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第38話

そうして翌日。 「ちょ…今日は日下部先生、異様に機嫌良くなかった?」 「うんうん。なんかもう、笑顔200%だったよね」 「仲直りしたってこと?っていうか、山岡のほうはまったく変わりないんだけど…」 またまた、ナースステーション内は、日下部、山岡の話で持ち切りだ。 浮かれている、といっても過言でないほど、ニコニコニコニコしっ放しの日下部に、相も変わらず地味に、いるのだかいないのだかわからない山岡に、看護師たちの噂話は尽きない。 「いや、あたしは見たね」 「なにを?」 「山岡の指。怪我してたよ」 「はぁ?外科医がそんなことでいいのかよ!」 「違うんだって。あれは、包丁でやったに決まってる」 「え?」 「同じ場所、やったことあるもの。あれは絶対、日下部先生に手料理作ろうとして失敗したあとだよ」 ふふふふ、と得意げに話す看護師は、鋭いのだか何なのか。 キャァッ、とはしゃぐ声が、やっぱりナースステーション前の廊下に響いている。 「喧嘩して、仲直りに、手料理をふるまってもらって、超ご機嫌。何か、日下部先生も意外と単純?っていうか、ただの男だったかね?」 「え~っ、手料理でイチコロ?聞いてない~!それなら私だって、料理超得意だよ!」 「あたしも、あたしも。そんなんで日下部先生ウキウキに出来るなら、毎日お弁当作ってくる!」 ワァァ、と盛り上がる看護師たちの話を、今日は珍しく、日下部が1人で、廊下の陰から聞いていた。 『なるほど。お弁当という手があったか…』 放っておくと昼食にまったくこだわらない山岡を思い、ふむふむ、と1人頷いている日下部。 そんなことに気づいていない看護師たちは、さらにワァワァと盛り上がっている。 「抜け駆け禁止だよ!」 「でも、日下部先生、料理上手いよ?」 「え?何で知ってるのよ」 「前に夜勤のとき、一度貰ったことあるんだよね~、手作りの夜食」 「あ~!それ聞いた!ずっる~い」 「え?じゃぁ山岡も料理上手い?」 「上手い人が指を切るか、っての。どうせどんくさいんだろうけどさ~、愛情の差かね」 「え~!愛ならあたしもたっぷりつまってるよ!」 「私も、私も~!」 留まることをしらない看護師たちの会話に、日下部がそろそろ顔を出して咎めるか、と思ったとき。 「でも私思うんだけど」 「ん?」 「山岡、どんくさくなくなったよね」 「え?」 「物とか、落さなくなったと思わない?」 ねぇ?と言い出す1人の看護師に、他のみんなが顔を見合わせて、そういえば、と頷いた。 「確かに、なくなったかも」 「え、待って、それって、眼鏡じゃない?」 「え?」 「あれ、伊達だったって話だよ。確かに、コンタクトしてないっぽいもん」 あまり目自体が見えないけど、と苦笑する看護師に、みんながハッとする。 「それはつまり~?」 「それはつまり~…やっぱり日下部先生が、俺以外に見せるな、って眼鏡させてたんだ~!」 「キャァッ!独占欲ぅ~!」 「やばすぎ~!あぁぁ、あたしも日下部先生に独占されたいぃ~」 「私も私もぉ~!」 山岡を見直したような発言が続くかと思いきや、最終的に日下部の話題に突っ走っていく会話に、日下部は結局苦笑しながら廊下の角からテクテクと歩きだした。 「で、ラウンド終わったのかな~?大田さんの今朝のドレーンは?佐藤さんの体温どうだった?前川さんの…」 「あぁぁ、日下部先生、お、おはようございます」 「おはよう」 ニコリ。さすがにおしゃべりが過ぎたとわかっている看護師たちは、日下部に向けられる綺麗な笑顔に疾しさ全開だ。 「あっ、あたし、清拭行かなきゃ!」 「私も、薬局に…」 「あたしは備品の追加注文があったんだった!」 途端にパッと散っていく看護師に苦笑して、日下部は、ふと壁に付いている時計を見上げた。 『そういえば…1つ確かめたいことが…』 山岡から出た川崎という名前の患者の話。 実は今日出勤後、ふと不審なことに気がついていた日下部は、外来の看護師に朝一で確認を取っていたのだ。 『顔見る前から、山岡が山岡だと分かっていたようだった。フルネーム知ってて、わざわざここに紹介してもらったのは…』 ただの、かつての縁からか、はたまた別の狙いがあるのか。 山岡ほど素直にも単純にも出来ていない日下部の思考回路は、それを注意深く疑っていた。 『もしもあれだけ信頼している山岡を傷つけるような目的があって近づいたのなら、容赦はしないぞ』 こそり、と1人呟いて、日下部は、今日は午前フリーの幸運に感謝しながら、外来に向かって下りていった。 そうして、日下部がこっそり外来のバックヤードにいるとも知らず、山岡はのんきに診察を進めていた。 