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第9話
午後のカンファは、消化器外科、消化器内科合同で、広めの会議室で行われた。
判断の難しい症例や、厄介な症状の治療方針の決定や相談、情報交換や情報共有が主な内容だ。
それぞれの担当医1人でなく、みんなで話し合って判断していくこの場は、とても大事なものだ。雑談が全くないとは言わないが、かなり真剣な空気が漂う。
「次、山岡先生」
「は、はぃ…」
ファイルを机の上に広げ、そこに視線を落として口を開く山岡に、みんなの注目が集まる。
ビクリと緊張する山岡に気づき、日下部は隣でそっと山岡の太腿を突いた。
『顔。大丈夫』
励ますように太腿に触れた日下部に、山岡はハッとして顔を持ち上げた。
途端に自分に注目する医師たちの視線に晒される。
「っ…」
慌ててパッと俯いてしまった山岡は、そのままモソモソと説明を始めた。
「あ~、山岡先生。もう少し大きな声で言ってもらえます?」
1番離れたところにいた内科医に言われ、山岡はワタワタと顔を上げた。
「す、すみません…」
急いで説明を言い直す山岡は、やっぱりすぐに俯いていってしまう。
『か~お。上げろな?』
ペチッと机の影で太腿を日下部に叩かれ、山岡はハッとして顔を上げた。
「50代男性…」
説明を始めてすぐ、山岡は昨日、日下部にやられた仮眠室内での出来事を思い出していた。
あの時はお仕置きと称して眼鏡を取り上げられ、髪まで上げさせられて、目も逸らさせてもらえなかった。
あれに比べたら今は、眼鏡も髪も顔を隠してくれているし、顔を上げるくらいなんてことないような気がした。
「…ということで、マーゲンの…」
淀みなく口から溢れる説明に、自然と自信があふれる口調。声も聞き取りやすいくらいに出ていて、顔はきちんと上がっている。
「そうですねぇ。ではその方針で行きましょうか」
「賛成です」
「いいと思います」
説明を終えた山岡に、次々と意見が交わされる。ホッと脱力している山岡は、みんなが驚いたように山岡を見ていることに気づかない。
見直したような視線が飛び交う中、隣の日下部だけが、満足そうに微笑んでいた。
「では次、内科から…」
次の話し合いに移っていったカンファは、順調に進んで、予定時間内に無事終了した。
「お疲れ様、山岡くん、日下部くん」
「あ、光村先生、お疲れ様です」
病棟に向かいがてら、たまたま並んで歩いていた山岡と日下部の横に、部長の光村も並んだ。
「今日の山岡くん、よかったねぇ」
「え、あ…」
「さすが、日下部くんのお陰かい?」
ニコニコとご機嫌な光村に、山岡はオロオロと俯き、日下部はニコリと微笑んだ。
「山岡先生の頑張りでしょう」
「っ…」
「そうかい?まぁ、あれだけ堂々と話してくれると、私も助かるよ」
バシバシと山岡の背中を叩く光村に、山岡はゴホゴホむせている。
「あぁ、悪い、悪い。まぁこれからもよろしく頼むよ」
どちらにともなく言って、光村はご機嫌のまま2人を追い抜いて去って行った。
「クスクス。みんな見直していたよ?頑張ったな」
2人きりになった途端、崩れる日下部の雰囲気。ビクッと身を竦めた山岡が、ソロソロと日下部を窺う。
「最初の様子じゃぁお仕置きかな、と思ったけど。これはご褒美だな」
クスッと笑った日下部に、山岡はパッと自分の唇を押さえた。
「ぷっ。何それ。あぁ、キス?やっぱりヨかったの?」
クスクス笑う日下部を見ながら、山岡は口を押さえたままブンブンと首を振った。
「しないよ、こんなところで」
「っ…」
