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第10話 林檎の花の下で
子ども同士のような、キスをした。
そっと触れて、ゆっくり離れた唇を目で追っていくと、相楽の眉が心配そうに下がっている。立花は、大丈夫だと小さく頷いた。
すると、見る間に頬が緩んだ。ほっとしたのか目尻も下がって、なんとも締まりがない。
なんだその顔は。
立花は、ひどく恥ずかしくなって、額を相楽の胸に押し当てた。
頭の上で、小さく笑う声が聞こえた気がする。名前を、呼ばれた気もした。でも、答えらえないし顔もあげられない。
背中に回された腕が、自分をしっかり抱きしめていて、それすらなんだか悔しい。
「余裕だな」
ぼそりと呟くと、髪をくしゃくしゃとかき混ぜられた。
「何だよ」
思わず顔をあげると、目の前には嬉しい嬉しいと目を細める相楽がいた。
「俺が、いいの?」
「そうですよ?連さんが大好きなんです」
嬉しくってたまんない。そう囁く相楽の顔は、さっきから緩みっぱなしだ。
「お前も、俺も。莫迦ばっかり」
「いいんですって」
本当に嬉しいんだと、相楽は立花の体をさらにぎゅっと抱き寄せた。頬と頬が重なって、立花も両腕をそっと背中にまわす。
「お前が好きかはわかんないけど、一緒にいるなら、俺はお前がいい」
立花に言えたのは、そこまでだった。
けれど、今はそれで十分だ。
相楽は、その後も金髪や鼻の頭や頬にキスをして、立花にしつこいと怒らた。
☆
そんな事があってから、立花は少し変わった。お菓子を作る時、相楽のことを思うようになった。
今までだって、きちんとしたお菓子を作ってきた。けれど、それは助けてくれた有実子と喫茶シャロンと自分のためだ。自分の居場所を確保するために、有実子が店に並べたいというお菓子を作ってきた。
でも、今は違う。
見て、食べて、喜んでほしい。そんな人ができた。
そうしたら、視界が大きく開けた。
もう、包丁だって怖くない。切り傷ができても、それは自分の責任だ。滲む血を睨んで、父や母を恨んだりしなくていい。
結果として、メニューは広がりをみせ、有実子も客も喜ばせた。
洋梨のムース、二種類のブドウゼリー、南瓜のスコーン、マロンクリームを添えたプリン、ナッツのパウンドケーキを焼いたりしているあいだに、リンゴの季節がきた。
ある日の午後、布団にくるまってゴロゴロしながら動画を見ていたら、美しいケーキを見つけた。
それは、一人用の小さなレアチーズケーキで、赤いリンゴの花びらで埋め尽くすように飾られていた。
これだと思った。
タルトの上に、リンゴの花を咲かせてみたい。
ただ、そのまま作るのは芸がない。立花の好みからいっても、チーズの上にはベリー類だ。苺か、ブルーベリー。ラズベリーでもいい。
リンゴなら、土台はクレームダマンド、いやカスタードがいい。
立花は、早速小さなリンゴを買ってきた。紅玉(こうぎょく)という、お菓子作りにぴったりの品種だ。それを、色んな厚みのイチョウ切りにして煮てみようというわけだ。
紅玉は、赤い皮と実を一緒に煮ると、うす黄色い果肉がサーモンピンクに染まる。それはとても優しい美しさだけれど、ちょっと長く煮るとすぐに形をなくしてしまう。
違う品種がいいかと思ったが、うまく色がつかない。
ちょうどいい厚み、ちょうどいい色、ちょうどいい甘酸っぱさを追い求めて、何日もリンゴを煮た。合間にカスタードタルトを焼く練習をしたけれど、こちらは味見用を残して全て店の商品になった。
「最近、カスタードばかりね?」
有実子には、品揃えもちゃんと考えてる?と釘をさされた。せめてもと、添えるジャムやナッツ、クリームをいくつも用意した。
そして、なんとか試食用第一号が完成した。
一つは有実子に、一つは自分で、もう一つは相楽に食べてもらいたい。
写真をとって、「食いに来いよ」とメールを送った。
その頃、相楽は毎日真面目に制作に励んでいた。できれば、良い成績を残したいという真っ当な願いと、つい楽な方法に逃げたくなる自分との戦いだ。そこへ、息抜きの誘いのように立花からメールが来た。貼付されていた写真は、旨そうというよりも美しい。
「これ、食えんの?」
どんなケーキか、説明がまるでない。いつ来いという指定もない。相楽は、行きます!と返事を送った。
☆
