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傷付いた天使(第23話)
ふわふわする。覚醒する直前にそんな風に思った。
何しろ僕は体が重い。身長は百六十二と低めだが、昔から体重のある僕は、組み立て体操なら土台にならなくてはいけない。相手に負担をかけてしまう恐れがある。
だから誰かに抱っこされたり、軽々と抱えられることに憧れがあった。
今も体自体が軽いのではなく、まるで雲に体を預けているような感覚。気持ち良い。ずっと預けていたい。
(……んっ)
瞼を持ち上げると視界がぼんやりする。珍しく電気が消してある部屋。まだ悠治君は帰っていないのだろうかと視線を机へずらすと、風邪薬の箱があった。
(もしかしたら急用が出来て、薬だけ置いていってくれたのかも)
ゆめも見ないくらい熟睡が出来た気がする。もう少しこのぽかぽかとふわふわを満喫したら、あとでお礼のメッセージを入れておこう。
毛布を被り、もう一眠りしようとしたが。
(熱い……)
違和感はすぐにやって来た。体中が火照るような熱さに包まれ、背中にじんわり汗をかく。毛布を退かせ、起きようとすれば足元に重みがかかっている。
(悠治君が家中の毛布、全部かけてくれたのかな)
毛布を退かせるにしろ、やけに枚数があった。薬だけじゃなく世話もかけてしまった。申し訳ない。
それでもなんとか肘をつき、手をついて体を起こせば白い塊が傍に落ちた。四角に折り畳まれたタオル。触ると湿っていた。
(タオル? あれ、声……)
喉に力を入れて声を出してみるが、小さな「ぁ」が出るだけで言葉は喋れなかった。
(昨日、声出し過ぎたのかな……)
行為中は首輪をされてもほぼ喘ぎまくり+全裸ということで、本格的に風邪を引いたのかもしれない。帰宅後にきちんと入浴すべきだった。
(冷えを甘く見過ぎかも。うっ……)
腰や背中、頭が痛くて重い。これ、思考がクリアになってきたら面倒なやつだ。
(……風邪まで引きたくなかったな)
体調が辛ければ辛いほど、心の隙間に黒いものが流れ込んでくる。
(侘しい心は風邪のせいにして、今はとにかく寝て忘れよう)
悲しみの深みにハマらないうちに。少しでも長く眠ることが心身にとって最善だ。
もう一度横になろうとすると、足元の違和感に耳が反応した。枕から微かに呼吸音がする。
(紺色の塊……? いや、違う。あれはパーカーのフードだ)
伏せてる頭の下には腕がある。悠治君よりは腕が細く、筋肉は無さそうだ。
この時の僕はかなり熱を出していたんだと思う。通常時であれば、いくらなんでも絶対に助けを呼ぶ。真っ先にスマホを手に取るはずだから.
興味本位でフードを取ると、隠れていた黒髪がサラサラと落ちた。綺麗な寝顔にあどけなさが残っており、相手の寝息に鼓動が速くなる。
「んっ……。あ、起きた?」
長い睫毛が上向き、ピンク色の瞳が朧気に僕を捉える。起きたばかりで瞼が一目になっていた。
(な……んで、ここ……に?)
「熱は下がった? んー。まだ熱いね」
前髪が汗でへばりつこうが気にせず、額に手が触れられた。大きくひんやりとした手。感触も声色もあの人物そのもの。
(ゆめっ。僕は都合の良いゆめを見てるんだ)
鼻から息を吸えば胸を擽る甘い花の香り。
「お薬飲もっか。その前に雑炊でも食べた方がいいかな。関西の人はうどんがいいんだっけ?」
彼が浮かべる柔和な笑みにどれほど救われただろう。
声も昨日ほど低くなく、少し高めを意識している。
(こんなゆめ、残酷過ぎる。風邪引いたからって、好きな人のゆめを見せないで……)
「鍋焼きうどん買ってきたから、今作るね。もう少し寝ていてもいいよ」
短髪の頭を撫でてくれる動作も一緒。本物そっくり。
(やだ、ゆめじゃやだ)
額から手が離れていき、彼は動作もなく立ち上がる。
(あっ……!!)
