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第20話
「ある日、M総合病院の救命救急に、救急搬送に付き添って、救急車から飛び降りてきた医者がいた」
「……」
「交通外傷の患者さんで、膵臓損傷に十二指腸損傷?緊急手術が必要な症状だった」
「っ…ぁ…」
「その日、ミナミは大規模な食中毒騒ぎが近くであってね、その急患がゴロゴロと救急に運ばれていた」
少しだけ遠い目をしながら、日下部は記憶を呼び覚ますように話した。
「ごった返す処置室に、廊下まで患者でいっぱい。医者も手一杯。なぁんで更に救急搬送受け入れてんだよ状態で、滅茶苦茶だったんだよな」
「っ…」
「スタットコールをかけてなお、当然やれる医者の手なんかなくてな」
「……」
「ミナミのスタッフが戸惑う中、ついてきていた医者を名乗る男がな、言った」
「……」
「オレがやります。オレ消化器外科医です、って」
クスッと笑った日下部に、山岡も、その日の出来事が、脳裏に蘇るのを感じた。
「確かに、そいつがしてきた応急処置は完璧だった。猫の手も借りたい状況だった現場は、混乱に乗じてそいつを受け入れた。まぁ、色々問題はあるんだろうけど、人命の前にオール無視」
「あぁぁ…」
「クスッ。思い出した?山岡だったよな、あれ」
ニコリと微笑む日下部に、山岡はコクンと頷いた。
「途中から前立ちしたの、俺。覚えてないだろ」
「っ?!」
「最初、研修医でいいっつって、ど素人に近い若いの連れてって、心配でな~。自分の方が落ち着いたから交代に行ったんだ。でも、山岡のオペは迷わず完璧だった」
「そんな…」
「慣れない他院、慣れないスタッフ、使えない前立ち。それにもかかわらず、順調にオペが進んでた。なんだこいつ~って思ったよ。前立ち代わった後も、正確で完璧な手技。初めて、人のオペに見惚れた」
ニコリと微笑む日下部から、山岡はストンと顔を俯けた。
「術後処理も完璧に済ませて、勤め先と名前だけ残して去って行ったのも格好良かったよな~。思わず追いかけて転勤しちゃうほど」
「まさか…」
「意外?山岡泰佳っていう医者のいる病院で働きたくなった。もっともっと間近でオペを見たいし、この天才と一緒に働きたいと思った」
ふふ、と笑った日下部に、山岡がガバッと顔を上げた。
「まさか、そんな…。だって、日下部先生はうちの消化器外科のエースで…よっぽど…」
ゆらりと頼りなく揺れる山岡の目を、日下部は真っ直ぐ見返した。
「そんなことない。俺からみたら、本当にエースと呼ばれるのにふさわしいのは、山岡のほうだ」
「っ…」
「なぁ、山岡。外せよ、眼鏡。前髪、切れよ」
ジッと見つめてくる日下部の視線に捕えられ、山岡はその視線に縛られた。
「山岡は、ダメ医者なんかじゃない。ダメ岡なんかじゃない。本当は…本当の山岡泰佳は、あの日のドクター山岡の姿の方なんじゃないの?」
「っ…。な、にを…」
「俺は知ってる。山岡泰佳は、超一流の腕を持つ、天才消化器外科医だ」
「っ…」
ギュッと唇を噛み締めた山岡が、本当に小さく、下手をすれば見逃してしまいそうなほど小さく、首を振った。
「山岡の過去は聞いた。多分、あれが全部じゃないことも、俺はわかってる。でも、でもな…」
「っ、日下部先生っ!」
「俺は、逃がさないよ。前髪切れよ。眼鏡なんかするな。堂々と顔を見せて、堂々と顔を上げて、俺は天才だって、胸張って医者やれよ。みんな絶対に振り向く。みんな絶対に認める。うちのエースは、本当は俺じゃない。山岡が、山岡こそが…」
力が入る日下部に、ふと山岡が、小さな自嘲を漏らしたのを、日下部は見落とさなかった。
「っ?!や、ま…おか?」
