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第9話 つかまえたいんだ

 またしても、相楽は閉じた扉の前に立ち尽くしていた。 梅雨時と違うのは、時間が夕方近いということと店の奥にも灯がともっていない事。そして、ぴっちり閉じられた扉には「臨時休業」の貼り紙が貼ってあることだった。  夏に始めたスケッチが、秋の深まった頃にようやく作品として完成した。半袖のTシャツばかり着ていた毎日が過ぎ、今日の相楽は長袖のパーカーに少し太目のデニムを履いている。そして、背中のリュックには完成した作品が入っていた。 「見てもらおうと、思ったんだけどな」 ぽとりと口から言葉が落ちて、閉じた扉に跳ね返る。鼻がガラスにくっつくくらい近寄っても、店の奥は伺い知れない。 困ったな残念だなと溜息をついても、伝えたかったお礼の言葉は宙に浮くばかりだ。 それにしても、臨時休業とは何事だろう。 貼り紙には、理由はなく、ただ全部で五日間のお休み日程が書かれているだけだ。どうしているのかと立花にメッセージを送ってみても返事はない。直接電話をかけてみたけれど、当然のように出ない。店長に直接連絡をとる方法も、ない。 だからと言って、このまま帰るのも癪に障る。せめて事情が分かれば大人しく帰るのに。モヤモヤした気持ちを抱えあぐねて西の空を仰げば、もう陽が暮れかかっている。 やっぱり、諦めきれない。 「怒られるかもしんないけどなぁ。うん」 家に行ってみるしかないと自分を鼓舞すると、相楽は店を通り越していつもの横道をまがった。 板塀に取り付けられた電子錠を押すと、難なく開いた。そっと裏木戸を開けて、庭に入ってみる。暗いけれど、荒れている様子はない。玄関にも、小さな灯りがともっている。どうやら、目当ての人はいるらしい。倒れてやしないかと縁側のガラス戸から中をそっとのぞくと、台所に見慣れた後ろ姿が見えた。 「ああ、だから電話に出なかったのか。それにしても……」 何かがおかしいと、頭の片隅でアラームが点滅している。台所にいるのはいつもの事なのに、どこか妙だ。 相楽は、すぐに玄関にまわって引き戸を開けた。その瞬間、この家ではするはずのない匂いがした。 熱くなった肉の匂いだ。 ─── 肉?何で? そう思ったら、たまらずに叫んでいた。 「立花さん!」 返事も聞かずに飛び込んだ台所では、換気扇が景気よくまわりガス台の上では湯気があがっている。そして、さっき見たままに、立花が立っていた。手にはお玉のようなものを持っている。 「立花さん?」 「なんだよ、相変わらず、声でけーな」 つい焦れたような声が出てしまったけれど、立花は顔を上げもしない。湯気のあがる鍋の表面を見つめたまま、力のぬけた声で返事をするばかりだ。何をしているのかと寸胴鍋をのぞくと、予想通り肉がごろごろ茹でられている。それも、骨付きの大きな肉だ。 「これ……」 何ですかと聞こうとしたけれど、言葉が続かない。どうしようかと立ち尽くしていると、鍋の表面では小さな泡が幾つもふわぁっと盛り上がってきた。 「ちょっと待ってろ」 立花は、真剣な面持ちで、網杓子で灰汁をすくい始めた。 「あの」 「待てっつってんだろ。すくっちゃわないとダメなんだよ」 これでも飲んでろと、立花は傍らに置いてあったグラスを相楽に押し付けた。 「は、はい」 相楽は、仕方なくグラスを受け取った。琥珀のような茶色の液体が入っている。なんだろう口を寄せると、濃厚な梅とアルコールの香りがする。 ─── 梅酒か。それにしても。 酒は飲まないんじゃなかったのかとか、肉を料理ってどういう事かとか、相楽の頭の中では質問が幾つも渦巻いている。 でも、待てと言われている。相楽は、グラスの酒をちびちび舐めながら、立花の隣で一緒に鍋を眺めることにした。 そうしている間にも、鍋表面の泡はどんどん増えて集まり大きく育っていく。そろそろ溢れるんじゃないかと相楽が心配し始めたその時、立花はさささっと網杓子を使って、大量の泡を全てすくいとってしまった。 相楽は、グラスの酒に口をつけるのも忘れて、その動きに見入ってしまった。 