花は、目を逸らすしかない。
すると、相楽が妙なことを言い出した。
「え?」
「あ、だから、なんで包丁ないのかなって。不便でしょ?俺、今度何か買ってきましょうか?」
「いや。使わないから」
「シャロンでは使って、あれ、使ってない?」
「だから、使わないんだよ。果物のカットとか、そういうのは有実ちゃんが下準備でやってくれてるし」
「包丁、苦手ですか」
「嫌なんだよ。そんだけ」
そう言い捨てると、文句あるかと相楽を睨む。その目の奥で何かが燃えていて、相楽はそれが何かを知りたくなる。
でも、まだ早い。
「嫌なら、しょうがないです。まったく同じじゃないですけど、俺にもそういうの、ちょっとだけわかります。俺、木彫、苦手なんですよ。木に彫刻刀を差し込む感触が、何か嫌で」
「え」
「木を彫るのは嫌で、金属を熱で溶かすのはいいのかよって言われると、返す言葉はないんですけど。何か、嫌で。そういうのと、近くないですか?」
「多分。近いんじゃないかな。多分」
「あの、笑わないでほしいんですけど」
「ん?」
「刃物って、ちょっと怖いですよね」
「……うん」
立花は、ほっとしたのか、肩の力をぬいた。それから、すまないと頭を下げた。
「いやいやいや、俺が余計なことを言ったから」
「それにしても、大人げなかった。悪かった」
「立花さん」
「ん?」
「来週も、来ていいですか?」
「毎週来てるだろ。それより、制作間に合うのかよ」
「はい。木曜日以外は、大学でびっしりやってますから」
「ふぅん。なら、いいけど」
「ありがとうございます。で、次は俺が夕飯作ります」
「……おう」
立花は、金髪をふるふると揺すって、目を隠してしまった。けれど、目の縁が少し赤くなっていたことに、相楽はちゃんと気づいていた。
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