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子豚(第18話)

 走る。走る。走る。 「はっ、はぁ、はっ、はあっ、はっ!!」  荒く出た息が頬から耳に流れていく。裸足がインソールを掴み、中でぐちゃぐちゃになる。今は気にしていられない。 (サキさん……サキさん……!!)  頭が先か体が先か分からない。でも、サキさんに会ったら何か分かるはずだ。 「あった。看板だ……っ!」  昼間とは違い、白と赤い薔薇の電飾で彩られた黒板。白チョークで『イベント中』と手書きの矢印が書いてある。さらに進んでいくと何人かが階段から上がってくるのが見え、隣の店の看板に隠れた。 「ハルお姉様、最高だったわ」 「私、もうミドリ君に踏まれてもいい!」 「パートナーにされてえ……」  口調から高揚している。イベントを堪能したお客さんだろう。漏れ出す欲望から同じSubに違いない。  彼らが去っていき階段を降りていく。あの日にはなかったOPENの札がかかっていた。 (……中から賑やかな音がする。イベント中だもんね)  ドア越しからでも激しい洋楽と笑い声がする。Bar自体、ここへ訪れた一度きり。内装の凝り具合にサキさんやハルさんのような美を備えたスタッフが他にいたらもう大賑わいだ。先ほど見たSubの高揚とした表情が中の盛り上がりと充実さを物語っている。  重低音に合わせて自分の心臓も高鳴っていく。きちんと見つけられるだろうか。  サキさんに会えばきっと分かる  通話にも出なかったのに勝手に押し掛けたら嫌われるよ、と理性。  悪い子になる覚悟はある。……ほんの少し。ちゃんと話し合えば詳細も教えてくれる。  僕は本命じゃない、欲を満たすだけのセフレだと言われたら?  わずかに残る理性を振り払い、深呼吸。 「……すぅー……はー……よし」  意を決してチャイムの柔らかいゴム生地に指を乗せると、扉が開いた。  出てきたのは若葉色ショートヘアの子。虹色のTシャツを左の鎖骨が隠れない程度ゆるく着用し、唇には不揃いのピアス。 (は、派手な子だなあ……スタッフさんかな……?)  身長は同じかそれより下のような子が大きな瞳でこちらをじっと見ている。観察してるように思えたが、一瞬のことだった。 「へえ〜、身体が疼いちゃって戻って来ちゃったんスか」 「な……ッ!? ち、違います……!!」  笑った口からきらりと光ったピアスがちらついた。 (怖いな……)  相手に対して失礼と承知の上で本能が警戒する。Subの僕が嫌だと。 「延長は高いっスが……まあ、どいつもオレの可愛いピグレットということには変わらないっスからね。お前の願いも叶えてやるよ」  伸びてきた手に肩を抱かれ、中に入った。 「あのっ、まっ!? ……えっ?」  驚愕した。シャンデリラと淡いライトが光る中、ソファに座った綺麗な人馬の男性器を舐めたり、目隠しされながらも咥えたりする四つん這いの全裸の人達が男女関係なくいた。中央ではヒールを履いた人にうずくまった人が踏まれたり座られている。先日、見た棒にはこれまた全裸の人が尻尾を付け、クルクルと回り踊っていた。 「さっ、おれ達も行こ」 「え、待って待って!?」  そのままグイグイと連れて行かれたのは、ちょうど真ん中。ステージのようになってる丸い台に上がると、多数の視線集まった。 (こ、怖い……っ!!)  足が一歩後ろに下がり、身体は震えてしまう。断定ではないが、視線を向けた人物のほとんどはDomだろう。  さっきの男の子を探していると、パイプ椅子を持ってきてこちらに歩いてきた。どこからか歓声が上がる。 「怯えてるの、ピグレット(子豚)いつものことっスよね?」  そのままそこに腰を下ろし、視線は僕に向けて笑顔を作る。 (目が笑ってない……) 「さあ、おれのピグレット。可愛くしてあげるから、こっちおいで?」 「あ……ぁ……」  手を差し出され、胸に纏めた手が伸びそうになる。 「大丈夫だよ。おれがいじめてあげるから」 「い、や……っ!」  震えて上手く声が出せなかった。