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第8話 山を越えろ

 夏の間、ずうっと入り浸っていた相楽は、一枚のスケッチを残して大学に戻って行った。 こいつを形にしてきますと言って、自信に満ちた肩をそびやかしていた。 立花は、スケッチブックから破り取られたその絵を、スキャナーで取り込んで仕事用のパソコンの壁紙にした。こうしておけば、いつでも見られる。 あの元気のいい大声が聞こえないのは、少しさみしい気がしないでもない。けれど、辛い淋しさではない。置いて行かれたのではないと、わかっているから。 パソコンには、ゆるく握った左手とそれを包むように添えられた右手が映し出されている。スケッチに描かれたその手は、いずれ立体になり、金属で再生する。 立花は、目の前の手と同じポーズをとってみ、おやと首を傾げた。 「これ、どっちに行くんだ?」 緩く握った左手をそのまましっかりと握って、広げた右手で包むこともできる。反対に、右手を外に開いていくのと同時に、握られた左手を開いていくこともできる。ちょうど、花の咲くように。 どっちに向かうのが正解だろう。 相楽は、どこを目指しているだろう。 今はわからないけれど、そこには、きっと未来があるはずだ。 立花は、ぎゅっと両手を握りしめ、自分の仕事を始めることにした。 ☆  新作に取り掛かっている芸術家に触発されたわけではないが、立花も新しいメニューに挑戦している。クロワッサンだ。 フランスでは、菓子屋がクロワッサンを焼くらしい。シナモンロールやデニッシュも、バターを折りこむ甘いパンはおやつということなのだろう。 立花も、折りパイは何度か作ってみたことがある。有実子に試食してもらったところ、味もいいし見た目も華やか、商品にしよう。という話もでた。しかし、手間も原価もかかってシャロンの他の商品とどうにもバランスが悪い。そんな店の事情もあって、パイを作る時は冷凍パイシートを使っている。 「まずは、練習かな」 というわけで、折りパイの復習から始めた。 まずは、バターを折りこむ生地を作る。冷蔵庫でしっかり冷やしておいた、粉、水、バターを混ぜ合わせる。温度があがるとすぐにバターがゆるんで生地全体がゆるむので、冷蔵庫で冷やしながら、何重にもバターと生地を折り重ねていく。一枚の大きな生地が出来上がったら、型の大きさに合わせてカットして、オーブンで焼き上げる。膨らまないように、フォークで表面に沢山穴をあけるのを忘れずに。ピピピッと完了のアラームが鳴って、こんがりと焼けたバターのいい香りが立ち昇る。 きれいなパイ生地の出来上がりだ。 これならできるだろうと、立花はクロワッサン用のパン生地作りの段階に進んだ。  パンとパイの一番の違いは、ドライイーストを使うことと、弾力がでるまで生地をこねることだ。水分を含んだ粉とバターを、力をかけて伸ばしてまとめて、時には調理台にたたきつける。捏ねあがると、空気を含んだかのようなぷっくり柔らかな生地ができあがる。 「これは」 丸くまとめた生地を手のひらでなでると、もっちりと柔らかくて奥には手ごたえが感じられる。所謂、耳たぶくらいの固さということだろう。そんなものよりも、もっと。撫でていると、胸の奥からふふふと幸せが湧いてくるような、そんな手触りだ。 これは、ちょっとくせになる。 しかし、この幸せの生地が、クロワッサンにはあまり都合がよくない。クロワッサンの生地は、いつでもひんやりしていなければならないのに、それは暖かい。バターを入れると分離する生地をまとめようと、必死で捏ねたせいで暖まってしまったらしい。これでは、発酵が進んでバターが上手く折りこめない。その生地は、予定を変更してブリオッシュとして焼き上げることになった。思いがけないおやつの登場に、有実は喜んだが立花にはちっとも美味しく感じられなかった。  二度目は、まず部屋の温度を少し寒いくらいまで下げた。エアコンフル回転だ。それから、生地をこねる自分の手を、時々保冷剤で冷やしてみた。 そのおかげか、捏ねあがった張りのある生地は、ふれるとひんやりとしていた。 ほっとして生地を冷蔵庫にしまったけれど、クロワッサン作りはここからが本番だ。 パイと同じように、薄い正方形に伸ばしておいたバターを、捏ねた生地に折りこんでいく。多少の差はあっても、大きくは同じはずだが、今度は発酵する生地が邪魔をする。 麺棒で細長く伸ばしている合間に、あちこちに気泡ができる。麺棒を押し返してくるような、力があるのだ。 どのくらい力をかけていいものかわからずに、何度も何度も麺棒で伸ばしているうちに、生地が緩んでくる。 慌てて冷蔵庫にいれるけれど、続きの作業がしたくて気がせいて仕方がない。 きちんと冷やさなければいけない。