13 / 426
第13話
そうして結局、1時近くになった頃、山岡がヘロヘロとバックヤードに入ってきた。
「お疲れ様」
「っ?!え?日下部先生?」
まさか、日下部がいるとは思いもしていなかったのだろう。
ビクンと大袈裟に飛び上がった山岡に、日下部は苦笑を浮かべた。
「何を驚いているんだか」
「いえ…だって、その、もう遅いので…」
「まだ昼休みは残っているし、お昼、一緒に食べるんでしょ?」
「だって…その、それは…時間が合ったときだけだって…」
わざわざ待ってもらってまでというのは約束してない、と呟く山岡は、またもズルズルと俯いていっている。
「ふぅん。じゃぁお仕置き」
「えっ?!」
「お仕置きするために待ってた、って言えばいい?」
クスッと人が悪そうに笑う日下部に、山岡は明らかな怯えを目に映した。
「だって、今日、冗談にならないミス連発してたでしょ」
知ってるよ?と笑う日下部に、山岡はグッと唇を噛み締めた。
幸い、最後に残っていた看護師も、山岡の診察終了とともにさっさと昼食に消えて行ったため、ここには日下部と山岡しかいない。
日下部の情報源を探ることもできない山岡は、ただ事実を掴んでいる日下部に、困ったように俯いた。
「俺は山岡のオーベン(指導医)じゃないけどさ。下手したら患者の負担になるようなミスは、見逃せないよな?」
チラリ、と俯きしおれる山岡の様子を盗み見て、日下部は目を光らせた。
「どうして?」
「え…?」
「物を落とすのはいつものことだけど、他は、普通、山岡はやらないようなミスだったろ」
「っ…」
「なんで?」
本当は、理由なんかわかりすぎるほどわかっていて、それでも日下部は山岡の口から言わせようとしていた。
「……」
「山岡先生?」
「っ…。オレ…たるんで、て…。すみません」
しゅん、と俯いてボソリと言った山岡に、日下部はわずかに目を細めた。
てっきり、日下部のせいだと罵られるのを覚悟していたというのに、山岡はそんな言葉を一言も言わなかった。
「たるんでた?」
「はぃ…。患者さんや診察じゃない…他の、ことに、気を取られてて…。すみません」
ますます反省を滲ませる山岡に、日下部は余計に意地悪がしたくなった。
「気を取られた他のことって?」
どうしても、自分のせいだと言わせたい日下部が問いを重ねるのに、山岡はわずかに逡巡して、そっと目を伏せた。
「自己都合です…」
ポソリ、と呟いて口を引き結んだ山岡に、さすがに日下部は降参した。
「本当に甘え下手」
「……?」
「俺のせいで、痛みが残ってて、動きにくかったんだろ?その度に思い出して、気が散ったんじゃないのか?」
図星だろ、と言い当ててやる日下部に、山岡はハッとしながらも、小さく首を振った。
「痛い、のは、その…。でもそれで思い出したり、気を散らせたりは…悪いのは、オレですから…」
恥ずかしそうに俯きながらも、他の誰かのせいではない、と言い切る山岡を、日下部は眩しそうに見つめた。
「俺の負け~」
「え…?」
「俺のせいで、お尻が痛い!って食ってかかってきたら、山岡のせいだろ?って苛めてやるつもりだったのに…」
「ぇ?」
「なんて潔い。でも面白くないぞ~。まったく、本当に甘え方を知らないんだな…」
ふぅ、と吐息をついて苦笑した日下部は、何気なくポンッと山岡の頭を撫でた。
「なっ…?」
「介抱してやるよ。診察室入れ」
「っ?!」
「冷やしてやるって言ってるの。んでその間に昼ごはん調達してきてやるから。今日はここで食べような」
ニコリ。看護師たちなら悲鳴が上がるだろう綺麗な笑みを浮かべた日下部に、山岡は何も感じることなくブンブンと首を振った。
「や、やですよ…」
「なんで?」
「ひ、冷やすって…その、お、お尻出すってことで…」
「あぁ、時間外の診察室なんて、誰も来ないだろ」
「それでも…いやです。いいです、このままで…」
確かに、患者出入り口側は鍵が掛かるけれど、バックヤード側は扉がないから、誰でも入って来れる。
そのことを警戒した山岡は、いやいやと首を振って、日下部の手からするりと逃れた。
「いいの~?午後、もしかしたら緊急入るかもよ~?」
今日は手術日ではない。だからといって、急患が出てオペが必要にならないとも限らない。
「オペ中に、お尻が痛くて手元が狂いましたなんてことになったら、シャレにならないと思うけど」
クスッと意地悪く笑った日下部に、山岡はカァッとわずかに顔を赤くして、ムッと唇を尖らせた。
「大丈夫ですっ!」
山岡にしては珍しく、真っ直ぐ顔を上げて日下部を睨んで声を張っていた。
一瞬驚いた日下部が、次にはとてもとても嬉しそうに顔を綻ばせる。
「なに…笑って…」
「いや…。じゃぁ、食堂行く?」
「っ…」
それも嫌だな、という内心があからさまに山岡の表情に出る。
答えを待つ間、日下部はニヤニヤと山岡を見つめている。
『ふふ。かなり俺に馴染んだな…』
随分と気を許してくれている山岡の態度に嬉しくなりながら、日下部はのんびりと山岡の答えを待っていた。
「う~…。いっそ今日はもう…」
「抜き、なんて言ったら、この場で痛いお仕置きだぞ?」
ついに面倒くさくなったのか、一番悪い結論に達した山岡を、日下部は先に制する。
「っ…ば、売店で…パ、お弁当…」
パン、と言ったら怒られるとでも思ったのか。
どうにか答えを出したらしい山岡に、日下部はふわりと優しい笑みを浮かべた。
「じゃぁ買って、当直室行こう。あそこなら鍵はかかるしベッドはあるし、お湯も出るし」
泊ることも食べることも飲むこともでき、デスクもソファもベッドもある部屋を思い浮かべ、日下部が提案する。
さすがにそこなら、と思ったらしい山岡も、大人しくそれに頷いた。
そうして仲良さそうに売店に連れだって現われ、2人して当直室に消えて行った山岡と日下部を目撃した看護師たちの悲鳴と噂が、またたくまに病棟中に広まっていったことを、山岡だけが知らなかった。
ともだちにシェアしよう!