今、彼のところに近付いてはダメだ。きっと、後悔する。 「僕は君のピグレットじゃ……」 「お座り(Neel)」  彼が唇を動かした瞬間、身体が重力に逆らえなくなる。ガクガクと脚が震えて膝は崩れかけた。 「あ……ッ、だ……」  会場が「ワッ」と盛り上がる。誰の何の演出に湧いてるのかさっぱりだが、少なくとも僕達も入っている。周囲が騒ぐ中、「あーあ……可哀想に」誰かが憐れに呟いたのを僕の耳は聞き逃さなかった。 「座れ、デブ」  冷たい視線が、命令が来た。屈する体も少年の言いなりでそのままペタンと尻をついた。重い腰も太い足も重力にきつく押されたように動けず、彼の視線から離せない。 (腰が抜けていく。迂闊に這いつくばってしまいそうだ)  全く動けない。 「命令を弁えない家畜には自由はいらないもんね。じゃあこれを付けてね、子豚」  手渡されたの首輪はパートナーや番の首輪とは違っていた。まるで、ベルトのような黒の首輪。  これを首に通せば人間に戻れなくなる──まともな思考が最後の最後に足掻こうと働いた。 「さあ、早くしろって」  にも関わらず、震えながら僕は首輪を受け取ろうとする。強く拒否したら無理矢理ハメられる恐れもあった。Domの少年は明らかに苛立っており、乱れた呼吸も命取り。  脳は警告と命令に従うことを器用にも同時に発令させ続ける。掴んだベルトは無機質でひんやりとしており、わなわな首へ付けそうになる。  セーフワードを決めずに従えばSub Dropは避けられない。最悪の場合、死に至る。  少年を窺えば強力なGlar、また周囲も滑稽に眺めている。 (たす……け、て……) 「あのさ」  少年と声質とは全く別物の低音が遮る。観客は戸惑い、ざわつき始めた。 「………ッ!!」  首輪をつける寸前だったが声は出なかった。視界にいたのは、青い制服を着た黒ボブショートの人物。 (ああ……もしかして……)  ドクンドクン、ドクン。 (ううん、もしかしてじゃない。きっと、彼は……)  期待と何かで胸の高鳴りが抑えられない。人違いだったらこの安堵は無意味なものになるというのに。  ピンク色の瞳が僕を捉えた。 「さ、さき……ッ」 「ミドリ。これ、オレに頂戴?」 ──えっ?  声色にいつもの優しさや温度の欠片もなかった。知らない音。彼の瞳の輝きは一瞬で消え失せた。 「ええ〜、これおれのピグレットなんスけど」 「後でアイス奢るから」 「まじっスか!? 先輩の奢りだうわあーい!」  その場でぴょんぴょん跳ねた緑の子は、サキさんとに抱き着くとキスをした。どんどん深まるキスはくちゅくちゅといやらしい音を立て、置いてけぼりを食らった。 (緑系とピンク系を混ぜると何色になるんだっけ。茶色? 紫……色?)  周囲の空気は最高潮に達し、緑色の子にキスを求め迫る客が大勢いた。 「交渉成立。行くよ」 「は、はい……!」  返事は出来たのに、体に力が入らない。僕にオーラをかけたミドリ君という少年は、もうステージの上から観客に手を振っているのに。 (動け、動け足……!!)  立たないとサキさんが行っちゃう。ここで再会した運が無駄になる。嫌われるどころか……想いを聞けずに終わってしまう。 「……ほら」  ふわりと体が宙に浮かぶと、イメージチェンジした青年の綺麗な顔に近付いた。透き通るような透明な肌、花の香りに心臓が跳ねる。 「先輩、まじすげぇっス!! 重そうなピグレットを軽々と」 「うるさい。B部屋入るから」 「あ、了解っス」  サキさんは敬礼をしたミドリ君に会釈すると観客の視線に背を向け、ステージを降りた。 (あれ? ……二階じゃないんだ)  進んでいくのは一階の奥。二部屋ある廊下があった。お肉を焼いた匂いや鍋の音が近付く。入り口近くはキッチンなんだろう。  薄暗い銀色の廊下では一歩進むごとに足音が反響する。ふいに寒気がした。  そうして二番目のドアを、サキさんは僕を抱えながら開けた。

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