さすがにからかわれた、とわかった山岡は、慌てて口から手を離して、俯きながらポツリと言った。
「今日のは…日下部先生のお陰です…」
昨日の特訓の成果なのは明らかで、感謝するように言った山岡に、日下部はにやりと笑った。
「じゃぁお礼をもらおうかな」
「え…?」
「今夜、うちに来い」
ふふ、と微笑む日下部を、山岡はオドオドと見上げた。
「お互い当直じゃないし。いいよな?」
シフトを把握している日下部が微笑むのに、山岡は僅かに逡巡した後、コクンと頷いた。
それから定時まで仕事をした山岡と日下部は、揃って病院を後にした。
ナースステーションではまた悲鳴が上がっていたようだが、山岡は何故か肩を組んでくる日下部に緊張していてそれどころではない。
ギクシャクと足を進めながら、日下部が車を止めている駐車場まで辿り着いた。
「どうぞ」
助手席のドアを開け、エスコートしてくれる日下部に、オドオドしながら山岡は車に乗り込んだ。
綺麗にされた車内に、爽やかな芳香剤の香りが漂う。
女性ならうっとりと喜ぶところだか、こういったことに無頓着な山岡は、もつれる手で一生懸命シートベルトを止めようとしている。
「クスッ」
運転席側に回り込み、車内に乗り込んだ日下部が、そんな山岡を見て微笑んでいる。
「ほら」
もたつく山岡の手を取り、サッとシートベルトを止めた日下部に、山岡の身体がビクッと竦んだ。
「ん?」
「いえ…」
「クスクス。ねぇ山岡先生。本当はそんなに鈍くないでしょ?」
自分もシートベルトを締めながら、日下部はチラリと山岡を窺った。
「ぇ…?」
「眼鏡。伊達だろう?そんなの掛けてるから、逆に見え難かったり距離感が掴めなくてぶつかったりものを落としたりするんじゃないの?」
図星をつく日下部から、山岡はスッと視線を逸らしてしまった。
「ち、違います。オレがトロいせいです…」
俯いて足元を見つめる山岡に、日下部はふぅんと気の無い声を上げた。
「そんなに綺麗な顔をしているのに、隠す理由がわからない」
ブォンとエンジンをかけて、スマートにハンドルを操る日下部が、不思議そうに声をもらした。
「き、綺麗な顔っていうのは、日下部先生みたいな…。オレなんか…」
ボソボソ話す山岡をチラリと見て、日下部は路上に目を戻した。
「はい、オレなんか、出た~」
「っあ…」
「クスクス。どうしてそんなに自己評価が低いんだろうな」
「す、すみません…」
「それを責めてるわけじゃないよ。ただ、不思議なだけ」
「……」
苦笑する日下部に、山岡は俯いたまま膝のところで拳を握った。
「まぁ、追々ね」
すぐに心を開かせようとは思っていない日下部は、山岡が負担に感じる前にサラリと話題を変えた。
「ところで山岡先生は、好き嫌いある?」
「え…」
「っていうか、すごく偏食そうだけど…」
「えっ、その…特に嫌いなものはありません…」
急な質問に首を傾げながら、きちんと答える山岡を可笑しそうに日下部は見る。
「じゃあ好きなものは?」
「…それも特に…」
「え?好きなものだよ?1つくらいあるだろう?」
「……」
黙って首を振る山岡に、日下部は僅かに驚いていた。
そうこうしているうちに、病院からそれほど遠くない日下部のマンションに車は辿り着いた。
2度目の日下部の家に、山岡は遠慮がちに上がり込む。
スタスタとリビングに入り、バサリと上着を脱いでネクタイを寛げた日下部を、ぼんやり突っ立ったまま見つめていた。
「山岡先生?座りなよ」
クイッとソファを示した日下部に、山岡はワタワタと足を進める。
「し、失礼します」
ペコリと頭を下げてソファに座った山岡を見て、日下部がクスクス笑った。
