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第7話 できないこと

 大雨が降っている。 深夜から降り続く雨は、時間とともに勢いを増し、雷まで連れてきた。朝には、庭が池になっていた。 台風にはまだ早いだろ? このままでは、雨が止んだ後もしばらく水がひかない。立花は、昔祖父に教わった通りに、排水路に向けて何本か溝を掘った。 一時間ほどで作業を終えたが、腰も腕も痛い。そもそも、雨合羽が動きにくくて長靴は重い。シャベルを持つ手が滑るからと、はめた軍手も糸の芯まで水を吸ってぐっしょり重い。このくらいでいいだろうと作業に区切りをつけた時、邪魔になったカッパのフードを外した。みるみる髪が雨に濡れていくけれど、汗をかいて熱くなった頭が少しすっきりした。 終わりにしようと空を見上げると、大粒の雨がぴしゃりと額を打ち抜いた。  さて、びっしょり汗もかいたので、シャワーを浴びたい。気が逸るのに、玄関先で立ち尽くすことになった。濡れそぼった合羽を脱ぐと、膝から下がどろだらけで、長靴の中の靴下も濡れている。 立花は、天を仰いで深く息を吐く。それから、誰もいないのをいい事に、玄関先で全部脱いだ。泥のついていないTシャツで足を拭って、抱えた汚れ物と一緒に風呂場に直行だ。 熱いシャワーをじゃんじゃん流し、汗も泥も洗い流す。泥をすすいだ服を洗濯機に放り込むと、またしても布団に潜り込んだ。 立花は、ぴっちり閉めたガラス窓に打ち付ける雨の音や遠くに聞こえる雷の音を聞きながら、猫のように浅く深く眠り続けた。 ☆  眠って、眠って、ふと意識が浮上した気がして、また眠った。タオルケットにくるまって、エアコンの風に吹かれて。 また、ふわりと感覚が戻って来たなと思ったら、鼻先でいい匂いがする。 ソースの焼ける匂い。 野菜の甘い匂い。 何かが、少し焦げる匂い。 旨そう。 何ていい夢なんだ。 立花は、ゆっくりと寝返りをうとうとして、何かおかしいことに気づいた。 「んん?」 勢いのままに腕を動かすと、耳元でごとりと何か重さのあるものが動いた。 手探りで触ってみると、ひんやりと冷たい。 あいつだ。 そっと瞼を持ち上げると、金茶色の長い尾が見える。 やっぱりお前だったか。 敷布団の上に置かれた手のすぐ傍にいたのは、相楽が作ったカナヘビだ。 むくりと起き上がって台所を見ると、相楽が立っている。 「おい!」 「はい!」 少し強めに声をかけたが、相楽はぴょこんと振り返って嬉しそうに笑っている。 「おはようございます。あの、そろそろ昼なんで腹減ったかなって」 「で、それ?」 「はい。俺、焼きそばならそれなりにできるんですよ」 そう言いながら、忙しそうにフライパンを振っている。しかし、あのフライパンに見覚えはない。 「おい」 少し困ったような声が出て、なんとなくばつが悪い。 立花は、ゆっくり立ち上がると、顔を洗ってくるとだけ言って洗面所に消えた。 「あれは、食ってくれそうだな」 相楽は、ふふふと頬を緩めて、最後の仕上げとばかりにフライパンを煽った。  顔を洗って目が開いた立花が、台所に戻った頃には、テーブルに湯気のあがった焼きそばと麦茶の入ったグラスが並んでいた。 「あー、それ、食っていいの?」 「そのために作ったんで。早く食べましょ」 相楽は、待ちきれないと席について手を合わせている。立花も、慌てて座って手を合わせる。 「いただきます!」「ます」 はふっはふっと息を吐きながら、熱々の麺と野菜を掻っ込んでいく。 鼻に抜けるソースの香りが、箸を運ぶ手を急かす。 「うま」 思わずでた言葉に、相楽はやったと拳を握る。 「ですよね!これだけは、できるんですよ」 成功だと、相楽は顔中で笑っている。いいから食えよと、立花は相楽を正気に戻す。 「だって、何か嬉しくって。いっつもうまいおやつご馳走になってるし」 「まぁ、作ったものを旨いって食べてもらうのは、悪くない」 勢いのままに箸を進め、二人はあっという間に焼きそばをたいらげた。 麦茶をゆっくりと飲み干したけれど、食べ初めてから15分もかかっていない。 「もうちょい、ゆっくり食えばよかったな」 立花は、満足そうに口の端を緩めながら、皿にのこった野菜の端っきれを箸でつまむ。 「また、作ります」 「そういや、あのフライパン」 どうしたのか?と言外に問うと、相楽は持ってきたんだとけろっとしてる。 「家から?」 「はい。本当にこれしか作れなくて、慣れた道具じゃないとうまくできないんです。だから」 本日のシェフは、当然ですよとニコニコしている。