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第8話

翌日――。 「ふん、ふん、ふふん」 午前中の外来に、日下部のご機嫌な鼻歌がこぼれていた。 「日下部先生?今日はなんだか楽しそうですね」 いつにも増してサクサクと診察を済ませていく日下部に、担当の看護師が曖昧な笑みを浮かべている。 「ん~?まぁね。でも楽しみはこれからかな」 ニコリと微笑む日下部の顔には、壮絶な色気が溢れている。クラリと目眩を感じた看護師がその色香に悩殺されていた。 「あぁぁ、今日の日下部先生、目に毒すぎる…」 診察室の奥に引っ込んだ看護師が、他の同僚に凭れ掛かって嬉しい苦情を漏らしていた。 そしてこちらは消化器外科病棟。 今日の午前中はフリーの山岡が、やはりナースステーションの隅の方で、静かに存在を消してカルテ類を眺めていた。 ここには部長も入れて5人いる医者のうち、3人が外来、2人がフリーだ。 フリーの日は、病棟の仕事をしたり、書類の作成や、オペの確認、急患や緊急オペが入れば、それも担当する。 山岡は、朝の回診での入院患者に対する加療の漏れがないかをチェックしながら、修正を入れていた。 「あれ?」 ふと、点滴オーダーの漏れを見つけた山岡が、カルテから顔を上げて、ナースステーション内にいた看護師の方に目を向けた。 「あの…」 ボソッと小声で呟いた山岡の声は、ザワザワと動き回っている看護師には聞こえない。 「……」 のそりと俯いてしまった山岡は、自分でやってしまおうか、とオーダー票を見下ろす。 「っ…」 不意に、『顔、上げろな?』と微笑む日下部の顔が浮かび、山岡はクシャリとオーダー票を握り締めた。 「あのっ!」 突然椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、本人すらびっくりするような大声を出した山岡に、ナースステーション内にいた看護師たちもビクッと動きを止めた。 みんな驚いたような顔をして山岡を見る。注目を集めてしまった山岡が、ビクビクと身を竦めていた。 そんな山岡を不審そうに眺めていた看護師の1人が、恐る恐るといった様子で、山岡を窺う。 「どうしました?山岡先生」 本人の前ではさすがに丁寧だし、山岡先生呼ばわりはいつものこと。 山岡は、声をかけてくれた看護師の方を見て、きちんと顔を上げ、視線を合わせる努力をしながら、握っていたオーダー票を差し出した。 「こ、これ。お願いします」 少し皺になってしまったオーダー票を渡しながら、山岡のはっきりとした声が響く。 反射的に受け取った看護師が、微笑を浮かべた。 「わかりました」 すんなりと返事をしてもらえて、山岡はホッとしたように脱力し、ガタンと椅子に戻った。 ピルルルル、ピルルル! 途端に、ナースステーションの電話と、山岡の医療用PHSが着信を告げた。 「はい、消化器外科病棟」 「はい、山岡です」 ほぼ同時に対応した看護師と山岡の声がナースステーション内に響く。 急患を知らせる連絡に、山岡はPHSを耳に当てながら、素早く椅子から立ち上がった。 「はい、はい、わかりました。すぐに行きます」 力強く請け負って、ピッと通話を切った山岡。 近くにいた看護師に向かって、パッと話しかける。 「イレウス(腸閉塞)。緊急オペ行ってきます。そちらは?」 病棟の電話に出ていた看護師が通話を切ったのを見て、山岡は視線を向けた。 「アッペ(虫垂炎)です」 「じゃぁ山田先生でいけるな。お願いして下さい」 パッ、パッと場を仕切り、山岡はバタバタとナースステーションを飛び出して行った。 看護師たちもそれぞれの行動に移る。 