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第7話
「俺がこの病院に来た日…」
「……」
「だと思ってる?」
ふと山岡に視線を向けた日下部に、山岡もまたパッと顔を上げた。
「え…?」
「なぁ?」
重ねて問う日下部に、山岡はコクンと頷いた。
「ははっ。やっぱり覚えてないわな~」
自嘲気味に笑う日下部に、山岡はうっそりと首を傾げた。
「M総合病院」
「え?」
「聞き覚え、ない?」
クスッと笑う日下部に、山岡は僅かに考えた後、首を振った。
「それだけ、山岡先生にとっては、何でもないことだったんだろうね」
「あの…」
クスクス笑う日下部に、話が見えない山岡は戸惑っていた。
「覚えてないなら教えないよ?だけど、俺がこの病院にいるのは、山岡のせいだから」
「え…?」
「なぁ、山岡。本当におまえ、ダメ岡なんて呼ばれたままでいいの?」
「それは…」
「嫌だから泣くんじゃないのか?」
「っ…」
「なら、見返してやればいい」
クスッと笑う日下部の視線から、山岡はまたもスッと逃げ出した。
「オレなんか…、オレなんか、頑張ったって無理なんです。なんで日下部先生はそんなにオレに構うんですか?日下部先生にメリットなんて1つもないのに…」
むしろデメリットだらけだ、と俯く山岡を、日下部は静かに見つめた。
「山岡が、俺との出会いを思い出せばわかる。少なくとも俺にとっては、山岡は『山岡なんか』じゃないってことだ」
ふわりと笑った日下部に、山岡はオドオドと目線を上げた。
「オレに、価値が…?」
「あぁ。大有りだね」
「っ…ほんとう、に?」
「嘘や冗談でこんなこと言い出さないよ」
「っ…オレ、できますか?」
「できるか、じゃなく、やる、んだよ。俺を信じろ」
ニヤッと笑う日下部の顔は、自信に満ちていた。
「んっ…」
小さく、だが確実に頷いた山岡を見て、日下部の顔がとても満足そうに綻んだ。
「じゃぁ、なにがあってもついてこい。俺の言うことはちゃんと聞け」
「はぃ…」
「もう、途中でやめたいなんて言い出すな」
「はぃ…」
「簡単に音を上げるなよ?俺が山岡を必ず変えてやる」
「はぃ…よろしくお願いします」
ペコンと頭を下げた山岡を見ながら、日下部は、普段の爽やかな笑みではない、にぃと人の悪い笑みを浮かべていた。
「それじゃぁまぁ、散々の反抗と約束を破ったお仕置きからかな?」
「え…?」
お仕置きって…と目に怯えを映す山岡に、日下部はクスッと笑った。
「そんなに怖がらなくても…痛いことはしないよ」
「っ…」
「痛いの嫌い?」
「はぃ…」
「そう。ま、でも多分、山岡にはとても嫌なことだと思う」
クスクス笑いながら、日下部はひょいとテーブルからお尻を下ろして、先ほど棚に置いたファイルを手に取った。
「はい」
「え…?」
ドサッと山岡にファイルを渡した日下部は、そのままスッと山岡の顔に手を伸ばし、眼鏡を取ってしまう。
「ゃっ…日下部先生っ」
「だぁめ。お仕置きだって言っただろ?」
クスクス笑ったまま、日下部は今度はポケットからヘアゴムを取り出して、山岡の前髪をグイッと持ち上げ、頭の上で束ねてしまった。
「ゃ、だぁ…」
顔が露わになり、途端に山岡が俯いてしまう。ウロウロと彷徨う視線が、山岡の不安を如実に表している。
「顔、上げろな?」
「嫌…です。返してください…眼鏡…」
山岡は持たされたファイルを持ち上げ、その後ろに顔を隠している。
「それも駄目。下ろして」
「うぅっ…」
グイッとファイルを上から押され、山岡は渋々顔を見せた。
「やぁっぱり美人。そんでもって、視力悪くないだろ?」
ふん、と言いながら眼鏡をテーブルに置いてしまう日下部を、山岡は恨みがましそうに見る。
「なに?言いたいことがあるなら、ちゃんと顔を上げて、俺の目を真っ直ぐ見て言えな?」
ニコリと笑う日下部から、山岡はしゅんと目を逸らして俯いてしまった。
「日下部先生…い、意地悪です…」
半泣きになりながら呟く山岡に、日下部がクスクス笑った。
「今さら気がついた?俺、Sだからな~。泣く?クスッ。泣いたら俺の思う壺だよ?山岡センセ」
ふふ、と笑った日下部を、山岡はキッと睨んだ。
「おっ、いいねぇ。その調子で、はい、ファイル持って、立って」
「なっ…」
「真っ直ぐ顔を上げて、そのクランケについて説明して」
ニコリと微笑んで、自分は当直室の隅のソファに腰を下ろす。スラリとした長い足を組み、ベッドに座っている山岡に真っ直ぐ視線を向けた。
「これ…」
「あぁ。明日のカンファの資料な。ひと通り流して」
