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第45話
そうして回診に歩いた日下部が、最後に向かった川崎の病室。
簡単な診察をした後、いくつか看護師に指示を出し、部屋を去ろうとした日下部を、川崎がふと呼び止めた。
「あの、日下部先生、少しいいですか?」
「ん?はい、どうしました?」
ニコリ。内心を全く読ませない笑みを浮かべた日下部に、川崎はチラリと看護師を見た。
「あぁ。田辺さん、もうここで最後だから、先に戻っていいよ」
「あ、はぁい。では失礼します」
川崎の視線を察して人払いした日下部に、川崎がスッと表情を変えた。
「日下部先生」
冷やり、とするような声を出した川崎に、日下部は入り口のドアを閉めに向かってから、振り返った。
「なんでしょう」
ニコリと微笑んでいるのに、その目もまた、とても冷ややかに川崎を見つめた。
「っ…やっぱり、噂は本当なんですよね?」
「噂とは」
わかっていながら問い返す日下部の意地の悪さにも、川崎はさすがに怯まなかった。
「山岡先生とのことですよ」
「あぁ」
「恋人関係にあるんですね?」
「ご想像におまかせしてます」
ニコリ。やはり食えない日下部に、川崎はそれでも怯まない。
「山岡先生は…流されているだけではありませんか?」
「それを俺に聞かれましても」
「失礼ですが、あなたは多分、とてもモテていらっしゃる。そんな方が山岡先生を、となると、遊びでは?という心配も」
「なるほど。それはお節介と無用の心配というものですね」
ニコリ。笑顔なのだけど、日下部のそれは完全に作り物だった。
「っ…おれは、山岡先生を…っ」
日下部の揺るぎない自信に、川崎の声が揺らいだ。
「とても尊敬していて…大切にしたくて…。必死で守って…」
ギュゥと布団を握り締めて震える声を漏らす川崎の想いを、日下部は本当はわかっていた。けれども、それは認めない。
「感謝しています。あなたがかつて山岡を守ってくれたから、俺は山岡と出会うことができました」
「っ!おれは…山岡先生が、おれに親愛と尊敬だけを向けていたからっ…決して、決して言えなかった…。下心込みの愛情があることを…」
悔やむように、苦しげに告白した川崎を、日下部は冷めた目で見つめた。
「それを、今になって何故」
「っ…」
「わざわざ、山岡の病院を調べ、さも偶然の再会を装い、山岡に近づいた」
「気づいて…」
「当然ですね。うちも確かに、専門医もいるし、実績も設備もある、治療も可能な病院です。けれどもあなたがかかっていた病院からは、あなたの症状では、がんセンターの方へ紹介が行くのが普通だと思います。患者が自分で希望しない限り、ね」
つまりは川崎がわざわざ、この病院の、山岡泰佳を指定したことに他ならない。
「今さら、何をしにいらしたのでしょうね」
「それは…」
「今になって、散々押し込めていた思いを吐き出しにでも?」
「っ…」
「山岡は言っていました。川崎先生は、オレの光だった、って。最後まで味方だと信じられた、と。川崎先生がいたから、今がある、と」
過去を語った山岡の姿を思い出しながら、日下部はふわりと微笑んだ。
「あなたが何を思い、何を選んできたのか。不意に死を意識して、ふと抱えた思いを伝えていなかったことを後悔し、今さらでも吐き出しにきただろうことは想像がつきます」
「っ…」
「あなたのそのすべてを、俺が否定することはできないし、阻止する権利もありません」
「……」
静かな目をして話す日下部に、川崎の顔がギュッと歪んだ。
「けれどももしあなたが、山岡を傷つけるつもりなら、俺は全力であなたの前に立ちはだかりますよ」
真っ直ぐ向かう日下部の視線を受けて、川崎の目に炎が宿った。
「あんたに…あんたに何がわかるっ…」
「わからないでしょうね」
「っ!あの頃の山岡先生がどれほど危うい存在だったかっ。どれほど辛く苦しい思いをしていたかっ。おれを、どんなに慕ってくれていたか。おれはそれをっ…壊すことはできなくてっ…」
「……」
「おれはもうすぐ死ぬかもしれない。そう思ったときに、心残りが1つだけ。どうしても伝えたかった想いが1つだけ、残ってた」
「……」
「それをっ…それを、何もわからないあんたにっ、邪魔される筋合いなどっ…」
グッと拳を握り締めて叫ぶように言う川崎にも、日下部の静かな目はわずかも揺らがなかった。
「えぇ、わかりませんよ。山岡から向く思慕を失いたくないために、気持ちを殺した選択など。俺にはまだ自分の死は遠い存在です。間近に死を意識した人の気持ちなど、本当にはわからない」
「っ…」
「けれど、1つだけわかることがあります」
「な、に…?」
「山岡があなたの本当の気持ちを知ったら、傷つくということ」
ふわり、と自信に満ちた表情を浮かべる日下部に、川崎はヒュッと息を呑んだ。
「何故あなたは、かつての山岡に、気持ちを黙っていたのです?」
「それは…」
「自己嫌悪、人間不信、絶望、嘆き、苦しみ…そんな真っ暗な世界の中にいた山岡の、あなたは光だった。そのあなたが、もしも優しい愛情の裏に、邪な想いも含んでいると知られたら、山岡をさらに絶望させると思ったからではないのですか?」
「っ…そ、れは…」
「だからあなたは、山岡の光であるために、本心を殺すことを選んだ。山岡を傷つけたくなかったから」
「っ…」
ニコリと笑った日下部に、川崎がギュッと唇を噛み締めて項垂れた。
「そのとき逃げたあなたの負けなんです」
「……」
