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第57話

翌日、共に外来担当の山岡と日下部は、朝更衣室でちらりと顔を合わせただけで、すぐにそれぞれの持ち場についてしまった。 今日の外来は、恐ろしいほど混んでいて、山岡はおろか、日下部さえも12時半を回るまで上がれなかった。 お陰で一緒にとる昼食の時間も、まったくゆっくりできずにかきこむように食べ、日下部はオペ前の指導に、原を連れてさっさとどこかへ消えてしまった。 山岡は山岡で、自分の入るオペがあるため、着替えを済ませて手術室に向かっている。 珍しくすれ違いを重ねた2人が、別々のオペに入って数時間。 先に終わったのは、日下部たちの方だった。 「お疲れ様です」 「お疲れ。あと、よろしくね」 片付けのスタッフに軽く声をかけ、日下部はガウンと帽子を脱ぎ、廊下に出た。 「お、お疲れ様でした…」 まだ緊張しているのか、興奮状態が解けないのか、ぎこちなく後をついてきた原が、カチコチの挨拶をしている。 「どうだった?」 ざっくりっと尋ねた日下部に、原は興奮さめやらない様子で、コクコクと何度も頷いた。 「とても手早くて…すごく緊張感があって…おれはオロオロするばかりで…」 「まぁね。初めてなんてそんなものだろ」 「それから、勉強不足も痛感しました」 「へぇ」 グッと拳を握りしめている原に気づいて、日下部はふわりと目を細めた。 「器具の名前1つとっても、わかんないのあって…手が震えて落としたり、数値聞き逃したり…」 「うん」 「すみませんでした」 ペコリと深く腰を折る原に、日下部は好感を持った目を向けた。 「いいことだね」 「え…?」 「俺は、どんなに上手くオペができても、いくら成功を重ねても、驕らないことは大事だと思うんだ」 「はぁ」 「きみは伸びるよ」 ニコリ。本心でそう褒める日下部に、原が嬉しそうにパッと顔を輝かせた。 「たかがアッペ。されどアッペ。うちでは、一番基本のオペだと思ってる」 「はい」 「まぁ、ちょっと場数踏ませたら、原先生にも執刀させるからな」 覚悟しとけよ、と笑う日下部に、原はビクリと緊張しながらも、嬉しそうに頷いた。 「頑張ります!」 「素直でいい子だねぇ。あ、隣まだやってるんだ…」 のんびりと廊下を歩き出しながら、日下部は、扉が閉じてランプがついたままの隣室を通り過ぎた。 その途端、プシュッと音を立てて、手術室から外回りの看護師が飛び出してくる。 「輸血っ、まだ足りないっ」 「ついでに…も!」 「…追加…で…」 慌ただしく医師たちが叫ぶ声が一瞬聞こえた。 すぐにパタンと閉じてしまった扉。 「な、な…」 緊迫した空気を感じたのだろう。ビュンと目の前を走っていった看護師を呆然と見て、原が固まっている。 「ん~?何かあったかな」 隣は山岡が助手に入っているところだな、と思いながら、日下部はゆっくりとその場から遠ざかっていった。 「あっ、待って下さいっ、日下部先生…」 衝撃から立ち直ったらしい原が、慌ててその後を追って、手術室エリアから出て行った。 夕方。 あれから隣は何がどうなったのか。 日下部が、医局のソファの上で、原のレポートをのんびりチェックしていたところに、手術終わりらしい山岡が帰ってきた。 「お疲れ様です。山岡先生…」 ふらりと室内に入って来て、ふわりと微笑んだ山岡から、日下部は全てを察する。 「ここ、空けようか?」 そっとソファから立ち上がった日下部に、山岡はフルフルと首を振った。 「すみません。でも大丈夫です」 「そう…。残念だったね」 「っ…」 わかってる、というように、近づいてきた日下部にポンと肩を叩かれ、山岡はハッと顔を上げた。 「聞いてます?」 「いや。山岡先生の表情と雰囲気から、わかるよ。まぁ、たまたまこっちのオペ終わりに、大変そうなところに遭遇したし」 「そうでしたか…」 ストンと俯いて、小さく息をついた山岡が、ふと、日下部以外の気配を感じてハッと首を上げた。 