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第25話

そうしてこちらは、とりあえず一旦は日下部の追求から逃れてきた山岡。 眼鏡を掛けて安心したか、朝の不審な挙動はなりをひそめ、とりあえずいつもくらいには普通の動きに戻っている。 それでも、看護師たちの視線がチラリと向く度に、ビクリと竦む体は隠しようがない。 (な、なにしてんだ、オレ。大丈夫。自意識過剰だ。大丈夫) テクテクと、消化器外科外来があるエリアに足を運びながら、山岡は深呼吸をして気持ちを落ち着けていた。 「あ、おはようございます、山岡先生」 「おはようございます…」 「今日、あたしが担当です。よろしくお願いします」 「はぃ…」 消化器外科外来について、バックヤードに入った山岡を、担当看護師が迎えてくれる。 他にも数人の看護師が薬品や器具やカルテのチェックをしているのが目に入る。 テクテクと、使用する3番診察室の方へ歩き始めた山岡を、ふと看護師が呼び止めた。 「あの!山岡先生」 意を決したように大声を掛けられ、ビクッと竦みながら、山岡が立ち止まる。 「な、なんですか…?」 顔を俯けたままビクビクとそちらを窺う山岡に、呼び止めた看護師は、思いきったように口を開いた。 「あの、噂に聞いて…確かめたいんですけど」 「っ?!」 「眼鏡、外してもらえませんか!」 お願いします!とガバリと頭を下げる看護師に、後ろにいた看護師たちも、キャァ、言った!えらい!などと騒ぎ立てている。 言われた山岡の方は、ガツンと殴られたような衝撃を受けながら、どうしようかと小さく震えていた。 「あの…山岡先生…?」 頭を下げていた看護師が、ソロソロと窺うように顔を上げた。 山岡は、俯いて固まったまま、どうすることもできないでいる。 「す、少しでいいんです。一瞬、ね?出来れば髪も上げて…」 ワクワクと、期待に輝く視線をいくつも向けられ、山岡は、困り切って視線をうろうろさせていた。 「こぉ~ら、何を騒いでいるのかな?」 ふと、今日は外来担当だったのか。日下部がバックヤードに姿を現した。 診察の準備も始めず、遊んでいるようにしか見えない看護師たちと、その視線の先にいる山岡を見つけ、ニコリと微笑みながら割り込んでくる。 「もうすぐ診察時間だよ?おしゃべりしている暇があるのかな」 ふわり、と咎めるようでいて、看護師たちを魅了する綺麗な笑みを浮かべた日下部に、山岡にたかっていた看護師たちが、パッと視線をそちらに乗り換えてしまう。 「日下部先生っ、おはようございます」 「うん、おはよう。さぁさぁ、それぞれ仕事に移って」 「はぁ~い」 ここ消化器外科一番人気の日下部に微笑まれ、看護師たちはすでに山岡の素顔のことを忘れ、パパッとそれぞれの仕事に散っていった。 「う…あ、ありがとうございました…」 「クスッ。俺もぜひ眼鏡を取って欲しいところだけど、今は引いてあげる」 「っ…」 「話は、後でな?診察、あまり遅くなるなよ?」 「う…。はぃ」 「じゃぁ昼な」 俯く山岡にプラッと手を振って、日下部は担当の2番診察室の中へ消えていった。 「ぅ~…」 助かったものの、さらに状況悪化の気がする日下部に怖い釘を刺され、山岡は変な呻き声を上げながらも、また看護師たちに絡まれてはたまらないと、急いで自分の担当の診察室に飛び込んでいった。 診察開始時間がすぎ、にわかにざわざわと騒がしくなる外来。 手元のマイクで待合室にいる患者を呼びながら、山岡は手元のカルテをパラパラと眺めた。 もちろん、その顔には意地でも外さなかった眼鏡に、相変わらずの長めの髪。 せめてもと、俯かないように上げた顔は、日下部の教育のたまものか。 「失礼します」 「どうぞ。そちらにおかけ下さい」 診察室に入ってきた患者に椅子を勧め、カタカタとデスクの上のパソコンをいじる。 丁寧だが手早い診察に、的確な病状説明。 大分声も出てきた山岡の診察は、滞りなく進んでいく。 隣の診察室では日下部が、相変わらず女性患者にキャァキャァ言われながら、順調に診察をこなしていた。 