10 / 426
第10話
そんなこんなで、山岡が顔を上げている時間が増え、周りが少々ざわつき始めながらも、変わらぬ日々が続いていた。
互いに当直がない日は連れ立って日下部の家に向かい、日下部の手料理を食べる日々。
だんだんそのことに山岡も慣れ始めていた。
その日も、2人とも当直がなく、だいぶ遅くはなったが、仕事を終えて日下部の家でそれぞれの時間を過ごしていた。
「今日はリクエストの肉じゃがとハンバーグ」
キッチンに立った日下部が、クスクスと笑いながらリビングの山岡を見る。
日下部が無造作に置いてある雑誌を眺めながら、山岡が嬉しそうに笑った。
この頃は、だいぶ表情が出るようになってきた山岡に、夕食のリクエストなんかもできるようになっている。
今日のリクエストも変わった組み合わせだが、山岡が家庭料理と呼ばれるようなものを好んで要求することに、ここ数日で日下部は気づいていた。
まだまだ日下部の知らない山岡のことは多いけれど、少なくとも山岡は日下部を拒絶していないことに日下部は内心喜んでいた。
(でもそろそろ次に行きたいな…)
だいぶ心を許し始めてくれたと思う山岡に、日下部は考えを巡らせる。
次のプランを立てながら料理の手を動かしていた日下部は、不意に山岡の携帯の音が鳴り響いて、ピクリと緊張した。
「っ…」
山岡も同様に緊張を滲ませる。
そうだ、今日は山岡はオンコール。携帯が鳴るのは病院からしかないと知っている山岡は、急いで携帯を取り出した。
「はぃ、山岡です」
通話を始めながら、すでに雑誌をしまい、ソファから立ち上がる山岡をチラリと見る。
真剣な表情に、あまりよくない急患だと知れた。
「はい、はい。わかりました、すぐ行きます。10分くらい…はい、それで」
張り詰めた声を出しながら携帯を切った山岡に、日下部も手を洗ってキッチンを回ってくる。
「病院?車出すよ」
「いえ、タクシー呼ぶので」
「いいから。急ぐんだろ?」
「っ…でも」
「こういうときは素直にありがとう!ほら、行くよ」
素早くキーと上着を持った日下部に、山岡は慌てて鞄を持つ。
スタスタと玄関に向かう日下部を、山岡も急いで追った。
バタバタと夜間入り口から病院に飛び込んだ山岡は、時間が惜しいとばかりに眼鏡をポケットにしまい、前髪を分けてピンでとめながら廊下を足早に進んでいた。
病棟急変だったらしく、迷わず消化器外科病棟に向かった山岡は、何となく後ろをついてきていた日下部にもう注意を払っていない。
「状況は?」
ナースステーションに飛び込んだ山岡に、バタバタしていた看護師が振り返った。
「バイタル、検査結果、これです。木村先生がオペ場向かってます」
「う~。やっぱりオペだな…。麻酔科は?」
「連絡済みです」
「オレもすぐ行く」
緊急検査結果を片手に持ちながら、素早く身を翻す山岡。当直していたらしい研修医の木村が、きっと困って慌てているだろう。上級医である山岡は、急げる最大のスピードで手術室に走り、すぐに術衣を身にまとっていった。
「って…今の誰?」
山岡が慌ただしく去って行ったナースステーションに、看護師のボケッとした声が響いた。
「え?え?ダメ岡?」
まさか、いや、と何度も目を擦っている看護師は、未だに自分の見たものが信じられない様子だ。
「えっ?待って。あたし、誰にオンコールしたっけ?」
眼鏡なし、前髪なしの山岡に、完全にパニックを起こしている看護師を、日下部が廊下の陰からこっそりと見て笑っていた。
そうしてオペ室内。
滅菌ガウンをまとい、帽子を被り、鼻まで覆うマスク。ほぼ目しか出ていない山岡の、その目にすらゴーグル。お陰で山岡の美貌は、結局見えていないも同然だ。だから誰も気づかない。今までもそうだった。