立花も、それならわかると頷いた。 「慣れた道具じゃないとってのは、何かわかる」 「毎日作るおかしでもそうですか?」 「毎日だから。手が覚えちゃってる」 わかりますと、今度は相楽が頷く。そうして二人は、目を合わせて小さく笑った。また一つ、通じるものができたと、立花はどこかでほっとしていた。  作ったやつはゆっくりしていろ。 そう言って、立花は皿やフライパンを洗う役を買って出た。相楽は、嬉しそうにその様子を眺めながら、二杯目の麦茶を飲んでいる。 ジャージャーと水が流れて、皿がかちあう音がして、外では遠くで雷がゴロゴロと鳴っている。 ガラス窓一枚向こうの嵐が嘘のように、のんびりした午後と言えるだろう。 「あれ?」 その時、立花は何かがおかしいと感じた。何か、足りない。普通、料理をしたら。 「なぁ」 くるりと振り返って相楽と目が合うと、気づきましたねとニヤリと笑っている。 「おい、包丁」 「持ってきてませんよ?カットされた野菜と細切れの豚肉を使えば、包丁なしでも焼きそばはできるんですよ」 相楽は、どうだと胸をはっている。立花には、それが「よくできたでしょ?」と褒められたがっている柴犬に見える。 噴き出しそうになる笑いをなんとか飲み込んで、立花は「そうか」とだけ答えて、台所のシンクを拭き始めた。 「立花さんが嫌な事、しませんよ、俺」 「わかったよ」 返事はするけれど、背中をむけたままだ。相楽は、そんな立花が本当はどんな風に感じているのか知りたくて、とっさにたちあがって肩に手をかけた。 「ねぇ」 ホントですよと続けようとして、耳の縁が赤いことに気づいた。 「立花さん」 「なんだよ」 「連さん」 「なんだよっ!」 名前を呼ばれて、たまらず立花は振り返った。手には濡れた布巾を握りしめている。 「連さん」 「だから!」 「次は、何か違うもの作れるようになってきます」 「は?」 急な話題の転換についていけず、立花はぽかんと口を開けてしまった。その隙に、相楽はぐいっと心の距離を縮めてくる。 「焼きそばの他に、何か食べたいけど自分では作りにくいってものありません?俺、作ります」 「他に」 相楽の提案に、立花の脳みそは瞬時にして料理で埋め尽くされた。 そして、ちょっと考えさせてほしいと、神妙な顔でつぶやいた。 「はい。ゆっくり考えてください。あんまり難しいのは、練習、沢山しないといけないけど」 へへへと笑う相楽は、立花の手から布巾を抜き取って、洗ってしぼってパンパンと音をたてて広げた。 それを見るともなしに見ていた立花は、食べたくても作れなかった料理と名前で呼ばれたという事実が混在して、しばらく黙ったままでいた。 ☆  雨の勢いは衰えない。鍵のあいた玄関から、いつも通り勝手に入って来た相楽は、この家の流儀に沿ったやり方で焼きそばを作った。家主は、その焼きそばをたらふく食べて、またもや布団に寝っ転がっている。 「動かねぇよ。しばらく」 「はい。描いてていいですよね?」 好きにしろと、うつ伏せの立花は片手をヒラヒラとふった。 雨の打ち付けるガラス戸を背にして、相楽はどっかりと胡坐をかいてスケッチブックを広げている。 そのすぐ近くで、立花は横になっている。枕に顎を乗せて、うつ伏せになり、動き続ける鉛筆を見つめている。 「今日は、どこ描いてんの?」 「背中です。肩甲骨と肩と、それから首と後頭部」 延々と続けそうになった言葉を、手を左右にふって押しとどめる。 「わかったから」 「はい」 すみませんと口先だけで答えて、相楽は背中に集中する。 これならば、何をしゃべっても半分も聞いていないだろう。 立花は、ぽつりぽつりと、独り言のように呟きはじめた。  俺さ、昔は四人家族で、隣町に住んでたんだよ。父親と、母親と、俺と妹。  特別、何も問題ないと思ってたんだけど、そうでもなかったらしくて。  俺が小5の時、母親と妹が出かけたっきり帰ってこなくなって。どうやら、元々そのつもりだったらしいんだよな。  妹とは年が離れてて、まだ4歳くらいで。  日曜日、だったのかな。  俺と父親で家の前でキャッチボールしてたら、母親と妹がきれいな格好して、ちょっと出かけてくるって。  それっきり。  父親に探さないのかって聞いたけど、返事なくて。  そっから父親と二人で3か月暮らして、有実ちゃんが迎えに来てくれた。  学校から母親に連絡がいって、母親が有実ちゃんに頼んだらしいよ。  そっから、じいさんとこの家で暮らして、有実ちゃんとじいさんが、学校もいかしてくれて。  大人になって、有実ちゃんが喫茶店始めて、俺も就職したけどすぐやめて、今。 