「よし」 立花の声に、相楽は詰めていた息を吐いて瞬きをした。改めて目を開いた先では、たっぷりの透明なスープに大きな肉が浮かんでいた。 時既に旨そうだと、思わず喉が鳴る。 次はどうするのかと聞こうとした瞬間、静かな湖面を打ち破るように赤い液体がどぼどぼと注ぎこまれた。続けて、手元の梅酒とは違う匂いが膨れ上がる。赤ワイン独特の発酵した果実の香りだ。 「全部入れちゃったんですか?」 「一口飲んだけど、あんまり旨くなかったから。いいっかなって」 事もなげに言う立花は、片手に空のワインボトル、もう片手には外したばかりのスクリューキャップを持っていた。 「はぁ」 相楽は、口をぽかんと開けたまま、立花の顔をぼんやりと眺めてしまった。 シャロンの前に到着してから今まで、それほど時間は経っていないだろう。なのに、次々と予想外の状況が目の前に立ち現れて、すんなりと飲み込めない。どうしようもなくて、つい開けたままの口にグラスの酒を流し込んだ。途端に、軽くむせた。 「んんっ。結構強いですよね。これ」 「ん?ああ、悪ぃな。梅酒は濃いほうが旨いから」 「酒、飲まないんじゃ?」 「日頃はな。飲めば底なしだけど」 「一体、何が」 「お前こそどうして来たんだよ」 「店に臨時休業って。あ、作品を見てもらおうと」 「あー……完成したって、言ってたな」 そう言いながら、立花は菜箸を鍋に突っ込んで、ぐるりと大きくかきまぜる。肉と骨が、赤い煮汁の中で浮いたり沈んだりしながら煮えていく。 「さすがに、ちょっと生々しいか。お前、これ食える?」 「はい。旨そうですよ?」 「旨そう、ねぇ」 立花は、何か思案気に首をひねりながら、いくつかの瓶から粉や葉を鍋に投げ入れた。多分、香辛料やハーブだろう。 その様子を見て、相楽は立花が包丁を持たない理由を思い出した。 包丁を持ったら、人を、父親を、殺してしまうかもしれないから。 確かに、それなら少々生々しい。 「色、変えましょうか。煮込んで、カレーにします?シチューとか?」 さりげなく聞こえるようにと、相楽は明るいけれど抑えた声で提案してみた。 「カレーがいい」 立花は、ほっとしたように目じりを緩めて、小さく笑った。 ☆ 「ひと段落ついたなら、ちょっといいですか?」 使った道具を洗っている立花に、相楽が声をかけた。疲れているなら、またの機会にしますと付け加えると、立花は泡だらけの手をヒラヒラと左右に振った。気にするなということらしい。 「新しいグラス、そこから一個だして。酒、作り直すから」 相楽は、言われた通りにグラスを並べた。洗い物を終えた立花は、二個のグラスにそれぞれ梅酒とソーダを注いだ。ちなみに、立花と相楽では、酒の濃さがかなり違う。 そのグラスをそれぞれに持って、縁側に座り込んだ。 窓の向こうはどんどん暗さを増していて、庭の草木に太陽の残り火がかすかに揺れている。 「ここ、ちょっと寒くなってきたなぁ。ああ、待たせて悪かったな」 「いえ。こっちこそ、急におしかけてすみません。立花さん、本当はお酒強いんですね」 「飲んでも飲まなくても変わんないから、日頃は飲む必要ないの」 ということは、今日は飲む必要があるということだ。 「何か、あったんですね」 「あー。まぁ。うん」 立花は、曖昧な返事をして、しばらくグラスを眺めていた。時々ちらりと相楽の様子を伺って、じっと待っているのを見て口をへの字に曲げている。 「言いたくないなら、いいんです。元気でいてほしいだけなんで。じゃ、俺の話。先にしてもいいですか?」 勿論と、立花は大きく頷いた。 ほっとしたように笑った相楽は、背負ってきたリュックの中に手を突っ込んだ。二人の間に置かれた包みの中から、完成した立花の両手が現れた。 「できたか」 立花は、ぱっと破顔して、作品に顔を寄せた。 「持っても大丈夫ですよ」 どうぞと、相楽が立花の手に作品を乗せた。 「え、うわ、意外と重い」 立花の口から、感じたままの言葉がぽろぽろとこぼれる。作品を持つ手もぎこちない。それも次第に慣れて、色んな角度から見たり触ったりしはじめた。作品を、楽しんでいる様子もみてとれる。