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第60話

そんな日々が続いたある日。 「ねぇ山岡…。最近ヤバくない?」 またも、ナースステーションでは、看護師たちの噂話が飛び交っていた。 けれどもいつもと違う、『ヤバイ』の意味。 「本当。何か、ダメ岡に戻ってるよね」 「あ~、あたしもそれ!この間、点滴オーダー票なくされた」 「あんたも?私も。カルテどこかに置き忘れたみたいで消えてて。たまたま給湯室で原先生が見つけてくれたみたいだけどさ~」 「マジか。って、何で給湯室に持ってくんだよ。ダメ岡~、しっかりしろよ~」 ブチブチと文句を垂れる看護師たちは、何やら山岡に苛立っている様子。 せっかく昇格したはずの呼び名も、元に戻ってしまっている。 「ったく、日下部先生に甘やかされ過ぎなんじゃないの」 「ね~。プライベートばっかり充実させてないで、仕事もしっかりやってくれって感じ」 「あ~っ、またダメ岡の担当のカルテが1つないよ!どこ!」 ぎゃぁ、と騒ぐ看護師たちの様子を、こっそりと廊下の陰から、原が盗み見て笑っていた。 「山岡先生、お昼行こう?」 ニコリと笑って、外来に迎えに来たのは、病棟業務を終えた日下部だ。 12時半前だから、今日は少しだけゆっくりできそうだ。 「あ、はぃ。…あれ?原先生は?」 このところ、何かと言っては日下部にくっついている原の姿が今日は見えない。 不思議に思って首を傾げた山岡に、日下部が悪戯っぽくニコリと笑った。 「大量に仕事押し付けて撒いてきた」 「撒いてって…」 あはは、と笑ってしまう山岡の顔は、日下部の本気の目を見て引きつっている。 「だって俺は山岡と2人で食べたいのにさ~。毎日毎日邪魔されて…」 「邪魔って…」 「夜も一緒にできないこと多いし、それに…」 意味深にそこで言葉を切った日下部が、スッと山岡に近づき、その耳元に唇を寄せた。 『泰佳を全然抱けてない。それどころか触れることも…』 「っ!ちょっ…」 フッと色気のある声で囁かれ、山岡がバッと耳を押さえて日下部から飛び退った。 ここ診察室!と慌ててキョロキョロしている山岡に日下部は平然と微笑む。 「大丈夫。看護師さんたち、もうとっくにお昼に行ったから」 ちゃんと確認済みでこういうことをしかけてくる日下部に、翻弄される山岡はたまったものではない。 潤んでしまった瞳をキッと日下部に向けて、恨めしそうに唇を震わせている。 「そんな目で睨まれたら、誘われているのかと思うんだけど。処置室行く?ベッドあるよ?」 ふふ、と笑う日下部に、山岡がクシャリと顔を歪めて、ブンブン首を振った。 「ふ、ふざけないでくださいっ…」 「え~?半分本気なんだけど」 クスッ。意地悪に笑う日下部から、山岡はパッと目を逸らしてしまい、慌ててバックヤードのほうに足を向けた。 「お、お昼!行くんでしょうっ?時間、なくなりますよ!」 カァッと赤くなった顔を隠しているのはお見通し。 まったくもって可愛いとしか思えない反応を示す山岡にニヤニヤと笑って、日下部はゆっくりとその後を追いかけた。 そうして山岡をからかいつつ、とっても楽しく2人きりの昼食を楽しんでいた日下部の元に、全力で仕事を片付けたらしい原がやって来た。 「はぁっ、やっと終わりましたっ!おれもご飯~」 「で、なんで俺らのところに来るんだよ…。勝手に1人で食べろよ。俺たち、もう終わるから」 言葉の通り、もう1時を回る時間に、山岡のトレイの上も、日下部のトレイの上も空だ。 「えぇっ。もう少しくらい付き合ってくれても…」 ムーッと唇を尖らせる原に、日下部はげっそりと溜め息をつく。 「俺も山岡先生も、そう暇じゃない」 「でもまだ1時まで5分あります!」 相手にしていられないときっぱり言う日下部にも、原は往生際悪く食い下がる。 はぁっと大きな溜め息をついた日下部に、それを見ながら苦笑している山岡。 「ったく…。はぁっ、ごめん山岡先生。俺少しだけ付き合っていくから、先に仕事戻ってて」 お手上げ、と敗北宣言している日下部に、山岡は苦笑したまま頷いている。 「はぃ」 「原先生。5分だからな。5分経ったら俺も行くからな」 「え~?わかりました!5分あれば食べられます!」 よっしゃ~!とガッツポーズしている原が、わざわざ日下部の隣に座る。 テーブルに置いたトレーの前で手を合わせて、さっそく昼食をかきこみはじめる。 「ではお先に」 ペコンと頭を下げて、空のトレイを持って立ちあがった山岡に、日下部はプラリと手を振った。 (このクソガキ。いつまでも思い通りになると思うなよ…?) 呑気な振りをして食事をとっている原に、日下部は冷ややかな目を向ける。 これが表面通りの無邪気なたまじゃないことは、もうお見通しだ。 原のどす黒い内心などとっくに察していて、忌々しそうに考える日下部。 (ふふん。やっぱり日下部先生は、おれの方選んでくれるじゃないか。ざまぁみろ、山岡。この勢いで、必ずおまえから日下部先生をとってやるからな) ガツガツと食事を口に運びながら、原は原で、剣呑な考えを心に宿していた。

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