ケーキを美味しく食べるには、作ったら即いただくのが鉄則だろう。相楽は、大学を出てまっすぐ立花の家に向かった。いつもの電子錠をあけると、爽やかな秋の空気が庭に満ちている。玄関を開けると、甘酸っぱい匂いが漂う。その香りの帯をたぐっていくと、台所に立花がいた。
「お邪魔しまーす」
「おう、来たか」
背中を向けたままの立花は、鍋から何かを掬って瓶につめている。
「いい匂いですね」
「リンゴ。ジャムにしたんだ」
ガラス瓶は、サーモンピンクのペーストで満たされている。
湯気の立ち上るその瓶に、きゅっと蓋をしめると出来上がりだ。
「めちゃくちゃ綺麗ですね。紅玉ですよね」
「知ってんの?」
「俺の地元、リンゴが特産で」
「なんだ、そっか。じゃ、今回のケーキは珍しくもないか」
「そんな事ないです。あんなきれいなの見た事ないです!」
「うん。まぁ、せっかく来たんだし、食ってくか」
「はい。でも、」
「ん?」
元気だった声が、少し言い淀むように小さくなった。立花は、相楽のほうに一歩身を寄せた。
「どうした……って!」
何かあったのかと近寄ったのを待っていたかのように、相楽は立花の体をぎゅっと抱きしめる。
「なんだよ!」
「連さん。会いたかったー」
「来ればいいだろ。来ないのは、お前の都合で」
「んー、そうなんですけど、わかってるんですけど、やっぱり嬉しいなぁって」
「莫迦か」
離れようともがいていた立花は、諦めたように立花の肩に頭を預けた。
「俺は、ずっとここにいるでしょうが」
「はい。連さん」
「ん?」
「好き」
「知ってる」
いいから放せと、立花は相楽の胸を強く押し返した。
「とりあえず、食って感想聞かせろ」
それがお前の今日の仕事だと、相楽の目を睨んで言い放つ。その様が可愛いと、相楽はにっこり笑って頷いた。
冷蔵庫から取り出されたのは、手のひらに乗るくらいの小さなケーキだ。
「一応タルトで、クッキーみたいな硬いケースの中にカスタードクリームがつまってて、表面に薄く切ったリンゴが並べてある。っていう、まぁ、そういうやつ」
大雑把な説明を聞きながら、相楽はいつ食べてもいいのかと、じっと待っている。まるで、おあづけをくらっている犬のようだ。
その、旨いに決まっているとでも言うかのような様子が、嬉しいけれどどこか照れくさい。そんなに俺を信用していいのかという気がしないでもない。
「あー、じゃ、どうぞ」
「いただきます!!」
待ってましたと、相楽はフォークを手にとった。
そして、リンゴの花びらに分け入ろうとして手をとめた。
どうしたのかと見ていると、相楽はフォークを一度下ろして皿を両手で持ち上げた。目の高さに掲げたケーキを、あちこちからつくづく眺めているのだ。その目は、何かを作る人間の目だ。
「このリンゴ、並べ方少し変えると、もっと沢山のせられますよ。花びらの密度をあげられます」
「マジ?それ、後で教えて」
「はい。じゃ、改めて」
相楽は、やっと納得したのか、フォークを手にとった。そこからは、早かった。
ざっくりとケーキを半分に割り、さらに半分に割り、四つに切り分けたものをそれぞれ一口づつで食べ終わってしまった。
「うんまいでふ」
「食い終わってから話せばいいだろ」
慌てんなと口の悪い立花だが、顔は笑っている。
旨いものを作りたいと思った。見て楽しめるケーキを作りたいと思った。それを、相楽に見て食べてほしかった。その全てが一瞬で叶った。
ずっとただの肉体労働だったものが、そうではなくなった瞬間だと言ってもいい。
少し大げさだなと、自嘲したい気持ちも湧いてくる。それでも、立花はやっぱり嬉しいと感じることを止められなかった。相楽の、食べる様子が愛おしくてたまらなかった。
☆
「ご馳走様でした!あ!でも、このタルトあと三つは食えます」
「そんなにあるかよ。あと、これ店では一皿480円だからな」
「結構しますね」
「飲み物とのセットでご注文ください」
しれっと言い放つと、相楽はにっこりと顔中で笑った。
「で、リンゴの並べ方なんだけど」
早く教えてほしいと、気が逸る。
「はい。ちょっと待っててください」
相楽は、リュックから小さなスケッチブックを取り出した。
「絵で?」
「はい。多分描いた方が早いんで。ちょっとだけ、待っててください」
そう言いながら、相楽はもう鉛筆を走らせている。こうなると、止められないだろう。立花は、とりあえず皿を片づけることにした。
