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第58話

翌日からも、山岡と日下部がなかなか会えない時間が続いた。 何かと言っては日下部には原が付きまとっているし、自分の仕事以外にも、原の指導がある日下部は忙しい。 山岡も山岡で、何だかんだと仕事が入り、ゆっくりしている時間がないのだ。 夜も、原に付き合ったり、自分の残業が増えた日下部は帰りが遅くなるため、山岡が1人先に帰ることがほとんどだった。 そんなある日。 「ねぇねぇ、最近、日下部先生の機嫌が酷いことになってない…?」 久々に、こそっと始まったナースステーションでのおしゃべり。 いつもよりずっと低いテンションなのは、山岡と日下部の楽しいネタがないせいか。 「うん。かな~り悪いよね…。あれでしょ、忙しすぎて、山岡をかまえないから」 「ついでに、あの研修医くん、やたらと日下部先生に付きまとってない?」 「あたしも思った!あれってさ、オーベンに懐いてるっていうより…」 「私も感じた…。もっと別の意味があるよね、原先生…」 コソコソ、ヒソヒソ。幸い、オペに入っている山岡は珍しく廊下の影に遭遇していないし、原と検査室に行っている日下部もこの場にはいない。 「生意気ね。ぽっと出が日下部先生を狙おうなんて」 「本当よ。日下部先生には、山岡っていう溺愛している相手がいるんだから」 「でも原先生もちょっといいな~とか思わない?可愛いし」 「はぁ?あんた裏切る気?あんなのただ若いだけでしょうが。まぁ、顔は悪くないけど…」 「これは、山岡危うし、ってこともあるかもよ?」 「いや、ないね。顔も山岡のほうが断然上」 徐々にテンションが上がりだす看護師たちは、ようやく面白いネタを見つけたようで。 「え~?だって私、まだそれ、見たことないもん」 「ふふふ。あのときの衝撃と言ったら」 「でも、日下部先生って、ゲイってわけじゃないんでしょ?」 うーんと真剣に考えている看護師たちは、一体医者たちの何をどうしたいのやら。 「だからって、あんな健気なのに懐かれたら、うっかりコロっといっちゃうこともあるかもよ」 「い~や~!ちょっと、山岡なにやってんのよ。あんなポッと出にもってかれるなんて冗談じゃないんだから」 「っていうか、選ぶのは日下部先生だって。原先生でもいいなら、うちらにもチャンスが…」 もう収拾がつかなくなっている看護師たちの会話を割って、ナースコールが鳴り響いた。 「わ。仕事!」 「おっといけない。点滴交換の時間だ」 ハッと理性を取り戻した看護師たちが、バラバラと仕事に散っていった。 その頃、検査室から病棟に向かって、日下部と原が廊下を並んで歩いていた。 「ねぇ、日下部先生」 「なに?」 「少し休憩しませんかぁ?」 今日は朝からぶっ通しで外来をこなし、昼もそこそこに病棟の急変に居合わせ、午後は検査室と、さすがに音を上げそうなスケジュールだった。 「…まぁ、そうだな。少しだけ休憩していくか」 PHSはきちんとオンラインのため、日下部はふと、病棟から休憩室に行き先を変更した。 「わ~い、日下部先生、話が分かるぅ」 「少し糖分摂取しないと、どうせきみ、集中力持たないでしょ」 外科医としてはあるまじきだけどな、と笑う日下部に続いて、原は嬉しそうに休憩室に足を向けた。 「日下部先生、何飲みます?」 休憩室に入り、さっそく奥の自販機に向かおうとした原に、尻ポケットから小銭入れを出した日下部が、何気なく何枚かの硬貨を握らせる。 「俺はコーヒー。ブラックな」 「はいっ」 不意に握られて離された手の中を見下ろした原は、ちょうど2人分の金額の硬貨があるのを見て、チラリと日下部を見る。 「うぁ。ごちそうさまです」 シラッとすでに適当な席に向かっている日下部の背中に、ペコンと頭を下げる。 『モテるわけだよな…』 サラッとこういうことができてしまう日下部だから、男としては全然敵わないと思う。 もちろん、医者としては比べるまでもないが、だからこそ、惚れる、と思っている。 「どーぞ、ホットですよね?」 「当たり前。どうも」 ホカホカと湯気がたつカップを日下部のもとまで運んだ原は、自分はシュワシュワと音を立てる炭酸飲料のカップを手にして、日下部が座っている目の前の椅子に腰を下ろした。 「炭酸て…若いねぇ、本当に」 この疲れているときにそんな癒されなさそうなものを飲める気が知れない。 「年の問題ですか?おれ、このシュワシュワ感が好きなんですよ。さっぱりして」 「まぁ、糖分摂取には問題ない」 むしろ取り過ぎなくらい、と笑う日下部は、優雅にコーヒーを傾けている。 「格好いいですよね、日下部先生」 「は?」 ぽつり、と突然呟いた原に、日下部がぎゅっと眉を寄せた。 「いやぁ、看護師さんたち、みんな騒いでるでしょ?」 