「オレは、駄目ですよ。出来ません。…オレなんか、ただのダメ医者です」
ニッと不格好に唇の端を歪ませた山岡が、わざと、『オレなんか』を強調して日下部を見つめた。
「ごちそうさまでした。美味しかったです。オレ、先に帰りますね」
サッと財布から数枚の札を取り出してテーブルに置いて、山岡は素早く席を立ち、駆けるように店内を出て行ってしまった。
「ちょっ…待っ…、くそ。失敗したのか?俺…」
思わず熱が入ってしまったのは気付いていた。けれど、まさかあんな風に突然の拒絶にあうとは思ってもみなかった。
「なんでだよっ、くそ。でもここで諦めてたまるかよ」
伝票とお金をバッと掴み取り、日下部は急いで会計を済ませ、山岡の後を追った。
店内から、道路を右に行く山岡は見えていた。急いで追いかけた日下部は、随分と先の方に、走る山岡の後ろ姿を見つけた。
「山岡っ」
声を上げて、必死で追う。
山岡は、目的地もなくやみくもに駆けているのだろう。その足が向いている先が、どこかわかっている様子はない。
「山岡…」
無意識に足が向かうのか、ただの偶然にしては、出来過ぎている山岡の行く先。
後を追う日下部は、思わず笑みを浮かべてしまう。
「神とか信じないけど…こういう采配をふるうんなら…」
ちょっとは信じてやるか?と思いながら走る日下部は、山岡が、急にゆっくりと走るペースを落とし、目の先に見えてきた景色に戸惑ったのを察した。
「っ…」
ゆっくりと、いつしか歩くペースにまで落ちた山岡の足は、最終的に1つの建物の前で、ピタリと止まってしまった。
「M…総合、病院…」
山岡が気付かずにたどり着いてしまった場所。
日下部と山岡が出会ったという、始まりの場所。
「山岡…」
ようやく追いついた日下部が、呆然と病院前に佇む山岡の腕を捕まえた。
「っ?!日下部先生…」
「待てよ、山岡」
「っ…離して下さい」
「嫌だね」
「っ、日下部先生っ!」
「嫌だ」
M総合病院の前の路上で、山岡と日下部は、互いに1歩も引かない目で互いを見つめた。
こつり、こつりと秒が時を刻む。
ふと、先に目を逸らしたのは、山岡のほうだった。
「だめ…ですよ…」
「山岡?」
「だめなんです、オレは…」
小さく首を振って俯いた山岡が、ぽつり、ぽつりと呟いた。
「言い、ましたよね、オレ…。疫病神だって…」
「山岡?」
「だめ。だめなんです。オレが目立ったら」
急に、小さく震えて、日下部に掴まれていない方の手で自分を抱きしめるような仕草をした山岡が、怯えを目に映して小声で呟いた。
「始めはちやほやしてくれるかもしれない…。でも、必ず日下部先生はオレが邪魔になる。オレを疎んで、嫌うようになる…」
「おい」
震える声で言葉を紡ぐ山岡に、日下部は思っていたよりもずっと根深い山岡の傷と、さらなる昏い経験の存在を垣間見た。
「オレが悪いんです…。醜いオレが、教授を誑かしたから…」
「おい?山岡?」
「教授に取り入ったって…。ちょっとオペが得意だからって、目立って…調子に乗ったって…」
「っ、山岡」
「オレ…最初はみんな、天才だとか、逸材だとか…ニコニコ、チヤホヤしてくれたけど…」
「山岡…」
「やっぱり、駄目なんです。オレなんかが目立っちゃ、駄目なんですよ…」
泣きそうな顔で俯く山岡に、日下部はその昏い昏い経験の大体のところを察した。
「山岡…大学病院にいたのか…」
「っ!…駄目、なんです…。オレは地味に、大人しく、目立たないようにしていなくちゃ…」
「……」
「オレなんかが、こんな醜い顔見せて、堂々となんてしちゃいけない…。日下部先生の…エースの邪魔なんか、しちゃいけない…。だから、離して下さい。オレのことはもう、放っておいて下さい…」
「っ…」