パラパラとファイルを開いた山岡は、それを見て目を見張った。
「っ…」
「クスクス。山岡の分だよ?少しでも俯いたり、資料見る以外で目を逸らしたら、いくらでもやり直しさせるから」
「……」
「あっ、資料ずっと見てようとかズルいこと考えないでな。10秒以上資料注視してもやり直しな」
傲慢な笑みを浮かべる日下部に、逃げ道はないと悟ったか、山岡はノロノロとベッドから立ち上がった。
「あの…」
「ん?」
「せめて髪…」
結ばれてしまった髪の毛を気にする山岡に、日下部はニコリと笑った。
「そんなに嫌?」
「はぃ」
「よかった。お仕置きだからな。嫌がってもらわないと」
「っ…」
「この罰が嫌なら、約束は守ろうな」
ニコリ。どうにも譲ってくれそうにない日下部に、山岡はとうとう抵抗を諦めた。
「……なので、マーゲン(胃)のTG(全摘)を…」
「顔」
「っ…」
「今のところ、最初から」
ピシリ、と甘えを許さない日下部の声に、山岡は俯いてしまっていた顔を上げ直した。こうして何度かやり直しを食らいながら、それでも必死で顔を上げ、日下部を真っ直ぐ見て説明を続ける山岡は、だいぶ様になってきている。
「ご、50代男性…MK(胃がん)ステージ…」
すっかり暗記してしまった内容を、日下部から目を逸らさずに話す山岡に、日下部の表情は自然と緩む。
それでも山岡は油断せずに、ついに最後まできちんと顔を上げて説明を言い切った。
「ご~うかく。頑張りました」
日下部がニコリ、と微笑んだ瞬間、山岡は気が抜けたようにストンと床にへたり込んでしまった。
限界だとでも言うように、思い切り下を向く山岡の頭に、日下部が声を上げて笑ってしまう。
「そ~んなに辛かった?」
「っ…ん。日下部先生…もっ、髪、取りたっ…」
ふらりと持ち上がる山岡の手を、日下部は一瞬早く掴み止めてしまった。
「こんなに美人なのに」
「っ…眼科に行って下さい…」
「言うね。おかしいのは俺の目じゃないよ。山岡の認識」
クスクス笑う日下部の手を振りほどこうと、山岡は必死にもがいていた。
「なぁ、頑張ったからご褒美あげようか?」
「じゃぁ眼鏡と髪…」
「クスクス。それはご褒美じゃなくても戻してあげる。ご褒美はな…」
スッと山岡の前に膝をついた日下部が、空いた片手で山岡の顎を捕らえ、顔を近づける。
「日下部せんっ…んんっ」
なに?と焦った山岡の唇を、日下部は瞬時に塞いでしまった。
「んっぁ…」
覆い尽くすように口付けられ、息苦しさに喘いだ山岡の開いた口内に、日下部は素早く舌を差し込んだ。
クチュッと水音をたてて、山岡の舌を搦めとる。
「ふっ、はっ…」
応える技術もなく、ただされるがままの山岡の目が、トロンと快楽に緩む。
飲み込み切れない唾液が、山岡の口の端からタラリと溢れる。なんとも煽情的でいやらしい光景。
クタッと山岡の体から力が抜けたところで、日下部はようやく唇を離し、ゾクリとするような色気を含んだ壮絶な笑みを浮かべた。
「ヨかった?クスクス」
「んなっ…」
ペロリと自分の唇を舐めた日下部に、食って掛かろうとした山岡だったが、身体に力が入らずに、ヘニャヘニャと床に手をついた。
「あれ。腰抜けちゃった?」
「っ…」
「そんなに気持ちよかったんだ?ご褒美」
「う、うるさいっ!」
「もしかして初めてだった?」
「なっ…もっ、出てけっ!出てけ~っ!」
バサバサッ!バシン。
手近にあったファイルを日下部に投げつけた山岡は、荒い息を吐きながら半泣きで日下部を睨んでいる。
「クスクス。わかった、わかった、降参。出てくよ。出てくから!」
「っ~~!」
ジトッと目を据わらせて睨む山岡に苦笑を漏らしながら、日下部はホールドアップの姿勢を取り、ドアの方に後退した。
「クスクス。じゃぁまた明日」
ニコリ。全く悪びれなく笑顔を見せて、日下部はパタンとドアを開けて仮眠室を出て行った。
1人残った山岡は、それでもまだ日下部が消えて行ったドアを睨んでいる。
「な、なんなんだよっ。こ、こんな、ご褒美とかっ…キスとかっ…」
ブチブチ文句を言いながら、カァッと赤くなっていく山岡の顔。
「なんなんだよ…日下部、先生…」
無意識に持ち上がった手が、日下部に口付けられた自分の唇をなぞる。
「オレは女じゃない…。い、いくらイケメンだからって、日下部先生にキスされて、嬉しくなんか…」
日下部ファンの看護師たちにはご褒美なのかもしれないけれど、自分はそんなんじゃない…と膨れながらも、嫌ではなかった自分に微かに驚いていた。
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