一瞬慌ただしくなったナースステーションは、それでもすぐに落ち着きを取り戻した。 「っていうか、さっきちょっとダメ岡がまともに見えた」 「えっ?」 「点滴オーダー」 「え~?」 「なんか、初めて真っ直ぐ目合わせたかも…」 「目?あの、スカイ・テリアかよ!っていうダメ岡の?」 山岡がいなくなった途端に、山岡の噂話に花が咲く。 幸い今日は、オペ室に走った山岡がこれを聞くことはない。 「ぷっ。スカイ・テリア!わかって笑える!」 「でしょ~?」 「でも本当に。もしかして、ちゃんと顔上げて声張ってたら、意外とまともなんじゃない?ダメ岡」 「え~?だって所詮ダメ岡だよ。ないない」 「そうかなぁ…」 オーダーを受けた看護師が、不満そうに首を傾げている。 「ま、急患とオペんときは、だいぶまともと言えなくもないけど、やっぱりダメ岡はダメ岡よ。見てあれ」 「うわ。なんで散らばってるかな…」 飛び出して行きついでに突っかけたんだろう。山岡が通った途中の床に、ファイルとペンが数本落ちていた。 「やっぱりダメ岡かぁ。目の錯覚ね」 一瞬見直していた気がするオーダーを受けた看護師も、結局気のせいで片付けてしまった。 午前中のフリーは、結局急患のオペに潰れた山岡は、無事に処置を終わらせ、遅めの昼食を取っていた。 やっぱり中庭のずーっと隅で、売店のパンをモソモソと食べている。 「あ~、いた」 「っ?!」 「どうせここだろうと思って」 ニコリと微笑みながら近づいてきたのは、売店の袋を提げた日下部だった。 「日下部先生…」 「山岡、か~お!」 習慣のように俯く山岡を、間髪入れずに注意する。 ハッと顔を上げた山岡の隣に、スッと日下部が滑り込んだ。 「お昼、一緒に食べようって言っただろ?」 「あ…でも、今日はオペで遅くなったので…」 「ふぅん。俺も外来長引いたのに、覗いてもくれなかったよな」 もちろん、日下部の長引いた、は嘘だ。むしろいつも以上に早く終わってしまい、わざわざ他の診察室分まで引き受けて長引かせていたに過ぎない。 だけど山岡にそんな裏事情がわかるはずもなく。 「あ…そう、だったんですか。すみません…」 しゅんと俯く山岡は、本当に悪かったと思っているようで。 『だから苛めたくなるんだよ…』 「え?日下部先生?」 ボソッと呟いてしまった日下部は、ハッとしてニコリと微笑んだ。 「いや何も。それよりオペって?」 「あぁ。以前DKで開腹したクランケでした。イレウスで緊急オペを…」 「そっか。お疲れ様。なんか、内科からアッペも回されたとか聞いたけど」 「あ~、山田先生が行かれたと思います」 意識か無意識か、きちんと顔を上げて日下部の顔を見て話す山岡に、日下部の目が優しく緩んだ。 「えらい、えらい」 「え?」 「顔。ずっとそうしてろよ。今日の午後の合同カンファもな」 ニコリと笑って褒める日下部から、山岡は照れたように顔を逸らしてしまった。 「山岡先生。あ~ん」 「は?」 突然の謎な日下部の言葉に、山岡は口をポカンと開けて日下部の方に顔を戻してしまった。 「んぐ…」 途端に卵焼きを口に放り込まれ、反射的に食べてしまう。 「な、なんです?!」 「いい子だからご褒美」 クスッと笑った日下部は、売店で買ったらしいお弁当を広げていた。 「いい子って…」 「っていうかね、山岡先生。毎日そんなお昼じゃぁ、本当に身体壊すから」 「……」 「明日は絶対に食堂に行くぞ。約束な?」 ニコリと笑う日下部に、山岡はストンと俯きながら頷いた。 「勝手に1人で食べたらお仕置きだぞ」 にっと笑った日下部に、山岡はビクリと身を竦ませて、無意識に眼鏡のブリッジを押さえた。

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