いつもこうしてオペ前に支度を済ませていた山岡だから、今日は本当に珍しかったのだ。
「お待たせしました。麻酔いいですか?」
「オッケー」
「木村先生、落ち着いてください。前立ち頼みます」
磨いた手をオペ用手袋に包み、指先を上に向けてスッと患者の前に立った山岡の目が、キラリと変わる。
「……でラパ…。よろしくお願いします」
スッと頭を下げた全員を見て、山岡は機械出し看護師に右手を差し出した。
「メス」
パシッと手のひらに馴染んだメスを、迷いなく患者の腹に向ける。
怖いほど真剣な顔をした山岡のオペは、順調に進んでいった。
数時間に及んだ緊急オペを終え、山岡はホッと一息ついていた。
すでに脱いでしまった手術着に、下ろした髪と眼鏡。いつもの山岡に戻って、病棟のナースステーションに顔を出した。
「あっ、お疲れ様、山岡先生」
「え?日下部先生…」
そういえば、山岡は日下部に送ってもらったまま、すっかり忘れていた。
ニコニコと看護師たちと喋っていた日下部に迎えられ、今更ながらにハッとなる。
「あ、オレ…すみません」
「ん?何が?」
「日下部先生のこと…」
忘れ去った挙句、すっかり放置していたのだ。申し訳なさそうに俯いた山岡に、日下部はニコリと微笑んだ。
「急患だもの。当たり前だから気にしてないよ」
「すみません…」
サラリと笑う日下部に、居合わせた看護師の目がハートマークだ。
「それよりこれ。食事前だったからね」
一旦家に戻って、また来てくれたのか。
日下部は、夕食を夜食に作り変えて、持ってきてくれていた。
「んもう、日下部先生、料理まで上手なんてパーフェクトすぎますよ~」
ご相伴に預かれたらしい看護師が、ますます日下部に熱を上げている。
「山岡先生の分、ちゃんとあるから。食べて帰ろう」
ニコリ。ナースステーションのデスクに軽食を広げてくれた日下部に、山岡は俯いたまま小さく首を振った。
「あの…もう悪いので…。日下部先生、帰って休んでください」
下を向いたままボソボソ言う山岡に、日下部の視線が僅かに鋭くなる。
「それで山岡先生は?」
「あ…適当に、タクシー呼んで帰るので…」
目を合わせないどころか、顔すら上げない山岡に、日下部の目はどんどん鋭くなっていった。
「そういう遠慮は嬉しくないよ」
「でも…今日オンコールなのはオレで…日下部先生、オレに付き合ってたらまだ帰りが遅くなるし…。今ならまだ十分休めるので…。オレなんか置いていって…」
グズグズと俯いたまま言い募った山岡に、日下部がバンッ!といきなり机を叩いた。
「っ?!」
ビクンと飛び上がって言葉を途切れさせた山岡と、近くにいたままだった看護師も驚いて固まった。
硬直した空気に気付きながら、日下部はピリピリとした怒気を醸し出して、山岡を睨んだ。
「禁止ワード。何回目?」
ズシン、と一段低くなった日下部の声に、山岡の肩がピクリと揺れる。
俯いた顔がますます下がり、身体まで小さく丸めてしまっている。
「ふぅ。ごめんね。これ、夜勤のみんなで食べちゃって」
不意に怒気を緩め、看護師に向き直って微笑んだ日下部。これ、と言って示したのは、山岡のためにととってあった夜食だ。
「いいんですかぁ?」
「うん、もちろん。で、行くよ、山岡先生」
スッと山岡に視線を戻した日下部は、看護師に向けたのとまったく違った鋭い目をしていた。
「っ…」
さっさと席を立った日下部が、ついて来いと無言の圧力をかけている。
ビクビクと怯えながらも、山岡は仕方なく日下部の後を追ってナースステーションを出て行った。
ともだちにシェアしよう!