背中を向けられ、僕は急いで彼の袖を掴んだ。
しまった、と後悔した時にはすでに遅い。
「うん、どうしたの? 気持ち悪いかな」
隣にしゃがんで視線を視線を合わせてくれる。ピンク色の宝石は電気が消えた部屋でも澄んで見え、綺麗だと素直に思う。
「い……っ、ぁ……っ」
口を開けるが、声が上手く声が出ない。
「……ぁっ! ぁ……ぁぁ!」
何度やってみても言葉が出る気配はなく、苛立ちが芽生えた。
ゆめの中でもサキさんが行ってしまうのは嫌だ。隣にいて欲しい、と伝えたい。
潰れた喉を叩くと彼の手が制御するように包み込む。
「オレの……。私の……せい、だよね。私が日和さんに傷付けるような言葉を浴びせ、好意を踏みにじむようなひどいことばかりしたから……」
僕を捉える視線が彷徨い、目元はうさぎみたいに充血している。
(握る手も震えている……)
「苦しい思いをさせて、本当にごめんなさい」
頭を深く下げられ、つむじの根元に金色が鈍く輝く。
(きっと、サキさんなりに心から謝罪しているんだろう)
まだ顔をあげない。未だに震えてるけれど、離さないように力強く握られた手からも真剣さが伝わってくる。
悠治君の言うように僕はお人好しなのかもしれない。
ただ、サキさんの想いと僕の願っていることはすれ違っている。ならせめて。
枕元に置かれたスマホを取り、片手で文字を打っていく。スピードの遅いキーボードの音がよく聞こえてきた。
「……え、どうし……」
肩をトントンと叩き、顔を伏せながら彼にメモ画面を見せた。心臓がこれ以上勘違いしないように、胸の辺りをぐしゃっと掴む。
『風邪は引いたみたいで、声が出しづらいだけです。サキさんのせいではありません。しかし、苦しいのは事実です。もう僕に優しくしないでください……』
チラ見し、大体読み終わったところで新しい文言を打っていく。
(優しくされると)
『あなたに優しくされると、好きな気持ちを抑えきれなくなるから』
サキさんの目が見開かれる。
幻滅しただろうか。リップサービスだとお断りした相手がまだ自分に好意を寄せており、それで苦しんでいるんだと知って。
髪も瞳も性癖も、誰かを特定し、個性を色付ける大切なものだ。僕は全てにおいてサキさんに惹かれた。理由は後付けかもしれない。金髪が黒髪になったように何かが失われてもサキさんはサキさんだ。
そう思えたのは彼が初めてだ。隣にいたかった。隣にいられるだけで幸せだった。
さらにスマホに文字を打っていく。三回ほど誤字をしたから時間はかかってしまった。それでもサキさんは静かに待っていてくれた。
『僕はもう、あなたの人生の邪魔をしたくないんです。だって、あなたはこんなおっさんにも優しいし、心も綺麗だ』
心が綺麗じゃなきゃここまで来て、謝罪したりしない。本当に心が汚い人はそもそも僕に近寄ることすらせず、あの道端で泣く僕を指さして蹴るだろう。
『たくさん褒めてくれて、たくさん話を聞いてくれてありがとうございました。サキさんには返せないくらい、幸せな日々と時間をいただきました。僕はとても幸せ者で、サキさんに出会えたことが人生で最大の幸運だったと思います。……こんな未練がましく泣き虫なSubよりもっと素敵なSubと出会うべきです』
打つ間、泣きそうになるのを鼻を啜って誤魔化す。熱に侵されても想いはきちんと最後まで伝えたい。
『あなたが好きな僕を、嫌いだとこの場で思いっ切りフッてください』
実はまだ、サキさんの口からはっきり「嫌い」と振られていない。鈍感で馬鹿な僕は玉粋し切れなかった。二度目の告白に希望があるとは微塵も思っていなければ、また無理矢理何かされるのも覚悟の上だった。
スマホで彼の顔を隠しながら静かにその時を待つ。持つ手が異様に震えてしまうから、気持ちがバレバレだ。好きな人に対して最後まで格好が付かないとは。
うっすら片目を開け、サキさんを窺う。ちょうどベビーピンク色の唇が見えた。紅を塗っていなくてもふっくらとした血色の良いピンク色。まるでスローモーションのように動く。
「日和さん」
名前を呼ばれ、返事をするよりも顔を上げたのが先だったかもしれない。
(これから僕は嫌われる。本当の本当に初恋が終わるんだ……)
閉じそうになる瞳を細目にして耐えた。
「ありがとう。風邪引いて身体がしんどい中、もう一回告白してくれてすごく嬉しいよ。……オレは日和さんのこと、好きだよ」
一音一音が心地良い柔らかな音。溶けて消えても幸福が残り、疑うのを忘れてしまった。
次の瞬間、目の前が真っ暗になる。背中に腕が回ってきて、花畑にいる気分だった。
(さ、サキさん……?)