しばらくして、湯を沸かしてお茶を入れ終るころには、鉛筆が止まった。
「できた?」
「はい。ざっくりですけど、こういう事かなって」
そこには、立花が作ったケーキのスケッチと、リンゴの重なりだけを描いたものが二種類あった。
「連さんが作ったのがこれです。一枚ずつがきれいに見えるように、重なる部分を少なくしてますよね?その分、花が大きく開いた感じに見えます。うーんと、三段重なってるんですけど、印象としては大きな一重咲き?みたいな」
「うん。続けて」
「で、こっちなんですけど」
そう言って、示された花は、八重咲のバラのようだ。
「理屈だけでいけば、今の大きさの花びらを半分以上重ねて高さも出すと、こうなるんです。けど、多分、厚みが出すぎて斜めになっちゃうと思うんです。だから、厚みを薄くするか、幅を半分にしたパーツを作って、隙間を埋めるようにしたらできるんじゃないですかね」
どうでしょうと見せられたスケッチは、確かに豪華だ。
ただ、ケーキとして出す場合、リンゴが多すぎで形が崩れないだろうか?多すぎて、シロップがタルト生地を湿気させてしまわないだろうか。折角考えてくれたけれど、そのまま採用できるとは限らない。
「一度、やってみる。でも、そのまま商品になるかどうかは、正直わかんない」
「あ、はい。もちろん」
わかっていますと、相楽は頷いている。
「え、嫌じゃない?」
「何がですか?」
「折角考えたのに、そのアイデア使わないかもって言ってんだよ、俺」
「全然。嫌じゃないですよ。こればっかりは、やってみないとわかんないし。俺の作るのも、そうなんで」
「そう?」
「はい。スケッチではうまくいくと思っても、素材と合うかどうかは、やってみないとわかんないんです。紙の上でできることが、簡単に形になることはあんまりないんです」
「そういうもん、なの?」
「はい。だから、沢山アイデア考えて、沢山捨てるんです。もしかして、似てます?」
「似てる」
立花は、何とも言えないショックを受けていた。
小さな台所で作るお菓子と相楽の目指す芸術に、共通点があるなんて。
「連さん?」
「ん?」
「俺のやってるのは、まだまだ学生のお遊びですけど、いつか連さんみたいにお客さんを呼べる職人になりたいって思ってます。今の俺が、連さんの役に立てたんなら、それが一番嬉しいです」
本当ですと、相楽はまっすぐ立花を見つめる。その目には、信頼や情熱や優しさがまじりあっているように見える。
立花は、心のうちで白旗をあげた。
「相楽、えっと、下の名前、なんだっけ?」
「へ?ひとし、です」
唐突な質問に、相楽は少し戸惑う。
「うーん、いまいち言いにくい。やっぱり相楽でいいや。なぁ相楽」
「はい?」
立花は、相楽の腕をつかんで強く引き寄せた。
「お前、俺のこと、ほんとに好きなんだな」
「はい」
そうですけど?と頷こうとして、その顎を強く握られた。
「連さん?」
「俺も、お前んこと、好きみたいよ」
そう言って、立花は相楽の腰に片腕を廻した。ぐっと密着した体が熱くなるほどに。
「れ、ん」
「ちょっと黙ってて」
突然のことに驚いている間に、相楽の唇に唇が重なった。
すりっと擦り合わさって、互いの内側が少しだけ重なる。それが嬉しくて、立花はもう少しだけと角度を変える。
「んん」
すると、相楽の舌が立花の唇を濡らした。
濡れてることだけはわかったけれど、そこからどうしていいかわからない。立花は、相楽の欲しがるままに口内を明け渡した。
☆
がたっと椅子が揺れて、崩れかけた体を支えようと手がテーブルを掴んだ。
それを機に、相楽は立花の体を抱えなおして、胸に深く抱き込んだ。
ドキドキと逸る鼓動と膨らんではへこむ肺の動きで、互いの体が小さくぶつかる。互いの気持ちが、触れ合ったままの膝から通っていく。
「お前、明日も来る?」
「いい?連さんがいいなら、来たい」
「じゃ、明日は泊ってく?」
恐る恐る尋ねると、相楽は立花の顔を覗き込んだ
「いいの?」
「だから、来いって」
言ってるだろうの言葉は、出せなかった。直接吸い取るように唇が覆われて、体の内側から溶かされてしまった。
この幸せが、もっと大きくなるなら。
この幸せが、長く続くなら。
立花は、相楽が欲しいと願っていた。
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