でも、長く置いておくと発酵し始めてしまう。この兼ね合いが難しくて、この時も失敗した。 結局、待ちきれなかったのだ。 生地をきちんと冷やすことができなくて、焼き上げたクロワッサンは、バターが流れ出してしぼんでしまった。  三度めの生地をこねる前に、反省点を書きだしてよく手順を考えた。 材料を冷やす。自分の手も冷やす。捏ねたら、きちんと冷やす。麺棒は思い切って体重をのせ、回数を増やさない。そしてやっぱり、冷蔵庫でしっかり休ませて冷やす。 オーブンの予熱温度はしっかり高くして、今度こそ成功しますようにと三日月のパンをオーブンにいれた。 ピピぴっとアラームが鳴って、天板を引き出せば、美しい焼き色のついたクロワッサンが、もうもうと湯気をたてていた。 「よしっ!できた」 熱々のクロワッサンを天板から網にうつすと、勢揃いした様子がなんとも可愛い。 「今度こそ、できた」 ちゃんと準備をして手順を踏んで。そして、待つ。これができたから、クロワッサンは焼きあがった。 「有実ちゃんに、食べてもらわなきゃ」 自然と口の端が持ち上がって、顔が笑ってしまう。 あちちちと言いながら、熱々のクロワッサンを二つに割ると、美しい渦巻きが顔をのぞかせた。 「お。そうだ」 立花は、スマホでクロワッサンの写真をとると、何もメッセージはつけずに相楽に送った。 きっと、俺も食べたいのに!と悔しがるだろう。 食べたかったら、さっさと完成させて、俺のところに戻って来い。 立花は、伝えたくなる言葉を、熱々のクロワッサンと一緒に飲みこむ。 「あっちぃ」 はふっはふっと口内に空気を取り込んで、しゃくしゃくむぐむぐとクロワッサンを咀嚼していく。 「あいつ、どうしてっかな」 スマホには、相楽からの大量のメッセージと写真が保存されている。それは、彼の毎日の記録だ。土をこねたり、像を作ったり、壊したり、また作ったりしているらしい。融けた金属が、赤く光っている様子も送って来た。あちこち火傷もしているらしい。立花には、想像がつかない毎日を、相楽は送っている。戦っているのだろうか?それとも、楽しんでいるのだろうか。 そんな事を考えながら、指についた油をぺろりと舐めとった。 「あ」 その指先を見て、次に思い出したのは、相楽との夏の最後の日のことだ。 ☆  これで最後だからと、相楽は珍しく立花にポーズをとらせてスケッチをしていた。相楽に言われた通り、左手を握って右手を広げる。モデルをしている間はまるで動けないので、ごく短い間ポーズを取ったら、合図をもらって姿勢をゆるめた。それでも、何度も何度も手を組んで、相楽の前に座り続けた。 「すいません。あとちょっと」 そう言われて、改めてポーズをとろうとすると、相楽の手がぐいっと立花の左の手首をつかんだ。 「おい」 「ほんとに、あとちょっとなんで」 すみませんの言葉は、またしても口の中に消えていく。 相楽は、立花の手を目の前にかざして、上から下から隅々までなめるように見ている。 指の握りを確かめるように、親指をもって上下させたり、手首の角度を見極めたいのか拳をもって上下左右に動かしてみる。 「なぁ」 少し近いと言おうとしたけれど、返事もない。馬耳東風とばかりに、立花の両手を広げて表と裏をしげしげと見つめている。 立花の指に添えられた、相楽の指がひんやりと冷たい。手のひらを撫でられて、くすぐったくて小さく身じろいだ。すると、逃げるなとばかりに手首を強く握られた。 相楽は、鉛筆を手放している。目に記録しようとでもするかのように、立花の手を見つめ、指に覚えさせようとでもするかのように、立花の手の輪郭をなぞっていく。 「ちょっ、と、相楽、なぁ」 「はい。じゃ、最後」 ポーズをとれと言う。立花は仕方がないと、また左手と右手を差し出した。 すると、相楽はその手をスマホで撮影した。 「描くんじゃないのかよ!」 「描きました。これは、まぁ、補助です」 「そんなもん?」 「はい」 そのまま角度を変えて数枚撮影すると、満足したと相楽は大きく息を吐いた。反対に、ずっとポーズをとって相楽の視線を浴び続けた立花は、疲れ切っている。 「終ったー」 ばたんとそのまま後ろに倒れ込んでしまった。 「疲れた」 ぽそっとそれだけ言って目を閉じると、相楽が立ち上がった。台所へ向かう音がする。ということは、きっと水分くらいとってきてくれるのだろう。 立花は、そのまま足音が戻ってくるのを待った。 「はい」 思った通りだ。水の匂いがする。 立花が目を開けると、目の前には水の入ったグラスと、小さな包み。 「何?」 「チョコレート。集中して疲れた後に、こういうのあるといいですよ」 ありがとうと受け取って、立花はチョコを口に入れた。苦くて甘い。ちょっとビターなチョコレートだ。 