ドギマギが治らない。つむじをいっぱいに吸われ、喉を鳴らした。
「オレもちゃんと伝えたいことがあるんだ。長いけど聞いてくれるかな?」
肩に顎を押し当てられたせいか、声が篭って聞こえてくる。聞き逃さないよう耳を集中させ、頷く。
(大好きな人の話、一言一句逃さず聞きたい)
「ありがとう。無理はしないでね。……オレの家は結構厳しめの家でね。代々、Domである長男が長となるんだけど、パートナーとなる人は必ず女でSubと決まっているし『DomはSubの下等生物だ』とか『Domに優しさなど不要』ていう独自の家訓があって。かなり変わってるでしょ」
Normalの方が多い現状で、差別的な価値観を持つ人達は残念ながらいる。同様にDomがSubを、SubがDomを良く思わない人達が存在することを道徳の時間や社会の時間を使い、学ぶ。価値観の眼鏡をかけないで生きて欲しいと教師達は第二の性について丁寧に説く。
「家訓が変だと早めに気付けて、よく親父に反発していた。周囲にSubもいたし、女友達もいたからね。ただ、実母が体調を崩した時、オレは逃げるように家を出た」
家の事情を聞く限り、親子の絆を引き裂き、多感な時期を生きるサキさんの心に傷を負わせた大きな出来事だったのだろう。ぼかすのも話題に上げるのも苦しいに違いない。
沈黙が続き、どうするのが正解なのか分からない僕は落としていた腕を彼の背中に回し、ゆっくり撫でた。自分に施してくれた優しさを、真似することしか出来ないけど。
「……家を出て、従姉妹のハル姉のところに匿って貰った。使いが来て戻るように説得されたけど、高校卒業まで猶予が与えられた」
場面を想像してみる。受け入れ難い家訓を押し付けられ、罵声も浴びせられることもあったはずだ。彼が許可された『猶予』という期間の重みは想像を絶するものだったろう。乾いた笑い声が物語っている。
僕は顔を顰めそうになった。
まだ見ぬ人達に怒りが込み上げてきたが、撫でる手には表れないように心がけた。
「この世の終わりみたいな日々だった。何もかもが面倒で、出会う相手も『きつくして欲しい』『侮辱して欲しい』のSubばかりで気が狂うかと思った」
鼻声になっていく。笑い声が滲んだ。
「……オレね。別に女性になりたいわけでないし、女装も趣味みたいなもんなの。だけど、可愛いものや綺麗なものが大好きだし、心も潤うから大切にしていた。同様にSubを褒め、甘やかせたい気持ちもオレの大切な欲求なんだ。反発してたからかな。家訓と真逆のそれは体が大きくなる度に育つ。そもそも普通のDomとオレは違うんだよ」
また沈黙が流れる。彼の全身が今までの孤独さや辛さを訴えかけ、胸が痛む。
(もう、いいよ……。きついのなら話さなくてもいいんだよ)
生の言葉で慰められたらどんなに良かっただろう。SubだってDomに幸せを願う生き物だ。撫でる手が滑っていく。
サキさんはきつく抱き締め、僕を離さなかった。
「そんな絶望の縁で日和さんに出会った。優しくて柔らかくて可愛くて、オレの欲求を全部満たしてくれる人。優しいあまり、周りの影を吸っちゃう不器用で天使みたいな人。日和さんこそがオレの運命の人だと確信した」
まさか僕のことをそこまで……。いつもと違う褒め方にむず痒くなる。
(やばい、思ってた以上にサキさんの感情に揺さぶられる。しっかりしなきゃ)
「でもね。オレは結局、あいつの血が流れている。オレ好みに育つ健気な日和さんを汚す未来が見えた。家族からは絶縁を言い渡され、自暴自棄になったオレは何もかも手放したくて日和さんの優しさに甘えた。結果的にひどいことを。最低だよね。……だけど、だけど……!」
体をゆっくり剥がしていったサキさんの顔に涙跡が残っていて、眉毛も細く変わっていた。
