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第5話

日下部のマンションの場所がわかっていなかった山岡は、日下部の車に乗って一緒に病院にやってきていた。 医者の趣味には車が多いと聞くが、日下部もそうなのか、こだわっていそうな内装がお洒落な有名ドイツ車だった。 「あ、ありがとうございました…」 車を下りて、並んで職員入り口に向かいながらお礼を述べる山岡の目は、ちゃんと日下部の目に向いている。 「合格~。その調子でな」 「は、はぃ…」 「病棟行く?」 「はぃ。回診してから…」 「そ。俺は直接外来行くな。じゃぁまた」 ふらっと手を振り、日下部は外来へ、山岡は病棟へ行くためのエレベーターへ向かった。 午前中の外来診察が、サクサクと片付いていく。 相変わらず、俯きがちにモソモソと病状の説明をする山岡を、患者も外来担当の看護師も頼りなさそうに見ていた。 最初こそ日下部との約束通り上がっていた山岡の顔は、いつの間にか結局習慣のように俯いていき、患者と目を合わせることなく診察をこなしていた。 「よし、お終い」 「お疲れ様です、日下部先生」 外来患者を捌ききった日下部の手が、最後のカルテを入力し終えて、スッとキーボードから離れていく。 ニコリと微笑みながら、座っている椅子をくるりと回した日下部が、隣の診察室の方の壁を見た。 「山岡先生、終わったかな?」 「えっ?山岡先生ですか?」 「うん」 隣を気にする日下部に不審そうにしながらも、たまたま室内にいた看護師はファイルを抱えて奥に足を向けた。 「見て来ましょうか?」 「お願いしようかな」 「はーい」 診察室は、患者待合室に続く廊下に出る扉があり、その反対側には、裏でスタッフが隣の診察室と行き来できるようなバックヤード兼通路になっているスペースがある。 看護師はそのバックヤードに足を向け、ひょこりと隣の診察室に顔を出してきた。 「日下部先生。山岡先生、最後の患者さんを診てましたよ」 隣から戻ってきた看護師が、日下部に報告する。 「そう。ねぇ、山岡先生、顔上げてた?」 「え?顔?」 「うん。俯いてた?」 不思議な質問をするものだ、という疑問ありありの表情で首を傾げる看護師が、不思議そうな表情のまま、それでもありのままを口にした。 「いつも通り、下向いてしゃべってましたけど」 それがなにか、と不思議がっている看護師に、日下部はひとつ頷いてクスリと笑った。 「そう、ありがとう」 「いえ…」 わけがわからず首を傾げている看護師を置いて、日下部はスッと椅子から立ち上がる。 「お疲れ様。適当に切り上げてお昼行ってね」 デスクの上の片付けだけ済ませ、日下部は看護師に言い置いて部屋を出て行った。 隣の診察室では、山岡が山岡にしては珍しく、昼休憩前に最後の患者を送り出していた。 「あ~、いたいた、山岡先生」 中庭のずーっと隅っこのベンチ。もう庭というよりは、病院の建物の影になるようなひとけのない場所で、山岡は売店で買ったパンを食べていた。 「っ?!く、日下部先生?」 いきなり現れた日下部から、スッと逸れてしまう山岡の目。自然と俯いてしまう顔に、サラリと髪が掛かる。 「こんなところで1人でお昼です?」 探しましたよ、と微笑む日下部に、山岡は俯いたまま手の中のパンをモゾモゾと弄っていた。 「山岡先生?」 「あ、はぃ…。ここが好きなので…」 俯いたままボソリと言った山岡に、日下部の目がスゥッと細くなる。 「山岡」 「っ?!」 「約束、守れてないな」 日下部は、クスッと笑って、山岡の前に腕を組んで立った。 「顔、上げろ」 「っ…」 目の前に立たれた圧迫感に怯えながら、山岡はソロソロと顔を持ち上げた。 ベンチに座っている山岡の前に、日下部が立っているから、むしろ見上げるほどに顔を上げなければならない。 サラリと分かれた髪の間から、眼鏡をかけた山岡の顔が露わになった。 「山岡」 「はぃ…」 「診察はどうだった?」 約束は、と尋ねる日下部に、山岡は俯きそうな顔を必死で上げたまま、口を開いた。 「診察中は…最初は頑張りましたが…やっぱり…顔、下げて…しまって…」 震える唇が必死で言葉を紡いだのを見て、日下部がニコリと微笑む。 「そっか。正直に言ったのはえらいな。だけど、約束を守れないのは悪いよな?」 「っ…」 「午後はオペか~。終わったら、当直室来い」 ニコリと微笑んでいるのに、有無を言わさない強い口調の日下部に、逆らうことなど思いつかない山岡は、コクンと頷いて、そのまままた俯いてしまった。 「長期戦だな…」 「ぇ…?」 「いや。ところで山岡先生、いつもお昼、そんなん?」 「あ、はぃ…」 「医者に言うことじゃないかもしれないけどさぁ、体壊すよ?」 「大丈夫です…」 「ね、もし良かったら、今度からお昼一緒に食べようよ」 ニコリ。柔らかく微笑む日下部に、山岡はギョッとなった。 「あ、えっと…」 「いや?」 「あ、いや、というか…オレ、いつも診察遅いから…」 「あぁ。大丈夫、待ってるよ」 「わ、悪い、ので…」 「じゃぁ時間が合った日だけでも」 ニコリ、と微笑む日下部は、当然わざと時間を合わせる気満々だ。 だが、そんな日下部の企みに気付かずに、山岡はそれなら、と小さく頷いた。 「よし、決まり。じゃぁまた後で。オペ頑張って」 「はぃ…」 ふらっと手を振って、日下部の白衣が颯爽と翻る。 山岡は、慌てて残りのパンを口に押し込んで、病院内に戻って行った。

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