「本当に、本当に欲しかったのなら、言えばよかったんですよ。あなたもか、と絶望されることを恐れずに。その上でさらに、その絶望を塗りつぶすほど強く、山岡を愛せばよかった。どんな目を向けられようとも、決して離さない覚悟を決めて。真っ直ぐ真っ直ぐ愛せばよかった」
「っ、ぅ…」
「それをせずに逃げたのはあなたです。山岡の尊敬の対象のままで。山岡の敬愛を受ける場所にいたままで、ぬるま湯に浸かることを選んだ。山岡は、そんなあなたを心底信じた。慕った」
「っ…ぅっ、ふっ…」
日下部の言葉に、川崎が声を殺して嗚咽を漏らし始めた。
「俺はしません。火の中だろうと、水の中だろうと厭わない。山岡の傷が再び血を流すなら、俺がその傷口を癒していく。山岡が過去の苦しみに囚われるのなら、俺が必ず解き放つ。山岡を傷つけようとするものがいるならば、俺は全力で排除する。俺が守る。山岡を傷つけるすべてのものから。俺は逃げない。この先一生、山岡泰佳と共に、どんな茨の道だろうと、共に、歩いていく覚悟がある」
真っ直ぐ胸を張る日下部に、川崎は敵わないと思った。
「おれには…茨の道を行く山岡先生を…自分が傷だらけになってまで、抱きしめて、守って、一緒に歩いていく覚悟が…なかった…」
自らさえもトゲトゲの茨を纏って佇む山岡を、川崎は抱きしめられなかった。
自分が傷つくことを恐れて。
けれど日下部は、どれほど自分が傷だらけになろうとも、棘をまとう山岡を平気で抱きしめる。ただ、愛おしいと。
「おれの負けですね…」
「川崎さん…」
「今さら、伝えたいのは、おれのただの自己満足。言えないままに死んでいったら、自分が、傷つくから。後悔の中で死ぬのが嫌な、おれのエゴ…」
「……」
「言えませんね…。山岡先生には、おれが光のままで…。尊敬してくれる、先輩のままで…」
ゆっくりと1つ瞬きをした川崎に、日下部はそっと微笑んだ。
「あなたはかつてそう貫いた。だからこれからも、そう貫いていくべきです」
「っ…。数々のご無礼、お許しください…」
グッと拳に力を込めて、川崎がうっそりと頭を下げた。
いえ、と言いながら、日下部は川崎から視線を外した。
俯けた川崎の顔から、布団の上に水滴が散っていくのが見えたからだ。
ふわりと踵を返した日下部の白衣の裾が翻る。
パタ、パタとドアの方に向かっていく日下部の足音に気づいても、川崎はまだ顔を上げられない。
「っ…ふっ…くっ…」
押し殺した嗚咽が、小さく病室の空気を震わせる。
ふと、日下部がドアの取っ手に手をかけながら、室内を振り返った。
「あぁ、そうだ、川崎さん」
「っ…?」
「MKのステージ3B期でしたっけ?それが、どうしました?」
「っ…な、に…」
「感傷に浸っているところ、非常に申し訳ないのですが。あなたは死にませんよ」
「っ!」
「だってあなたには、天才外科医、山岡泰佳の、腕と、経験と、知識がついているんですよ?」
「っ~!」
ニコリ。自慢げに、自信たっぷりに微笑む日下部に、川崎は思わず流していた涙も引っ込んだ。
「残念ですが、あなたはこの先も、自分を殺し、山岡の大切な光のままで。かつての大切な恩人のままでい続けなければならないんですよ」
「っ~~」
「自信がなければ早急に去ってください。山岡を適当に丸め込んで、他院に紹介状なら書かせますよ?」
クスクス。まったく考えてもいないことをシラッと言い放つ日下部は、やはり意地が悪いのだ。
「っ…いえ…」
「それは、誓いと取りますよ」
「っ…」
「山岡の側に残るのなら、この先一生、山岡を裏切らないで下さい。あいつの信じた、川崎彗河でいて下さい」
「は、い…」
「もしも山岡を傷つけようものなら…」
「っ…」
「俺はあなたを絶対に許しませんからね」
お忘れなく、と微笑む日下部に、川崎がゴクリと唾を飲み込んだ。
「では、失礼します。また何かありましたら声をかけるなりナースコールをお呼びください」
「はい…」
「あっ、あと1つ」
「っ?!」
再び振り返った日下部は、今度は真面目な笑顔ではなく、とてもとても悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「最後の晩餐だかなんだか知りませんが…あいつに刃物を持たせないで下さい」
「はい?」
「あれ?あいつがメス捌く以外の刃物の扱い、絶望的に下手くそだって知りませんでした?クスクス」
得意げに嫌味ったらしく言った日下部に、川崎がポカンとなった。
「は?」
「では今度こそ。失礼します」
ペコンと頭を下げて出て行った日下部を呆然と見送り、川崎が一気に脱力した。
「なんだあれは…。嫉妬か?牽制か?いや、自慢かよ!俺は知ってるぜ?って?独占欲剥き出しで…子どもかよ…」
ははっと笑ってしまう川崎は、わかっていた。
「日下部か…。悔しいけど、負けだよ。格好いいよ…。あんたほど山岡を愛して、山岡を信じて、山岡を守っていけるやつなんて、他にいないわ…」
スゥッと新たに伝う川崎の涙は、透明でとても綺麗だ。
「死なないか。そうか。おれは死なないのか…」
山岡の腕を真っ直ぐ信じる日下部の言葉は、悔しいけど、川崎の心に沁みていた。
「医者としても、人としても…日下部には敵わね~!悔しいけど、敵わない…」
ポツリと漏らして、川崎は、長年持ち続けてきた想いに、ピリオドを打った。
それは、とても穏やかで幸せな、想いの昇華だった。
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