「オレは疫病神。周囲の人をめちゃくちゃにしてしまう、みんなみんな狂わせてしまう、最悪な存在なんです。だから、日下部先生ももう、オレの側にいちゃいけない」
スゥ、と静かな涙を流しながら、山岡はそっと諦めにも似た悲しい微笑を浮かべた。
それを見た日下部の中に、激情が渦巻く。
「っ…くそっ!くそっ、くそっ!」
「っ?!」
「誰だよ!なんでだよ!山岡が何をしたっていうんだよ!」
「っ…?」
「ただ、綺麗な容姿に生まれただけだろ。たまたま、才能に恵まれただけだろ。それを何で、純粋なこいつに、何を吹き込んだんだよ!何でこんなに、傷つかなきゃならないんだよ。なぁ山岡っ。何でおまえは…」
居ても立っても居られなくなった日下部は、切なく微笑む山岡の腕を引き寄せ、グイッとその腕の中に抱き締めた。
「く、日下部先生っ?」
「守るよ」
「え…?」
「俺が山岡を守るよ。山岡を傷つける全てのものから。山岡を苦しめる全てのことから」
「っ?!」
「好きだ、山岡」
「く、くさかべ、せん、せ…?」
「好きなんだ、山岡。俺はおまえに惚れてる」
ぎゅうっと強く山岡を抱き締めながら、日下部は想いを込めて山岡に囁いた。
「言っただろ?あの日。ここで、山岡と俺が出会ったあの日。俺は、おまえのオペの腕前に見惚れた。真っ直ぐに、堂々と顔を上げ、ただひたすらに患者の命を掬い上げることだけを考え、凛と立っていた山岡に、惚れた」
「っ…」
「最高の腕を持って、最高の志を持って、正義のヒーローだぞ?格好よかった。そりゃ、惚れるだろ」
「っな…」
「綺麗だったよ。惚れ惚れした。真っ直ぐ命と向き合うおまえは、本当に」
「そ、んな…」
真っ直ぐ、真摯に想いを伝える日下部に、山岡の目が頼りなく揺らいだ。
「だから俺は、山岡を守りたいと思うし、辛い過去の傷があるなら癒したい。山岡の今を包み込んでやりたいし、みんなに自慢もしたいわけ」
「っ…」
「だって、俺が惚れた男なんだぞ。本当は最高に格好いい、天才外科医なんだぞ。それが、みんなに馬鹿にされ、本人さえも自分を貶めているのは、どうしたって嫌に決まってるだろ」
クスッと笑う日下部に、山岡は、その腕の中でもぞもぞと身じろいだ。
「オレ…。オレは…」
戸惑いと、驚き。腕の中の山岡から、嫌悪や拒絶の感情が伝わってこないことに、日下部はらしくもなくホッとする。
「オレは…」
「ん。いいよ、焦らなくて。いきなりこんなこと言われても、驚くよな。ゆっくりでいい、ただ、知ってて」
「っ?」
「俺が山岡に惚れてるんだってこと。俺が、山岡泰佳を、好きなんだってこと」
そっと腕の力を緩め、身体を離してニコリと微笑んだ日下部に、山岡の目がゆっくりと見開かれていった。
「オレ…」
「うん」
「本当に、オレなんかを…?」
「あ~、また言った。だから、それなんだって。山岡は山岡なんかじゃない。俺が惚れた、俺にとっては唯一無二の大切な存在なんだって」
むっとわざと怒ったような顔をして見せて、コツンと山岡の頭をぶった日下部に、山岡が反射的にそこを押さえながら、日下部を見上げた。
「オレ…」
「クスクス。そういう可愛い顔すると、襲うぞ」
無意識なのだろうが、上目遣いに見上げてくる山岡に、からかうように笑った後、日下部はくるりと向きを変えた。
「ほら、車、取りに行こうな」
残念なことに、山岡が暴走してくれた方向は、ショッピングモールから遠ざかっていた。
元来た道を戻ろうと山岡に背を向けた日下部を、山岡がハッと見つめる。
「ま、待ってっ…くださ…」
「ん?」
「待って、ください。オレ…」
「どうした?」
きゅ、と日下部の服の裾を掴みとめた山岡に、日下部が振り返る。
俯いたまま、モジモジと視線を彷徨わせている山岡の言葉を、日下部は静かに待つ。
