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第48話

そうして、午後。 予定通り、オペ室に向かった山岡は、手洗いを済ませ、滅菌ガウンを着せられながら、ドクン、ドクンと緊張し始める胸を抑えていた。 「山岡先生。よろしく」 ちょうど隣に立って、ガウンを着るのを介助してもらっている日下部が、ニコリと笑った。 帽子もマスクもしているため、目しか見えないのだが、山岡にはその目が優しく緩んだのが見えた。 「よろしくお願いします…」 「緊張してる?珍しいな」 最近は、互いに執刀の時間が重なるため、あまり同じオペ場にはいないことが多かったが、普段の何割か増しで緊張感がある山岡に、日下部がクスッと笑った。 「大丈夫だよ。俺が保証する」 「はぃ…」 「それに、見てみろ」 「っな…」 クスクス笑う日下部が示した、手術室内。 ゆっくりと入っていった山岡の目に止まったのは、そうそうたる顔触れのメンバーだった。 「ちょ…本当に光村先生が助手とか…」 なんの嫌がらせだ、と思いたくもなる。 どうやらじゃんけんで勝ちとったらしいこの場に、部長の光村とベテランの医師の姿があった。 「まったく、モテるねぇ。天才外科医、山岡泰佳せんせ?」 からかうようにいう日下部に、山岡は微妙に慄いている。 「っ…。でも、オレのオペのほうにこの面子って…」 「あぁ、隣の井上先生の方には研修医と新人だな」 「わ、悪すぎます…」 消化器外科の上から2人、プラス、前立ちにはエース。 なんとまぁどんな大手術だ、と思いたくなるような顔ぶれに、山岡は恐縮しきりだった。 それでも、室内に入り、オペ台の前に立った瞬間、スッと表情が引き締まる。 寝ている川崎の右側に山岡、向かいに日下部、その隣にベテラン医師。部長の光村も当然のように参加している。 麻酔科医もオペ看も配置につているのを見届けて、山岡が静かに一礼した。 「では、始めます。よろしくお願いします。メス…」 山岡に合わせてみんなが頷く程度に礼をした後、すぐにオペが開始された。 シュコー、シュコーと人工呼吸器の音が一定のリズムを刻む。 バイタルを監視しているモニターの音がピコピコ鳴り響き、血液を吸い取る吸引機の音がズズズズと聞こえている。 雑音の多い手術室内でも、山岡の集中は途切れず、手が器用に動き回る。 「ん…モノポーラ…」 「あぁ、飛んでないね。いけそう?」 「はぃ。これなら…」 時折日下部と会話をしながら、手だけは正確に病巣を切り取っていく。 「ほぅ。やっぱり惚れ惚れするな…」 「何言ってるんですか、あ、そこ押さえて」 「ん。…コッヘル」 「こっちペアン…」 テキパキと指示を出し、テキパキとオペを進めていく山岡に、日下部も助手たちも見惚れながらついていく。 「ふぅ。あとは…」 「時間は?」 「4時間21分」 「早いね」 「そうですか?…ん、ここも」 「あ~、オッケ」 佳境を越えた手術室内に、張り詰めていたような緊張感がほぐれていく。 同時に会話も増え、色々な医師の声が入り乱れる。 それでも油断だけはせずに、山岡は手を動かし続ける。 「ん、このままいけますね」 「そうだな。ほんと、すごい」 「あはは」 「でもなんでこれが、包丁持つとアレなんだ?」 「なっ…今そんな話はっ…」 「だって、こんなに見惚れるほど器用なのに…」 わからん、と一体何を思い出したのか、山岡のオペの手先を眺めながら、日下部が首をひねった。 「ちょっ…へ、変なこと言い出さないでください…」 手元が狂う、と目の前の日下部を涙目になって睨む山岡に、日下部はシラッと目を逸らしてどこ吹く風だ。 その山岡が、包丁で何を思い出したのかは、その目を見れば一目瞭然だ。 (本当、苛め甲斐がある…) 「っ…日下部先生っ!」 マスクで口元が見えなくても、ムッと尖った山岡の口がわかった。 「は~い。もう閉じる?」 「っ…」 せめてもの抵抗か、無言でコクンと大きく頷くことで答えた山岡に、日下部は内心で爆笑しながらも、やっぱり手だけは冷静に動かし続ける。 どんだけからかってもぶれない山岡の見事なオペは、5時間弱で終わりを告げた。 「お疲れ様」 「お疲れ様でした」 「いやぁ、いいもの見れたよ」 「そんな…オレも、すごくやりやすかったです」 みんながみんな、何を言うわけでもなく、先を予測し、状況を判断して自ら動いてくれたから、本当にやりやすいオペだった。 「またご一緒したいものだね」 「いえ…次はオレが前立ちしますから…」 もうやめてくれ、と苦笑する山岡は、謙遜ではなく、本気で恐縮しているのがわかる。 「じゃぁ私はここで失礼するよ」 「はぃ、お疲れさまでした、ありがとうございました」 「明日はオフだったね。ゆっくりしておいで」 「はぃ、ありがとうございます」 ガウンを脱いで、術衣だけになった山岡は、すでに前髪がバサリと下りている。 立ち去る光村に頭を下げる山岡の顔にさらに髪が掛かって、隣でその様子を見ていた日下部が苦笑した。 「なぁ、いい加減、切らない?」 「え…?あ、お疲れ様です」 「いや、前髪」 「え…あ、それは…」 「まぁ、無理にとは言わないけどね」 「はぃ…」 他のスタッフがいなくなったところで、ポンッと山岡の頭を撫でるように触った日下部。 山岡が照れて俯いていく。 「それより、明日オフ?」 「あ、はぃ…」 「そうなんだ。珍しいね」 平日に有休をとるなんて滅多にない山岡に首を傾げながらも、日下部はきっと今日の自分へのご褒美でも設定していたかな、と気楽に思っていた。 「はぃ…。あ、それで…今夜は、オレ、病院泊まります…」 「当直…ではないよな。川崎さん?」 「はぃ…。術後…見ていたい、ので…」 駄目ですか?と上目遣いに見てくる山岡に、計算がないと知りながらも、小悪魔め、と思ってしまう日下部。 「それは、医者として?」 少々の駄々は許されるだろうと思って意地悪に聞いた日下部に、山岡はパッと顔を上げた。 「そ、そうです…っ、で、も…」 一瞬持ち上げた顔をグズグズと俯けてしまった山岡に、ふと、山岡が本気で困ってしまったことに日下部は気付いた。 「……ごめん」 「っ?!日下部先生?」 「意地悪したな。友人として側にいたい気持ちも含んでるに決まってるよな。ごめん」 純粋に執刀医として、術後の患者を見たい、という思い。それに加え、その患者が恩人というほどの友人なのだ。 もっと近い存在として側についていたい、と思う気持ちが0なわけがないのだ。 わかっていて、嫉妬から意地悪した日下部は、困り果てた山岡に優しく微笑んだ。 「いいよ、泊まって。ただ、夕食はちゃんと食べろな?それが約束できるなら」 「はぃ…。ありがとうございます。でもあの…面白くなかったらやっぱりオレ…」 山岡は馬鹿でもなければ、人の気持ちを思いやれないわけでもない。 日下部が何であんな質問をしてきたのかわかった山岡が、日下部の気持ちを優先しようと口を開いた。 「ん…。その気持ちだけで十分。ちゃんと見ててやれ」 「あ、はぃ…。では…」 ペコと頭を下げて、足早に病棟へ向かうらしい山岡の後ろ姿を、日下部はのんびり眺めてから、休憩室に向かった。

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