そんなとても大雑把な身の上話をした。 今まで、他人に話したことはなかった。父親と二人で暮らしていた時期のことは、有実子にも詳しくは喋っていない。しゃべらずにいれば忘れるかとも思ったけれど、存外記憶は消えていかない。 やっぱり、相楽の耳にはあまり届いていないらしく、生返事をするばかりで顔色一つ変えない。 ああ、丁度良かった。 一度、言葉にしておきたかったけれど、自分一人では自分に全部戻ってくるだけで何も変わらない。記憶を軽くするために、ただ受け流してくれる相手が欲しかった。 本当に、丁度良い。 少し間を置いて、立花はまた一言付け加えた。  まぁ、そんなわけで、包丁が嫌いで。 「え?」 「え?」 「いや、ですから、そこで何で急に包丁?」 「お前、聞いてたのかよ」 「そりゃ聞こえてますよ。だから、何でそこで包丁なんですか?」 「あああ、えっと、どう、、、すっかな」 予想外の事態に、立花は枕に顔を押し付けて、もぐもぐ困っている。その耳元で、スケッチブックを閉じた音がした。 相楽は、本格的に話を聞くつもりだ。それがわかったから、立花は観念して頭をあげた。 「聞いても、楽しくないぞ」 「はい。でも、言ってしまいたくないですか?」 「んん」 苦し気に、下唇をかみしめる。上目で見上げると、相楽は至極真面目な顔で受け止めようと待っている。 「わかったよ」 立花は、布団の上に起き上がって、同じように胡坐をかいて座った。さすがに正面を向き合う勇気はなくて、相楽には横顔を晒している。 「父親と二人っきりだった間、あいつ、何にもしねぇから、俺がわかんないなりに家事をやってた。洗濯とかは、わかんないっつったら取説投げてよこしやがって。困ったのが、やっぱ料理。家庭科の教科書、真剣に読んだりして」 ぽつぽつとだが、さっきよりははっきりと言葉にした。その度に、立花の目の前には、過去の自分が立ち上がる。 毎日、何もしない父親はただ酒を飲んでいる。そんな父親でも、急にいなくなるのは嫌だと思っていたのだろう。 子どもだった立花は、家庭科の教科書と家に残された数冊の料理本を片手に、必死で料理を覚えた。 役に立たないと、いけない気がしていた。 当然のように、朝起きられない日が増えて、学校にも行けなくなっていった。 多分、そのせいで母親に連絡がいったんだろうと思う。 「その頃、自覚してなかったけど、結構追い詰められてたんだろうな。一人で夕飯作りながら、つまんないからテレビつけっぱなしにしてたんだよ。そしたら、テレビの中で、包丁一本で人間をバラバラにできるって言ってるの聞いちゃったんだよ。できるんだってよ。関節の仕組みをちゃんとわかってれば。そん時は、あんまりなんとも思わなかったんだけど、豚肉を触った時に、気づいたんだ。俺、いつでも父親殺せるなって」 おかしいだろう?と上目で相楽の様子を伺えば、やっぱり顔色を変えずにじっと聞いている。いや、かすかに眉間に皺が寄っている。やっぱり気味が悪いだろう。 立花は、そんな相楽をお構いなしに話を続けた。  父親にまでいなくなられたら困ると思ってたけど、父親がいなくなったら母親が戻ってくるんじゃないか。  そんな事を思いつくなんて、本当に子どもだった。  でもな、正真正銘子どもだったんだ。  有実ちゃんが迎えに来てくれて、じいさんの子どもにしてもらって、有実ちゃんが作った飯を三人で食べて。俺は、やっと正気に戻った。  あんなやつ、殺す必要ないし、母親も帰ってこない。帰って来たって、今更家族になんてなれない。  俺は、ラッキーだったんだ。有実ちゃんとじいさんがいて。  でも、包丁は持てない。持ちたくない。だって、誰かを殺してバラバラにできるんだぜ?俺は、俺を信じられねぇよ。 「これで、俺の話はおしまい」 ふーっと深い息を吐いた立花は、いっそさっぱりしたという顔で、苦く笑った。 「おかしな話だろう?悪かったな。こんな話聞かせて」 「おかしくないです」 なるべく軽い後味にしようという立花の努力を、相楽の真摯な声が霧散させる。 「良かった。生きててくれて」 え?と思った時には、立花の腕は強くひかれて相楽の胸に体ごと取り込まれていた。 「相楽?」 「ほんとに、良かった」 立花の体を両腕にしっかりと抱きしめて、相楽は立花の肩ごしに泣いている。 「何でお前が泣くんだよ」 「だって」 「だっては禁止だばーか」 立花は、相楽の頭と背中をぽんぽんと叩いた。これでは、どっちが慰められているのかわからないと思いながら。

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