「ねぇ、そんなに固くならないでさ、自分家だと思って寛いでよ。他の友人宅でもそんな?」
やけにガチガチな山岡を見て、日下部は苦笑しながら促した。
「友人…?」
キョトンと不思議そうに顔を上げた山岡に、むしろ日下部の方がキョトンとなった。
「え?友人…。友達の家とか行ったことないの?」
「……」
ストンと俯いてしまった山岡に、日下部は珍しく失敗を悟った。
「ごめん。触れられたくなかったな」
ニコリと微笑んだ日下部に、山岡はハッと目を見開いた。
「違っ…」
「いいよ。無理に聞かないから。ねぇそれより、俺、今から料理するけど、適当に時間潰しててよ。DVDもあるし、雑誌とかはそのボックスのところ。あ、なんなら飲んでる?」
お酒もあるよ、と笑う日下部に、山岡は小さく首を振った。
「そう?じゃあ適当にしてて」
「あっ、あの…料理って…」
スタスタとキッチンに向かってしまう日下部を呼び止めた山岡に、日下部が振り返った。
「クスクス。今日のご褒美。俺、これでも料理上手いよ?美味しい夕食作ってやるから待ってろな」
ニコリと微笑む日下部に、山岡は慌ててソファから立ち上がった。
「そんなっ。オレも手伝い…」
「いいって。ゆっくりしてて~」
クスッと笑って、日下部はさっさと対面型のキッチンの向こう側に立ってしまった。
「あ、う…」
オロオロと戸惑った挙句、結局ストンとソファに腰を落とした山岡は、ぼんやりと目の前のテーブルを見つめていた。
対面型キッチンの向こう側からその姿を眺めながら、日下部は様々な考えを頭に浮かべる。
山岡のひととなりや過去が気になる。せっかくの美貌を隠す理由も、人見知りというにはあまりに過激な、むしろ対人恐怖症に近い振る舞いも。
山岡が見せる言動の全てが気になって仕方ない日下部は、結局、料理をしている間中、ただぼんやりと時間を過ごしている山岡に苦笑を浮かべていた。
「さぁできたよ。おいで」
それから小一時間。ダイニングテーブルに料理を整えた日下部が、ニコリと微笑んで山岡を呼んだ。
「えっ?あ…」
ぼんやりと無意味な時間を過ごしていた山岡は、ハッと顔を上げてソファから立ち上がる。
「うわぁ…」
ダイニングテーブルまで近づいてきた山岡は、その上に並んだ料理に驚いていた。
「好き嫌いないって言ったから、適当だよ?」
スッと自然に椅子を引いてくれた日下部に、山岡も流されて座ってしまう。
女性ならこのスマートな日下部のエスコートに惚れ惚れするところだが、やはり山岡は気づきもしない。
それよりも、テーブルの上に並んだ料理に興味津々だ。
「すごい…」
呆然と呟く山岡の向かいの椅子についた日下部は、山岡の表情を見てクスクス笑った。
「大したものじゃないけど」
明らかに謙遜だろうと思う、日下部が作ったのは、ラザニアにマッシュポテト、野菜のポタージュにキャロットラペ、カリカリにトーストしたバゲットだった。
「食べよ」
「こ、こんなすごいもの、いいんですか?」
本気で驚いている山岡に、日下部は苦笑した。
「すごくないから。ほら、いただきます」
「っ…、い、いただきます」
きちんと手を合わせて頭まで下げて挨拶する山岡を、日下部は眩しそうに見つめる。
パクンと早速ラザニアに口をつけた山岡の顔が、珍しくパッと輝いた。
「美味しい…」
「クスッ。それは良かった」
山岡の口に合ったことにホッとして、日下部も自分の分に手をつけ始める。
向かいでは今度はキャロットラペを口に運んだ山岡が、小さくだが微笑んだ。
「おかわりあるからな」
「え?いぇ、十分です」
「だって山岡、昼いつもあんなで、俺は心配なわけよ。普段、夜は何食べてるの?」