「あ、原先生もいたんですね。すみません…」 ちょうど机の上に積まれたファイルの向こう側で、俯いて何かを書いていたらしい原。 先輩医師たちの重い空気に、こっそり息をひそめていたのだ。 「いえ…」 「あ、オレちょっと温かいものでも飲んできます」 「ん、いってらっしゃい」 「今日は…」 「来いよ?食欲なくても、食べさせるからな?俺も今日は帰れるし」 ニコリ。半ば強引に言う日下部に、山岡はその気遣いに気づいてふわりと笑った。 「はぃ」 そうしてペコンと頭を下げ、山岡は部屋を出て行く。 パタン、とドアが閉じたところで、何かを書いていた原が、スクッと椅子から立ち上がった。 「日下部先生!」 「なに?」 「おれも行きたいです!」 「は?」 いきなりわけのわからない発言をかました原に、レポートから目を上げて、日下部が首を傾げた。 「今の、夕飯、山岡先生を誘ってたんでしょ?おれも行きたい!」 「あのなぁ…」 勢いをつけて言う原に、日下部は乾いた溜め息をもらしてしまった。 「何が悲しくて、研修医なんぞに俺が夕飯を振舞ってやらなきゃならないんだよ…」 「じゃぁなんで山岡先生はいいんですか!」 ムッと拗ねた子供のように言い出す原に、日下部はわずかに考え、ニコリと笑った。 「ご褒美」 「はい?」 「オペ頑張ったから、ご褒美」 クスッと悪戯っぽく笑う日下部に、原はますます口を尖らせた。 「なんですか、それ。じゃぁおれだって初オペ…助手だけど、頑張りましたよ?それに向こうは…患者さん、亡くなったんでしょう?」 あの様子では、原にもわかった。それをズバッと言った原に、日下部の中にメラッと苛立ちの炎が灯った。 「亡くなったからって、頑張らなかったことになるか?」 ズシン、とわずかに低くなった日下部の声に、原はビクリと肩を竦めた。 自分の発言が今、日下部の琴線に触れたことがわかるくらいには鈍くない。 「っ…すみません」 「わかってるのか?」 「あの…いえ…」 日下部が怒った、ということがわかっただけで、反射的に謝罪をした原は、その意味まではわかっていない。 素直にそれを白状する原に、日下部はふと怒りを和らげて、ストンとソファに腰を下ろした。 「真逆だよ」 「え…?」 「助からなかったからこそ、通常の倍頑張ったと俺は思うね」 「っ…それって…」 「あぁ。手の中からこぼれ落ちていきそうな命を、必死で掬いあげて、必死で繋ぎとめようと頑張ったに決まってる」 「っ、おれ…」 「わかった?けど、多分わかってない」 頭でだけ理解したことを容易く見透かされ、原はギュッと拳を握りしめた。 「経験して欲しくはないと思ってる。けど、きっと避けては通れないとも思ってる。そのとき、本当にわかると思うよ」 こればかりはな、と微笑む日下部から、もう怒りは感じなかった。 「あの規則正しく動いていた波形がフラットになる瞬間…。あの絶望感…。何度居合わせても、絶対に慣れない。掬いあげようとしても掬いあげようとしてもこぼれ落ちていく命を目の当たりにする、その瞬間が、一番辛い」 「っ…」 「だから今日はたっぷり甘やかして慰めてやる予定。だからきみは駄目」 クスッと笑う日下部に、原は食い下がれずに、カシャンと椅子に腰を落とした。 「それで?やけに余裕そうだから、課題増やしてやるな?」 「え?」 「今日のレポートと~、そうだな…これ、俺の診断隠してあるから、きみの見立てで全部診断つけてみせて。ついでに次回のオペはこれ、入ってもらうから予習もね」 「えぇっ?これ全部ですか…?」 「もちろん」 ニコリ。 一瞬でも、このどSの日下部を怒らせた原が悪い。 完全に意地悪モードに入った日下部がニコリと笑って無理難題を吹っ掛けるのを、原は半泣きになりながら受け取るしかなかった。

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