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第50話
その頃、山岡は、電車に揺られながら、背筋にゾクリと寒いものを感じていた。
『っ…風邪かな…』
まずいなぁ、と思いながらも、流れ行く車窓の景色をぼんやりと眺めている。
刻々と移り変わる景色が、かつて数年を過ごした街に近づいていった。
『今年も来ました…。山岡さん…』
電車のアナウンスが、降りる駅の1つ手前の名前を告げる。
乗客が乗り降りして、再び揺れ始める足元。
ゆっくりと瞬きをして、深く息を吸い込んだ山岡は、毎年訪れる見知った駅のホームが次に見えてくるのを、ドアの前に移動しながら、静かに待った。
プシューという独特な音と共に、後ろでドアが閉まる。
ゆっくりと去っていく電車を背に、見知った駅のホームを歩き始めた。
エスカレーターに乗り、上がった場所にある改札を抜け、山岡は1年振りに訪れたその地に足をつけた。
「っ…」
グラリ、と身が傾きそうになる。
今まで生きてきた中で、1番強い憎悪を向けられた場所があるこの地。
今でも鮮明に残る記憶に震えながらも、ふわりと蘇るのは、辛い記憶だけではない。
山岡氏に引き取られ、確かに愛を感じた時間もまた、この地にはあった。
「よし。行こう」
一瞬感じた目眩を振り払い、山岡は駅のロータリーに並ぶタクシーの元へ向かった。
途中、通り道にあるスーパーに寄り、花と酒と線香を買った。
山岡氏が酒を飲んでいる姿を見たことはないが、昔は好きだったと言っていた声は、今でも思い出せる。
病を患ってから飲めなくなった酒も、何十年前かの今日から、もう我慢する必要もなくなったのだ。
カサリと音を立てるスーパーの袋を持って、山岡は待たせていたタクシーに乗り込み、目的地へ向かった。
街の喧騒からも、住宅地からも離れた、静かな場所に、それはあった。
比較的大きな寺の、檀家の墓地だ。
そっと門をくぐり、境内を抜けて墓石が並ぶエリアに向かう。
桶と柄杓が備えられた水場で水を持ち、記憶を辿り、墓石の間を進んだ。
ふと、山岡家の墓石にたどり着く前に、こちらからだけその墓が見える場所で一旦立ち止まる。
『よし、誰もいない…』
確認してから足を再び進める山岡は、万が一、山岡氏の血縁者と鉢合わせることがないようにと思っている。
もしかしたら、山岡氏が財産を残したくないと言って、本当に実現したような血縁者が、命日だからと墓参りには来ないのかもしれないが、もしも会ったらたまらない。
酷く憎まれ、この上ない敵意を持たれている自分が、こんな風に山岡家の墓参りをしているところを見かけたら、きっと神経を逆撫でするだろうに違いないし、あの遺言公開の日に向けられた吐き気がしそうなほどの憎しみと悪意は、今でも息が苦しくなるほど鮮明に記憶に残っている。
未だに血を流す傷に、塩を塗り込まれたらたまらない。
真新しい花に、真新しい酒。それを毎年残している山岡が、墓参りしていることはバレてはいるだろうけれど、直接会わなければ互いに目を背けていられる。
山岡は、自分の他に人の気配のない墓の前に立ち、そっと冷たいその石を見つめた。
「お久しぶりです、山岡さん…」
1年振りか、よく来たな、という、優しい声と温かな笑顔が見える気がした。
「ごめんなさい、山岡さん…」
あなたを救えなくて。あなたの大切にしていたものを全て奪って。
「ありがとうございます」
愛してくれて。オレに、未来を与えてくれて。
毎年同じ言葉。毎年同じ想い。
山岡は静かに手を合わせ、心の中で、もう言葉を返すことのない人に語る。
「昨日…MKのオペをしてきました。オレは医者でいます。今年もまた、1つでも多くの命を、この手に…山岡さんが見つけてくれたオレの手に、掬い上げます」
静かに誓う、毎年の儀式。
山岡氏に与えられたもの、山岡氏から奪ったもの。その両方の恩返しと償いに。
「あなたが見つけてくれたオレの手は、ちゃんとあなたの望みを叶えてますか?オレはちゃんと返せていますか?山岡さんを救えなかった分も、山岡さんがくれたたくさんのものたちの分も、奪ってしまったものの分も…」
イエスもノーも返らない。冷たく静かに佇むだけの石は、何も教えてはくれない。
「オレは、救い続けます。目の前にある命を、1つでも多く…」
ゆっくりと瞬きを1つ。墓石の影で、山岡氏が笑ったような気がした。
『幸せに、なりなさい』
遺言状とは別に、遺された手紙の冒頭。
想いのこもった強い言葉が、また耳に届いた気がした。
「はぃ…」
幸せが何かは未だにわからない。
だけど、ふわりと浮かんだ、日下部の笑顔。
「っ…」
鋭く息を飲んだ瞬間、掻き消えたそれ。
「帰ろう…。山岡さん、また来ます。また来年、この手により多くの命を掬い上げて…」
ふわりと微笑む山岡の前を、サァッと風が通り過ぎていく。
長めの前髪がそれにあおられ、目を瞠るような美貌が露わになる。
「山岡さん…?」
頭を、撫でられたような気がした。
かつて、山岡氏がよくそうしてくれたように。
「えへへ…」
ほんのり笑って、山岡はゆっくりと帰路についた。
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