相楽は、どうでしょう?と聞きたいのをぐっとこらえて、立花が見終わるのを待っていた。 しばらくすると、そっと作品が床におかれた。 そして、相楽が口を開くより早く、立花が確信的なことを尋ねた。 「なぁ。この手、この後どう動くイメージ?握る?開く?」 「最初は、右手で左手を力強く握る方向で考えてたんですけど、出来上がったら違いました。どっちも開きます」 「開くのか」 「はい。次は、もっと大きく作ります。立花さんの両手を大きく開いて、その手のひらに、この家の庭を作って花を咲かせます」 そう言って、相楽はスマホの画面を見せた。そこには、両手を広げたラフスケッチが映し出されている。 「手の中に、庭」 立花が呟くと、そうですと相楽が嬉しそうに頷く。二つ並べた手のひらの、くぼんだ掌(たなごころ)に沢山の草と花の咲く庭が広がり、小さなカナヘビが指にからまっている。 「くすぐったそうだな」 「そうですね。湿度とか柔らかさとか、育っていく感じとか、そういうものができたらいいなって」 「俺の手の上で?」 「はい。立花さんの手から、産まれるんです」 「芸術家の想像力は、恐ろしいな。よくそんな事を思いつく」 「モデルがいいからですよ」 「まさか。それに、そのうち飽きるだろ?」 「いいえ」 立花は、軽口のつもりだった。なのに、相楽の答えが妙に真摯に響く。え?と目を見たら、まっすぐに立花を見つめていた。 「何?」 「冗談でなく、できれば長く傍にいさせてほしいんです」 相楽の言葉に、立花は静かに狼狽えていた。視線が揺れて、口を何度か開けては閉じて、それからやっと一言絞り出した。 「傍っ……て?」 「傍は、傍です。一番近くにいさせてほしいんです。うっとうしいですか?」 「そんなことは、ないけど……」 そうじゃないけどと、何度も繰り返して、立花はぎゅっと眉間に皺を寄せたまま黙ってしまう。 困らせてしまっているなと思うけれど、相楽としては引っ込めるわけにはいかない。何か言い始めてくれるか、自分が何か言うタイミングがくるか。そこまでじっと待つしかない。 あんまり見つめているのも良くないかと、グラスを持ち上げて空だと気づいた。仕方がないと床にもどすと、その音で我に返った立花がはっと顔を上げた。 「ちょっと俺の話も、聞いてもらおっかな」 そう言って、立花もグラスを置いて体の向きを変えた。並んで座っていたのに、向かい合う恰好だ。 ─── きっと聞きたかったことを、話してくれる。 そう直感した相楽は、少しだけ背筋を伸ばした。 「俺、酔ってるように見える?」 立花は、意外なことを口にした。どう話が続くのかわからず、相楽は思った通りに返事をした。 「酔っぱらってるようには見えないですけど、いつもと同じ、でもない気がします」 「そっか。実は、親父だった男が、死んだんだって。それを、あっちの身内が元母親に知らせて、元母親が有実ちゃんに知らせてきたんだよ。一昨日だったかな」 「亡くなった、んですか」 「そ。だからしばらく店は休み。有実ちゃんが、後始末してくれてる」 肉の匂いを嗅いだ時から、父親が関係しているだろうとは思っていた。しかし、亡くなっているとは思ってもみなかった。 「でも、悲しいって感じじゃないですよね?」 「まぁな。お前も知ってるだろ。俺を無視して、なかったことにした男だし。死んだなら、それでいい」 そう言いながら頭をゆるゆると振るから、金色の髪がゆれる。まるで、一抹のさみしさと解放感が揺れているようだ。 「で、肉を?」 「そ。もう、俺があの男を殺す心配ないだろ?包丁を持っても大丈夫。だから、骨付きの肉ごろごろ買ってきて、がんがんさばいて鍋に突っ込んだ。でも、美味しくいただくって感じにもなれそうになくて。捨てようかどうしようか迷ってたところに、お前が来た。カレーにするって言ったのお前なんだから、責任もって食っていけよ」 「はい。で、……すっきり、しました?」 「しねぇな。でも、ほっとした」 「なら、良かったです」 そう?と答えながら、立花はグラスを持って立ち上がった。そして、台所と往復して酒を作りながら、どうやったら人間がバラバラにできるかを説明しはじめた。  