「そう?」 すでにシラッととぼける日下部は、本心を隠すことに長けている大人だ。 原は、こっそりそんな日下部の様子を窺いながら、そろり、そろりと踏み込むタイミングを図っている。 「知りません?消化器外科だけじゃなくて、他でも日下部先生の名前は超有名です」 「へぇ」 「ルックス良し、性格良し、消化器外科医でエース。文句なしの極上男」 クスクス笑いながら、原は噂とやらの言葉をそのままなぞっているようだ。 日下部は、ゆったりとコーヒーを飲みながら、そんな原をチラリと流し見る。 「きみは?」 「え…?」 「きみの評価もそれと同じ?」 クスッと笑った日下部が、思いもよらぬ反撃に出た。 流れを掴んでいたと思った原が、一瞬ウッと言葉に詰まる。 けれどもそこは原も意地。う~んと考える素振りをしながら、体勢を立て直す。 「そうですねぇ…ほぼ。でも、性格の部分は…ちょっと」 「へぇ?どんな?」 「怒らないでくださいね?日下部先生は、Sですよね?苛めっ子」 どうです?と窺う原に、日下部はくっくと笑い声を上げた。 「それを堂々と言うきみは、度胸があるのか、実はどMか」 「え~」 「まぁ、その度胸の良さには敬意を表するけど。無謀だね」 「っ…」 ニコリ。壮絶な笑みを放つ日下部に、原は一瞬呑まれ、息を止めた。 「クスクス。Sと分かっててちょっかいかけてくるんだから、苛めていいってことなんだろう?」 笑いながら言う日下部に、半分冗談か、とホッとした原は、それでも今度は油断なく日下部を窺った。 「おれはMのつもりはないですけど…」 「ふぅん」 まぁどっちでもいいけど、と興味なさそうにする日下部に、原のどこかがカチンと音を立てた。 「でもっ…その性格じゃぁ、恋人さん、大変ですよね、きっと」 「そう?」 「だって日下部先生と付き合えるって、それこそどMじゃ…」 「ふふ。まぁ、どちらかと言えばMだよね」 クスクスと、完全に誰かを思い浮かべて笑っている日下部に、原はカッと熱くなる腹の底を感じた。 「いるんですか?恋人…」 「噂、知ってるんでしょ」 先ほどの日下部の噂にやけに詳しかった原だ。日下部が一番積極的に流した噂を知らないわけがない。 その上、彼女、と聞かずに、恋人、と聞く辺りも、絶対にわかっているだろう。 日下部は、そんな駆け引きなどお手の物なのだ。やり手な日下部に、原が敵うわけがない。 「っ…噂は、しょせん噂ですもん…」 ムッと口を尖らせる原に、日下部は、まぁなかなか骨があるか、と笑ってしまう。 「ま、プライバシーを答える気はないけど。ご想像に任せるよ」 日下部の常套句。わざわざ下世話な他人の好奇心を、進んで満たしてやる趣味はない。 シラッとコーヒーを飲みほして笑っている日下部に、原はジリジリと焦れ始めた。 「山岡先生」 「うん?」 「山岡先生って、暗いですよね」 「そうかな。まぁ、髪が長くて表情見えにくいから、そう見えるよね」 クスッと笑う日下部は、原のかまなどお見通し。 一切の動揺を見せず、シラッと答える日下部を崩すのは、きっと原にはできないだろう。 それでも食い下がる原は、若さゆえに恐れ知らずだ。 「日下部先生とは、仲良さそうですよね」 「まぁ、それなりに」 「あの人…オペとか上手いんですか?医者として…」 原の微かな苛立ちを感じた日下部は、不意にスッと椅子から立ち上がり、空になったコップをゴミ箱に捨てようと歩き出した。 「日下部先生?」 「百聞は一見にしかず。今度山岡先生のオペの助手、組んであげるよ。それから、見てからものを言え。これ鉄則」 「っ…日下部先生…」 「クスクス。どうせ俺が今ここで、山岡先生はすごい先生だよ、って口で言ったって、どうせ信じないでしょうが」 フッと笑って、ポイッとコップを捨てた日下部が、今度はスタスタとドアの方に歩いて行った。 「休憩終わり。ナースステーションに戻って、回診の準備しておけよ」 プラッと背を向けたまま手を振って、日下部は休憩室を出て行ってしまった。 「っ!くそっ…。なんで山岡なんだよっ。あんなに出来る男の側を、地味で暗いやつがウロウロしてんなよ!」 ガンッとテーブルを蹴って立ち上がる原は、先ほどまでの無邪気で人好きがしそうな爽やかな笑みがなりをひそめている。 「日下部先生も、日下部先生だっ。あんなののどこが…。噂なんて信じないからなっ、おれ。山岡なんかより、絶対おれのほうが日下部先生と釣り合ってる!」 イライラと吐き捨てながら、飲みほしたカップをドカンとゴミ箱に捨てる原。 その目にメラメラと燃えているのは、山岡への敵意、日下部への恋情。 1人喚きながら、原はどうやって日下部を落とそうかと、必死で計算を働かせていた。

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