病棟の看護師たちはああ言っていたが、今日の山岡は、どこか少しだけ浮かれている。 ふわふわとときどき顔を緩める山岡を、外来担当の看護師が、怖いものを見るようにして見ているのがわかる。 『今日の山岡先生、ちょっと不気味に機嫌いいね…』 『うんうん。ときどき手が止まって、ハッとしてるよ、何度も』 『今度は浮かれてまたデーター消したりオーダーミスったりしないといいけど…』 振り回されるのは勘弁、と、コソコソ内緒話をかわす看護師たちにも構わず、山岡はサラサラと綺麗なドイツ語をカルテに綴っていた。 「えっと次は…あ、川崎先生だ」 どうぞ、と渡されたカルテを見て、山岡がふと顔を引き締めた。 マイクで川崎の名を呼び、タタンッとキーボードを打って、画像データを呼び出す。 「っ…」 CT画像をパソコンに表示させた山岡が、ヒュッと息を呑んだところで、ノックの音に続き、川崎が診察室内に入ってきた。 「どうも」 「あ、川崎先生、どうぞ」 「だから、先生じゃないって、何度言わせれば」 「あ、すみません」 山岡と川崎が、お互い苦笑を見合わせたところで、ふとバックヤード側の出入り口から、ひょっこり日下部が顔を見せた。 「失礼。山岡先生」 「え?あ、日下部先生?どうしました?」 「俺も同席していい?」 言いながらも、すでに診察室内に入ってきた日下部に、山岡は首を傾げながらも頷いた。 「構いませんが。あ、川崎先生、こちら、うちの消化器外科医で、日下部です」 「どうも。あ、俺のことは気にしないでくださいね。ただの見学です」 ニコリ。爽やかな笑みを浮かべて、山岡の邪魔にならないところにそっと佇む日下部を、川崎がチラリと見た。 「日下部…。あなたが…」 「え?」 「いや。それで、山岡先生?」 一瞬鋭くなった川崎の目は、すぐに日下部から逸れて、山岡のほうに向きなおってしまった。 (ふん。ビンゴじゃないか…。下心) 自分に一瞬向いた視線が、敵意と嫉妬に満ちていたのを、日下部は鋭く察していた。 ぽつりと呟かれた名前に、多分院内の日下部が故意に撒きまくった噂を耳にしていることがわかる。 (純粋な敬意と親愛を向ける山岡を…裏切ってくれるなよ…?) ジーッと思わず川崎を見つめてしまっている日下部の想いは、ただ真っ直ぐに山岡に向かっていた。 「…で、やはりオペとケモが中心となっていくと思います…」 ふと、思案に沈んでいた日下部の耳に、山岡の話す声が届いてきた。 「まぁ、だよな…。なぁ、画像覗いていい?」 わざと、ファイルを立ててパソコンを隠していた山岡に気づいてはいるのだろうが、川崎は、その気遣いを喜ばなかった。 「っ…」 「大丈夫、覚悟はできてるよ」 「…では、はぃ…」 そっとファイルをどかした山岡に、ズイッと近づいた川崎が、パソコンの画面を覗き込む。 一瞬チラッと日下部に向けた視線は、明らかに宣戦布告か。 『おい。近寄るな』 思わず嫉妬に燃える日下部だが、その海面下の戦いにまったく気づいていない山岡の手前、露わにするわけにもいかない。 ただ真摯に、川崎の病状を憂えている山岡に、この場をぶち壊すような真似もできない。 『くっそぉ…』 日下部が苛々しているとも知らず、山岡は大真面目な顔をして、画像をあれこれ切り替えている。 「うん…まぁ、大体のところは理解した」 「はぃ…。病棟と調整して、入院と、オペの日取りを決めたいと思うのですが」 「空きがあれば、俺はいつでも」 「お仕事とか、都合は大丈夫ですか?」 「うん。いつでも大丈夫だよ」 「それでは早めで…」 「なぁ、執刀はもちろん、山岡先生がしてくれるんだよな?」 「その予定です。今日の午後、カンファなので、掛け合います」 「ご指名だよ。山岡先生に任せたい。なぁ?日下部先生だっけ?あなたからも、患者の要望です、って伝えてくださいね」 にぃっとわらう川崎は、完全なる喧嘩を売っている。 それでもここは大人同士。 ニコリと微笑んで、わざとらしいほど深く頷く日下部に、川崎もにやりと笑いながらも、その裏の心は表に見せない。 「それではこれで。他にご質問は」 「今のところは特に」 「そうですか、ではお大事に…」 「あっ、でももしまた聞きたいこと出たら…」 「あぁ、予約外でもお電話下されば」 「個人携帯でもいい?」 「夜とかでしたら、お聞きしますよ」 にっこり。川崎の裏などまったく疑いもせず、山岡はのんきに請け負った。 個人携番知る仲だぜ、と言わんばかりに、さらに喧嘩を売ってきた川崎に、日下部のご機嫌バロメーターが、完全に下降していた。

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