「日和さんのことが好きなんだっ。Domの本能は否定出来ないけど、日和さんと一緒にいると心がぽかぽかしてものすごく安心する。仕事中でも寝る前も笑顔のあなたが忘れられない。あんなことしたオレがもう会っちゃダメなのは十分に分かり切ってる。……ねえ、どうしてオレがいいの? オレ、また傷付けそうで怖いんだ……」
声を上げて泣き出すサキさんは迷子の子供みたいだった。綺麗とか不細工とか関係なく、わんわん泣く。涙を零す。
その姿に戸惑ったが、湧き上がってくる感情があった。
(サキさんは生まれてから何度泣いたことがあるんだろ)
いつも笑顔を振り撒く彼は泣くという感情を押し殺してたのではなかろうか。知らず知らずのうちに忘れちゃったのかもしれない。
お仕置きの際に見せた感情を失った顔も思い出す。
声帯がどうなろうが、喉の奥を震わせた。
「……サキさん」
トントンと肩を叩き、頭が下がったところで彼の肩を抱き、引き寄せた。
柔らかくて湿った唇に同じ部位を触れさせる。しょっぱい。
「ぼっ、僕は!」
腹の底から声が出たら、後は突き進むのみ。潤んだ瞳から目を逸らさずに伝える。
「それでもサキさんが好きです」
「日和さ……」
「ご存知の通り、僕はサキさんのこと何一つ知らないで好きになりました。辛い事情も話してくれてありがとう。けど、サキさんはサキさんだよ」
「オレはオレ……?」
「あ、あの時もどの時もサキさんの捨て切れない優しい部分があった。助けて欲しいという僕の気持ちにもちゃんと向き合ってくれました。サキさんがいなくちゃ僕は幸せも恋の苦しさも知らなかった! だから……っ、君を……僕の大好きな人の悪口を言わないで……」
目から涙が止まらない。鼻水は出るし、咳が止まらない。頭の中ぐちゃぐちゃだし、勢いで喋ったら纏まりがない。
(やっぱ勢いだけだと伝わんないかな)
「サキさんは僕にとって大事な人なんです……。自分で自分をいじめないであげて、くださ──っん!」
唇の中をこじ開けて舌が入ってくる。短い舌を絡め、歯列をなぞられた。
僕が咳き込まないようにか背中を撫でてくれる。優しいあまりに泣きそうで、ゾクゾクした快感と溶けそうな熱さが意識を朦朧とさせた。
「んぁっ、んっ……んく……はひっ、ぁ……」
互いを結ぶ銀の玉が真ん中でぽとん、と毛布の上に落ちた。喉仏を動かしたのはどっちだっただろう。しょっぱくて甘い味がした。
「そ、そういえば僕……風邪引いてるのに、チューしてしまいました……」
熱はまだ計ってないが、汗をかくくらいだ。相当高いだろう。
(も、もしサキさんに移ってしまったら)
「ふふ、大丈夫。こんな体でも風邪なんて一度もひいたことのない頑丈野郎だから」
反論する前に人差し指を立てられる。
「それに、ちゅーって言い方、可愛いなぁ。はぁ……本当に天使みたいな人」
「ふえ……?」
「うん。もちろん、可愛さの喩えでもあるけど……そうじゃない。天から降りてきた本物の天使。羽根が傷付いて抜けちゃってるのに、耐えちゃう……ううん、傷すら気付かずにオレなんかに慈愛を与える、健気で可愛いエンジェルさん」
(僕、天使とはほど遠い存在なのに)
胸がキュンキュンして、もう湯気が出るほど熱い。
頬に手が添えられる。彼の手はやっぱりひんやりして気持ち良いのに、彼の顔は僕と同じリンゴ色をしている。
彼が目尻を和らげると、ピンクの宝石が揺れ、雫が落ちる。ダイヤモンドのように綺麗だった。
「好きでいて、いいの?」
「サキさんを好きでいていいですか……?」
「もちろん。日和さんをパートナーにしたい」
「……僕も、サキさんとパートナーになりたいです」
手を握られ、見つめ合い、笑い合った。
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