最初に筋や腱を沢山切って、間接の隙間に工具みたいな堅い棒を突っ込む。梃子の容量でがっと力をかけたら外れるらしいよ。内臓に傷をつけると大量に出血するし、中から飛び出しでもしたら始末に困るから、胴体はばらさない。腕と足と頭に分けて。足は、膝と足首も外して。やるならやっぱり風呂場がいいな。排水溝があるから、万一の時も血液を全部流して捨てられる……。 淡々と話し続けた立花は、自嘲するように小さく笑った。 「そんな事ばっかり考えてた時期があって、そんな事をしてしまいそうな自分が怖くなって、ビビッて逃げてた。……それでも、お前は俺の傍にいたい?」 立花の言葉を、黙ってじっと聞いていたら、突然相楽の手のひらに未来のボールが置かれた。 どうだ、困るだろう、悩むだろう?と。 けれど、相楽はためらわなかった。 「はい。傍にいたいです。この際なんで、はっきり言わせてもらっていいですか?好きです」 「こっちの返事聞く前に、言うなよ」 「でも、気づいてましたよね?俺が、どう思ってるか」 「そりゃ、まぁ、嫌われてないだろうなとは思ってるけど」 立花は、言いにくそうに口をとがらせている。まるで、はっきりさせることから逃げるように。でも、相楽は目の前の男を逃がしたくない。 「知り合いや友達じゃないです。モデルとアーティストでもなくて、俺は」 畳みかけようとしたところを、ちょっと待てと手で制された。 「立花さん?」 名を呼ばれた男は、急に酒がまわったとでもいうのか、顔を真っ赤にしている。 「お前、男と付き合った事、あんの?」 「ないです。でも、好きか好きじゃないか、それだけだよって教えてくれた奴がいて」 「そいつ、無責任だろ」 大きく溜息をつきながら、立花は両手で顔をおおってしまう。けれど、見えている耳や肩は、嫌そうに強張ったりしていない。 「俺が、男は無理って言うかもしれないとは?」 「それは思いましたけど、二度と会えなくなるようなことはないかなって」 「自信あった?」 「多分。見てたんで」 古い小さな家を包む秋の空気は、冷えた濃紺の夜に変わった。けれど、二人の間の空気はふわふわと暖かい。あと少しだけ気持ちが傾けば、甘く香りはじめるに違いない。 相楽は、思い切って立花の両手首を握った。そして、ゆっくりと隠れた顔を覗き込んだ。 「どうしても嫌、とは、思ってないですよね?」 「なら、押してみれば?」 強がっているのか、悪ぶっているのか。きっと照れているのだろうと相楽は思う。 「それじゃ、俺、卑怯じゃないですか?」 「卑怯なのは、俺だろ?」 「どっちも卑怯なら、問題ないでしょ?立花さん」 「ん」 「連さん」 「ん」 「好きです。俺の大事な人に、なってください」 まっすぐに伝えられる言葉と視線が受け止めきれなくて、でも拒めなくて、目の奥が熱くなってくるのがうっとうしい。立花は、眉をゆがめてじっとしているほかない。 頭の中も真っ白で、言葉が出てこない。そんな男を、相楽の腕がゆっくりと包み込んだ。金色の髪に鼻をこすりつけると、しっとりと暖かくてスパイスの匂いがする。 「好きです」 「う……、ほんとに?」 「ほんとです。大真面目に」 「莫迦だろ」 「そればっかり」 相楽は、立花のくしゃくしゃの髪に指を入れて、そっとなでた。すると、体の力が少し緩んだ。 「連さん」 名を呼ぶ声が震えて、心臓がバクバクと音を立てて走っているけれど、気にしない。相楽は、唇でそっと立花の頬に触れてみた。ぴくんと揺れて、でも硬い体は逃げたりしない。 ああ、可愛い。 そう思うと止められなくて、額や瞼に触れて唇のすぐ近くにも押し当てた。 「連さん」 「聞くなよ」 小さな小さな声で強がる立花が、どこまでの気持ちでいてくれるのかはわからない。でも、今は。自分の思いを丁寧に差し出したい。 「好き、です」 腕をゆるめて、頬に手をそえて、そのままそっと唇を重ねた。 優しく優しくと念じながら。 甘い酒の香りに酔いながら。

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