そうして、珍しく12時ちょっと過ぎに全ての患者を捌き切った山岡を、ひょっこりと隣の診察室から回ってきた日下部が覗いていた。 「山岡先生、終わり?出れる?」 「はぃ…」 最後のカルテを看護師に渡し、デスクの上を片付けた山岡が、診察椅子をくるりと回して、バックヤード側から顔を出している日下部を振り返った。 「あの…」 「じゃぁ、お昼行こう。売店にする?」 「っ…。しょ、食堂がいいです!」 一体何を警戒しているのか。山岡の思考回路がわかりすぎるほどわかる日下部は、クスクス笑いながら頷いた。 「ん、いいよ」 (食堂なら、まぁ手出しはできないわな。でも、無駄に足掻いて時間を引き延ばしているだけのことに気づいているやらいないやら) 売店から仮眠室、イコール密室、を警戒したのがまるわかりの山岡の言動は、日下部にとって本当に面白いだけに過ぎない。 余裕の表情で笑う日下部を、ジリジリと警戒しながらも、山岡はスッと椅子から立ち上がって、奥のカーテンの方に歩いていった。 「お疲れ様です」 「うん、お疲れ」 バックヤードを連れだって通過していく日下部と山岡に、後片付けをしていた看護師たちが頭を下げる。 「お、お疲れ様です…」 よっぽど朝絡まれたことが堪えたのか、山岡は急に足早になって、日下部を追い抜く勢いでスタスタと通路を通過していった。 「そういえば、山岡先生の素顔…」 「あ!すっかり忘れてたよ~。見たらシャメ撮ってって病棟の子にも頼まれてたのに~」 「でも、どうなんだろう?やっぱりあれがイケメンとか…想像つかないんだけど」 「だからこそ、確かめるつもりだったのに。次こそは」 日下部の笑顔にまたやられて素直に見送ってしまった看護師たちが、残ったバックヤードでわいわいと騒いでいた。 そうして、山岡と日下部が連れだって現れた食堂では。 消化器外科のスタッフだけではなく、噂を聞きつけた他科の野次馬たちも、山岡に注目していた。 「う…」 さすがに視線を感じずにはいられなくて、食堂に入った瞬間から怯んでいる山岡を、守るように日下部がさりげなく前に立って歩いている。 あまりにあちこちから向けられる好奇の目は、さすがの日下部も想定外もいいところか。 (ここまで大事とはね…。そんなに物珍しいか…?) たかが、地味目な医者が、実は超美形を隠していた、というゴシップ。まぁ、確かに漫画みたいな話ではあるが、これほど他科からまで興味を持たれるほどのこととは思ってもみなかった。 (うちの科で、ちょっと見直してくれればよかっただけなのに…) これは山岡には相当負担かもしれない、とチラリと窺った山岡は、俯いていて表情はよく見えないが、その体が小さく震えて怯えていることは見てとれた。 「山岡先生」 「っ?!はぃ…」 「食堂やめて、売店にしようか?場所も、中庭とかでいいよ」 仮眠室といえば警戒されるのは明らかで、気遣って言った日下部に、山岡はわずかに考える素振りを見せてから、小さく首を振った。 「大丈夫です…」 「そう?無理しなくていいよ。眼鏡取れって話も、ちょっと保留にするから」 「っ…。はぃ。でも、大丈夫です…。その、日下部先生が…いて、くださるから…」 チラッと、長い髪の間から日下部を窺った山岡に、らしくもなくドキッと胸を躍らせた日下部。 「ありゃ~。そんな信頼向けられたら、応えないわけにはいかなくなるね」 クスクスと余裕ぶって見せたけれど、内心では小躍りしたいほど感激している。 天然で言っている山岡は、むしろ計算がない分、日下部にはたまらなかった。 「じゃぁ、このまま食堂で食べよう。ちゃんと守るからな」 ニコリ。遠巻きにしているみんなに会話は聞こえないけれど、日下部が最上の笑顔を浮かべたのは見えている。 山岡に向いていたいくつかの視線は、それだけで日下部に移り、多少減った山岡への興味に、日下部はますますニコニコと笑顔を大盤振る舞いし始めた。

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