興味がてら聞いた日下部に、山岡はケロッととんでもないことを口にした。
「えっと、カップ麺とか、コンビニのお弁当とか。パンも…」
「はぁぁあっ?」
さすがの日下部も、美貌を崩して素っ頓狂な声を上げてしまう。
「す、すみません…」
わけもわからず反射的に謝ってしまった山岡に、日下部が深い溜息をもらした。
「冗談抜きにさ、身体壊すって」
「……」
「なぁ山岡。なんならさ、これから毎日、食べに来る?」
心配と、半分の下心。ニコリと微笑んで提案した日下部に、山岡はハッと顔を上げ、フルフルと首を振った。
「め、迷惑なので…」
「俺、言った?」
「え…?」
「迷惑なら始めから誘わない。それに俺だって、1人で食べるより、山岡がいたら楽しいよ」
ふわりと微笑む日下部に、山岡は僅かに瞳を揺らした。
「山岡は?1人より良くない?」
「わ、わかりません…。は、初めて、だから…」
ストンと俯いてしまいながらボソッと呟いた山岡に、日下部の眉がギュッと寄った。
「初めて?」
「だ、誰かと食べるの…」
少し恥ずかしそうに言った山岡に、日下部の目が大きく見開かれた。
「待って。だって家族とか…」
「あぁ、オレ、いないんです…」
ポツンと言った山岡に、日下部はヒュッと息を呑んで、どうしようかと考えを巡らせた。
「あっ、すみません。暗いですよね」
ふわりと小さな微笑みを浮かべる山岡は、誤魔化すようにパクパクと料理を口に運んだ。
「山岡…」
「あっ、これ、なんて言う料理なんですか?美味しいですね」
いつになく饒舌になった山岡に、日下部はまだ踏み込んでいいことではないのだと察して、ふわりと微笑んだ。
「どれ?ラペ?マッシュポテト?」
「な、なんかお洒落ですね…」
あせあせと目を泳がせる山岡に、日下部は優しく目を向けた。
「言いたくないことは聞かないから。そう警戒するな」
ニコリと笑って安心するように言ってくれる日下部に、山岡は不意に俯いてしまった。
「な、なんで日下部先生は、オレなんかに、こんなに優しいんですか?」
完全に俯いて食事の手も止めてしまった山岡に、日下部は苦笑した。
本音を言えば、興味と下心。だけどそれを今言ったら、山岡は警戒するだろうし拒絶されるだろうし。日下部はだから山岡の反応を計算しながら、ニコリと微笑んで見せた。
「また言ったな?オレなんか」
「あっ…」
「これはお仕置きだな。なぁ山岡?」
結局山岡の問いをはぐらかして、日下部はニヤリと笑った。
山岡が慌てて顔を上げて、ウロウロと視線を彷徨わせる。
「よし、罰として、当直じゃない日は、家で一緒に食べること」
決まり、と言い切る日下部に、山岡はハッと目を見開いた。
「日下部先生…」
「不満?でも拒否権はないよ。お仕置きって言ったろ?破ったら痛いお仕置きするからな」
半ば脅すように言った日下部に、山岡はブンブンと首を振った。
「い、痛いのは嫌です…」
「だから毎日食べに来い。なっ?」
「本当にいいんですか…?」
「むしろ来ない方が悪い」
「っ…」
「約束」
ニコリと笑って小指を差し出す日下部に、山岡はオズオズと手を出した。
「指切りげんまん…」
小指同士を絡めて、子どもがするような約束の儀式を交わした日下部と山岡。
これにもまた山岡が驚いていたのを見逃さなかった日下部は、ますます山岡の過去が気になっていた。
けれど、そんな素振りは露ほども見せず、むしろ夕食を毎日共にする流れに持ち込めたことに、こっそりと満足げな笑みを浮かべていた。
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