「あの…オレ…」
「うん」
「オレは…日下部先生の、ご飯とか…す、好きで…。一緒に帰ろうとか、食事…誘ってくれるの、嬉しくって…」
「うん」
ぽつり、ぽつりと言葉を選ぶ山岡に、日下部は、期待が胸に湧くのを感じる。
「今日なんかも…一緒に出かけるの…た、楽しくて…」
「うん」
「その…ま、前にその…」
カァッと頬を赤くした山岡に、日下部はその言葉の先を察して、じわじわと緩んでいく自分の顔を自覚していた。
「ん?」
「その、あの…キ…」
「あぁ、キス」
「っ!」
サラリと日下部が言った途端、ボンッと赤くなる山岡の顔が可笑しい。
けれども、この流れは、もしやもしやの、大きな期待が日下部の胸に去来する。
「あ、う…そ、その…キ、キス…。嫌じゃ、なくって…」
「山岡…」
思わず、山岡との距離を1歩縮め、クイッとその俯いた顔を上げさせてしまう日下部。
その目が、熱っぽく潤み、限界いっぱいいっぱいの涙がたまっているのが見える。
「っ…あ、の…。オレ、は…、日下部先生が…声をかけてくれた、ときは…いつも…嬉しくて…」
「うん」
「これ、は…く、日下部先生と同じ…す、好きかは、わからないんですけど…でも、もっと、一緒にいたいとか…」
思って、と言いながら、ついに感情が高ぶったか、ツゥと山岡の目の端から涙が一筋伝い落ちた。
それを見て、日下部の中で、パンッと何かが弾けた。
「っ~~!山岡、それはな、好き、っていうんだよ」
「っ…」
「クスッ。惚れてんだろ、俺に」
「や、あの…」
「ほら、言ってみ?」
意地悪な笑みを浮かべ、ゾクリとするような色気をまとった日下部の声に、山岡が小さく唇を震わせた。
「泰佳」
ボソッと、わざと1段低くした囁き声で下の名前を口にした日下部に、山岡の顔がカァッと赤くなり、ゾクゾクと背中をかけあがった何かの感覚に震えた。
「っ!ず、ずるいです…っ」
「クスッ。泰佳、好きだよ」
続けざまに色気をまとった声で囁く日下部に、山岡の顔がくしゃりと崩れた。
「っ~~!」
「ん?」
「す、好き…ですっ。日下部先生が…好き…っ」
泣きながら、精一杯に笑みを浮かべようとしたんだろう。
必死な山岡の告白に、日下部の表情が、それはそれは嬉しそうに、淡く綺麗に綻んだ。
「合格。クスッ」
笑いながら、ゆっくりと顔を近づけていく日下部に、山岡は逃げも嫌がりもせず自然とそれを受け入れる。
ふわりと重なった互いの唇が、緩く開いて、互いの舌を受け入れる。
日下部の攻めるような舌使いに、必死で応えるだけのつたない山岡のキス。
それでもとても満足した顔で、日下部がニコリと微笑んだ。
「じゃぁ行こうか」
「え…?」
「うちと、ホテルと、どっちがいい?」
「え?え?」
突然の日下部の発言に、戸惑う山岡。その困惑を知りながら、日下部は、途端ににやりと意地悪な笑みを浮かべた。
「ふふ。忘れたとは言わせないよ?山岡さっきレストランで、禁句言っただろ。しかも、意識的に」
「っ!」
『お仕置きだな』
コソッと、わざと最後の一言だけ耳元で囁いた日下部に、山岡の身体が明らかにビクリと強張った。
「とりあえず、車を取りに行って、やっぱりうちかな」
ふふ、と笑った日下部に、山岡の顔が青ざめていた。
「ご、ごめんなさいっ…」
「ん?それはあとでたっぷりな?」
「っ~~!」
「大丈夫。優しくするよ」
ひょいと腰に手を回して、逃げられないように山岡をエスコートする日下部。
ワタワタと慌てながらも、結局本気で抵抗をしない山岡は、ずるずると日下部のペースで運ばれていった。
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