「意外と、大人っぽいチョコ選ぶんだな」 「意外、ですかねぇ」 褒められたという顔で、相楽はへへへと笑った。 その時のスケッチの一枚を、相楽は置いて行った。そして、途中経過報告とばかりに写真を送ってくる。それを見る限り、どうやら完成に近づいているらしい。 土と蝋と火の力で、自分の手が金属になるのかと思うと、変な気分だ。 立花は、相楽の指の感触を自分の肌で覚えている。手首を握った力強さも、指をたどった柔らかさも。 これを覚えているうちに、あいつは戻ってくるだろうか。 それまでに、満足のいく仕事はできるだろうか。 二つの願いは相反しているけれど、両立できないわけでもないはずだ。 立花は、焼きあがったクロワッサンを平籠に並べて、有実子の下へ向かった。 ☆  立体の芸術には、色々な手法がある。相楽は、型に金属を流し込んで作る鋳金をやっている。ちなみに、彫金とは違う。 鋳金は、制作の工程数が多い。作りたいものを決めて、絵を描いて、土で立体の原型をつくる。その原型から石膏で型をとり、それを芯にして蝋の型をとる。そこに溶かした金属を流し冷えて固まったら、型を割って取り出す。これが、大筋の流れだ。他にもやり方は色々あるけれど、相楽は教えられた方法を忠実に守っている。 とにかく手間のかかる作業だが、取り出した金属を丹念に磨き上げると生まれるすべすべの表面と滑らかなラインは、やっぱり鋳金ならではだなとも思う。だからこそ、最初の型を作る時に、完璧なラインー輪郭を決めておきたい。 そう思いながら、相楽は何日も土と格闘していた。なかなか理想通りにならない土を、作っては壊し、練ってはまた積み上げて形をなぞる。それを繰り返している。 「ううう、あっちぃ」 10月に入り暦の上では秋だというのに、まだまだ暑い。座って作業をしている背中からも頭からの汗がしたたり落ちる。相楽は、首に巻いたタオルで何度も顔をぬぐいながら、作業に没頭している。親指の爪をどう表現するのか。手の皺はどの程度まで深くつけるのか。わずかな加減で、指先から発する圧力が変わるように見える。土の両手は、なかなか立花の面影を宿してくれない。 「うー。だいたいの方向性は、合ってるはずなんだけどなぁ」 一言弱音を漏らして、大きく溜息をついた。すると、すぐ近くで別の溜息が聞こえた。振り返ると、同じ研究室の学生が発砲スチロールをつついている。相楽の視線に気づくと目を合わせ、お互いににやりと苦笑した。 挫けている場合じゃない。何度だってやり直す。 「水、飲んどくか」 相楽は、一旦休憩にしようと手を洗うと、リュックの中の水を取り出した。ついでにスマホをチェックすると、メッセージが届いている。 開くと、うまそうなクロワッサンが焼きあがっていた。 「うっまそー」 「なんだよ」 思わず大きな声が出ると、作業場に入ってきたばかりの佐々木がのぞき込んできた。 「うわ、クロワッサン。これ、自分で焼いてんのすごくない?彼女?」 「違うよ。モデルになってくれたお菓子作るひと」 「なんだ、プロかよ。じゃ、当然じゃん」 「そうかなぁ。まだ店でクロワッサン食ったことないから、多分新作メニュー」 「あぁそういうこと?モデルさんと仲いいね?まぁ、トカゲばっか作ってたお前が人間をモデルにしてるんだから、そりゃそうか。美人?」 「美人?あー、男だよ。この人。金髪のかっこいい大人」 「へー。ま、でも男か女かなんて、関係ねぇし」 「関係、ない?」 「ないだろ。いい人か、悪い人か、好きか、好きじゃないか。そんだけ」 「確かに」 いい事言うねぇと相楽は佐々木と拳を合わせる。 「そういや、今は誰と付き合ってるんだっけ?」 「今は、油彩の子」 「と?」 「チェロの子」 呆れたと相楽が大げさに溜息をつくと、佐々木はにやりと笑ってその場を離れた。 その背中を目で追いながら、相楽はそうだったなと苦笑する。佐々木は、男女どちらとも付き合う男なのだ。そして、いつも複数と。相手に対してはとても不誠実で、自分には甚だしく誠実、というか正直な男だ。奴の人生に参考になるようなことはないと思っていたけれど、そうでもなさそうだ。 その人は、いい人?悪い人?好き?好きじゃない? 単純に、それだけの話だろうと佐々木は言う。相楽は、思わず納得してしまった。 スマホの中のクロワッサンは、早く食べに来いと言っていて、作業台の上の手は早く仕上げてくれよと追い立ててくる。 まずは、目の前の仕事をやり遂げなくてはならない。 相楽は、ペットボトルの水をごくごくと飲みほして、作業に戻った。 そして、相楽はその晩立花にメールを送った。 「元気ですか?俺は元気です。クロワッサン、食べに行くから待っててください」

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