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絆創膏(第5話)

「……はっ!」  目を覚ますと白い天井が真上に広がる。ソファから見た慣れた光景に安心するも、眩しさに細目になった。どうやら点けたまま寝落ちしたようだ。  重い身体を起こし、数回深呼吸をする。心臓はドクドクと音を立て、背中にべったり汗をかいて気持ち悪い。 (やっぱり、シャワー浴びよう)  お湯で汗を流せば、スッキリして眠れるだろう。 「……はぁ」 (大丈夫。今日は泣いていない)  目の端に指を触れても慣れなかった。そうだ、大丈夫。  あれはゆめだ。そう割り切ってソファから足を下ろし、バスルームに行こうとするとゴミ箱に躓き、前に転倒した。 「いたた……。あー……」  先に打ったお腹をさすりながら体を起こすと、花柄の小さなゴミ箱から丸めたティッシュやら破いた茶封筒が散乱していた。抜けた毛の多さも目立ち、ため息が出る。 「明日、少しは掃除するか」  脱ぎ捨てたままの服や、畳んで積んだタオルが倒れていたりと一人暮らしとはいえ、汚い。母がいかに偉大だったか苦笑いしつつ、ゴミ箱から散らかったものを片付けていくと、あるものに気づいた。 「絆創膏……?」  折り畳んであり、何か数字が書かれている。それを広げるとマジックで書かれた携帯番号があった。まるっこく可愛らしい字体だ。 「誰のだろう?」  連絡先欄の番号と照らしてみても同じ番号はなく、字体も知らないものだ。  ふと、店長の言葉が脳内を過ぎる。 『樫クン、遅刻はダメだけど連絡無しはもっとダメだよ?』  坂下さんが帰った後、今朝の失態について注意を受けた。店長の顔には「迷惑」より「心配」の二文字が濃く浮き出ており、心から謝罪した。  謝罪をした後、店長の飲み会仲間の田中さんが来てしまい、即解散になった。  中村書店の正社員である僕の出勤時間は朝九時。このアパートから徒歩二十分以内にある書店には普段から八時半にはもう入っており、店長と一緒に新刊の荷出しや掃除を行なっている。  今朝目覚めたのは九時五分。完全な遅刻だったがお漏らしの後始末に追われ、全速力で走って店に着いた頃には十時頃。店長に謝罪をし、すぐさま仕事に取りかかった。 「確か……」  まだ目はしょぼしょぼして眠気は完全に取れていない。妙に頭と腰が重い。  胡座に座り直すとソファのスプリングが揺れる。目覚まし時計を見て一気に目が冴えた。  今朝起きた場所もソファの上。一枚しかない羽毛布団を掛けて眠っていたが、 「何にも着てなかった……よな?」 『寒いなぁ……今なん、って、ああっーー!? 遅刻だああっ!! 服、服!!』  惨状を思い出せば身震いが起こる。恐る恐るジーパンの中に手を突っ込み、前に移動させる。じんわりと汗をかいているが、穿いている。よし、大丈夫だ。 「と、なると……」  もう一度頭をフル回転させる。過去へ意識を飛ばす。 (それから慌てて起き上がって、タンスからパーカーを引っ張りとりあえず着替えた。それから洗濯して……) 『なに、これ?絆創膏?』  家を出る直前、肉弾になった腹とシャツ生地の間に違和感があった。しかし、急ぐことが最優先だったため、それを折ってゴミ箱に投げ捨てた。 「そうだ。その時だ……。でも、なんで腹に絆創膏なんか……」  何があったのか必死で頭を働かせる。だが、それ以上は頑張っても記憶がな── 『お兄さん、大丈夫?』  電灯が色めく繁華街。暗闇で泣き崩れた僕へ声をかけてくれた金髪の女性。  ひんやり柔らかく、大きな手が汚れた手を包み込んでくれた。  朧気なのに、感触と姿形と胸の奥が温かくなったのはハッキリと覚えている。 「……ゆめだよね?」  きっと新しい恋が早々に終わりを告げたせいでゆめを見ていたに違いない。意識も朦朧としていた。だって初対面の人物が僕みたいなデブのSubに声をかけるはずなんかないんだから。 (ゆめじゃなかったらどんなに良かったか)  胸がきゅぅうっと苦しくなり、視界が涙で滲む。 「……っ、ぅう……っ」  今年で三十路。デブで自己評価の低い、過去を未だに引き摺る自分に彼女がいた事もなければ、人口的にも少ないSubの男の僕を恋愛として好きになって貰えるはずなんてなかった。報われるのはほんのひと握り。  昨夜も食事をしただけなのにそそくさと帰られてしまった。最初のデートだから仕方ない。「今夜はありがとう」の既読はつかなかった。 (誰か、誰か僕を認めて、褒めて、まるごと愛して……)  その誰かはSubの欲求を満たしてくれるDomだ。SwitchでもDomになってくれる人物しか無理。僕か会ったのはSubの女性で、言わずもがな悠治はそっち側だ。 (でも、こんな醜い自分を好きになってくれるDomの人なんていないんだ……)  鼻の奥が痺れ、泣いてしまう。 (誰も、誰もいないん……だ……! 僕には……!) 『いい子、いい子ぉ……』  優しく頭を撫でる手。優しく囁く声。あの時、自分を認めてくれたような声がした。 (もしかしてこの番号って……あの人の?)  ドクンドクン、ドク。  Domに長年支配されず、愛されることを知らない僕は荒ぶる感情に理性を奪われた。 (怖い。怖い。繋がるとは限らない)  スマホを手に取り、キーパッドに数字を打っていく。啜り泣きで間違い電話する相手にドン引きされるかもしれない。記憶の中にいる女子より酷いことを言われるかと。 (けど、本当にあんな素敵な人がいてくれたら)  自分の手を取り、おもらしした僕のことを汚いなんて言わなかった彼女が存在していたのなら。DomでもSubでもSwitchでもいい。  確信なんてない。迷惑かもしれない。けど、けど。  また、声が聞きたい。会いたい。 「愛してくれるチャンスを僕にください……!!」  親指が震えたのはほんの一瞬で、勢いよく通話ボタンを押した。 ──トゥルル、トゥルル。  ドクンドクン、ドクンドクン。  呼び出し音に呼応し、心音は早鐘になっていった。 ──ルル、トゥルル……ガチャ。 「はい」  綺麗な高い声が耳に入ってくる。脳が痺れ、目を見開く。 (……いたんだ!)  嬉しさと驚きと戸惑い。色んな感情が湧き出てくる。  間違い無くあの人の声だった。昨夜会った人物。パクパク閉開する口に言葉を乗せる。 「あ、のっ……さ、昨夜、助けていただいた者です……! 電柱にぶつけたところを介抱して下さり……あ、ありがとうございまひっ、」  噛んだ。思いっきり舌を噛んだ。血を飲み込み、垂れた鼻を啜ると噎せた。 (他に何か伝えることは無いかな? それとも、いきなりかけて申し訳ありません……なのかな。それ以前に電話してごめんなさいかな?)  感情任せで電話した自業自得のせいだが、プチパニックを起こしてしまう。すると電話口から「あの」となんとも爽やかで鼓膜を擽る声が響いた。 「それから僕、樫 日和という者です!」  自分の名前を伝え忘れることが新人の頃に度々あり、当時はメモを作ったくらいだ。 (あ……どうしよう。何してんだろう、僕……)  踏んだり蹴ったり。もうめちゃくちゃだ。狂人とさほど変わらない。通話が切られないことを不思議に感じていたら向こうで笑い声がした。  先ほど見たばかりか昔のことが鮮明に過ぎり、スマホを握る手に力が入る。 「急に笑って失礼だったわよね。初心なところが可愛らしくて」  可愛い。似合わない評価に胸がとくん、と跳ねる。 「携帯番号、見てくれたの?」  机の上に広げた絆創膏を目に入る。ハート柄だった。 「は、はい! 昨夜は本当に声をかけてくださりありがとうございました。それから、突然電話してしまい、すみません……」 「大丈夫だよ? むしろ、電話を待ってたし……」 「待ってた……?」 「あれれ。『いつでも電話していいよ』って部屋に送った時に伝えたんだけど……。泣きながら寝ちゃったから覚えていないかな」  相手に苦笑めいて答えられ、疑問を抱く。 「部屋に……送った?」 「え、もしかしてそこも覚えていない?」 「お、覚えていない……です……」  苦し紛れに吐いた言葉。しんとした空気が気まずい。 (嘘でも覚えたって言えば良かったんじゃ……)  逃げるように男子校に進んだ僕は女心なんてわかるわけない。  しかしながら正直全く覚えていない。携帯番号が合っているということは相手が嘘をついていると思えないし、ただでさえ前科があるので嘘をついたら失礼にあたる。  互いに沈黙が続けていたが、その空気を破ったのは意外にも彼女だった。 「ぷっ、ははは!! 嘘をつけないのも、いいね〜」 「………え?」  また笑っている。大きく笑っている。  面を食らったが、ざっくばらんな笑い方に良い印象を持ってしまった。電話越しなのにすでに彼女に惹かれている。 「ふー……。そのまんまの意味。嫌いじゃないよ、むしろ好きだよ、っていう意味」 「好き………」  胸がキュンとする。深い意味はなくても久しぶりに聞く好意の言葉に嬉しくなってしまう自分がいる。  もっと聞きたい。落ち着きのある優しい声をもっと聞きたくてスマホに耳を近づける。 「それからね、昨日おもらししちゃったズボンなんだけど……」  道端に黄金水を盛大に撒き散らしたのは事実のようだった。  あまりにも淡々と話す様子に反応が遅れたが、羞恥で顔に熱が集まる。トイレが近かったとはいえ、デブなオッサンが綺麗な女性の前で放尿したのだ。 「その折につきましては本当に……」 「そろそろ綺麗になったはずだから、明日、取りに来れるかな?」 「……え?」 「君のジーパン。私が持ち帰って洗ったのね。もう乾いたはずだから、近いうちにお店に取りに来れそうかな?」 「それとも、今週は難しそう?」と聞き返す彼女の真意はわからない。だって、ジーンズは今タンスの中にあるのだから。 「仕事もあって難しいよね。うんうん。なら、来週にでも」 「行きます! 大丈夫です……!」  即答した。きっかけはなんだっていい。彼女にまた会えるチャンスがあるのなら考えずに突き進まねば。幸運にも明日は仕事が入っていない。 「そっか、ありがとう。私、サキって言うの。それじゃあ、今からお店までの地図を教えるね……日和さん」  こんなにも自分の名前を呼ばれ、キュンキュンするなんて。 (もっと呼ばれたいな……)

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