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第61話
そうして、翌日。
ナースステーション内に、新たなざわめきが広がっていた。
「どうしたの?」
「あっ、日下部先生…」
ざわざわと、1枚のオーダー票を囲んでいた看護師たちの間に、ひょっこりと日下部が顔を見せた。
「ん?点滴オーダー?それがどう…」
チラリと看護師たちの中心にあったオーダー票を覗き込んだ日下部の目が、不審そうにひそめられた。
「何そのめちゃくちゃなオーダー…」
はぁ?と首を傾げている日下部が、パッと看護師の手からオーダー票をひったくるようにして奪った。
「誰が…」
指示者の名前を見た日下部の手が、ピクリと震えた。
「山岡先生…?」
まさか、と思った日下部が、2度も3度も見下ろしてしまう。
けれどもそこには確かに、山岡の直筆のサインがされている。
「なんでこんな…」
ミスというレベルを越えた、冗談でも笑えない数値。
まさか山岡がやらかすはずがないと思う日下部は、瞬時に頭を働かせた。
「ねぇ、これ、直接山岡先生から受け取った?」
輪の中にいた看護師に尋ねた日下部に、それを受け取ったらしい看護師が、フルフルと首を振った。
「いえ…。たまたま廊下で会って渡されたとかで…原先生が運んできましたけど…」
記憶をたどるように目を彷徨わせて言った看護師に、日下部は大体のところを察した。
「わかった。…これはこっちにして。山岡先生には俺から言っておく」
ササッとオーダー票を訂正して、看護師に戻した日下部。
ニコリと笑った日下部の笑顔に、キャァッと黄色い悲鳴が上がる。
「じゃぁよろしくね」
クスッと笑ってナースステーションを出て行く日下部の後ろで、さっそくワイワイと噂話が始まっていた。
「お仕置きよ、あれは絶対お仕置きよ~。ダメ岡、物を失くした次はオーダーミス!これは日下部先生も厳しくいっちゃうんじゃないの~?」
「キャァッ。何しちゃうのよ、日下部先生~。あたしもされたい~」
「このMっ子が。でもダメ岡、ただじゃ済まないよね」
キャッキャとはしゃぐ看護師たちは、相変わらずすっ飛んだ妄想に花を咲かせていた。
そうして、ナースステーションを後にしてきた日下部は、看護師たちの予想とは裏腹に、詰め所内にいるはずの、原の元に向かっていた。
果たして室内には、原が1人、日下部が与えた手術の予習のための本を唸りながら読んでいた。
「どう?進んだ?」
のんびりとした態度で室内に入って来た日下部に、デスクの上の本から顔を上げた原が、パッと顔を輝かせた。
「日下部先生!しっかり読んでます!…けど、わからないところがあって…」
へらっと媚びた笑みを浮かべて本を持って立ちあがろうとする原を、日下部は目で制して、自分が原の側に近づいて行った。
「ん~?どこ?」
ニコリ、と穏やかな笑みを浮かべて、わざと身体が触れるように、原の後ろから本を覗き込む。
後頭部に触れた日下部の体に、原がピクンと反応を示した。
「あ、あのっ…こ、この部分なんですけど…」
本を指差す原の手が、緊張に震えているのが見える。
一体何の期待をしているやら、薄っすらと染まった原の頬に気づき、日下部はスゥッと冷めていく心を感じていた。
「ふぅん。一番重要なところだね」
あえてそこを質問場所に選んだのは、すでにこの手術についてしっかりと理解している証だろう。
その上で、質問などとかこつけて、自分の能力を誇示するつもりでもいたか。
(ふん、くだらない。俺がそんなものに騙されるわけがない)
パサリと落ちてしまう、前を止めていない日下部の白衣に包まれるような形になった原が、ますます顔を赤らめているのが馬鹿馬鹿しい。
日下部は、冷めた目でそんな原を見下ろし、わざとらしくスッと原の耳元に顔を近づけた。
「俺は、くだらない私怨で、人を陥れようとするような汚いやつは嫌いなんだ」
コソッと原の耳に、吐息とともに囁いた日下部。
ビクンッと跳ねた原の肩は、感じたからなのか、言われた言葉に対する驚きか。
「な、なんですか?日下部先生。突然何を言っているのか…」
ゆっくりと日下部を振り向き見上げて来ながら、原がヘラリと笑みを浮かべた。
「ふぅん。わからない?」
「わかりませんよ。なんなんですか?おれにはさっぱり。それよりおれはこの本のこの部分が…」
サッと日下部から視線を逸らしてしまいながら、原がまたもデスクの上の本を示して言い募った。
けれども仕掛けたからには、ここで引く日下部ではない。
「点滴オーダー」
「っ…」
ボソッと囁いた日下部に、原の体がビクンッと目に見えて跳ね上がった。
「もっというなら、カルテ紛失とか?オーダー票も無くなったみたい。捨てちゃったのかなぁ」
「っ…」
全て知っている、と言わんばかりの日下部の言葉に、原がギュッと唇を噛み締めた。
「お、おれがやったっていう証拠はないはずです…」
グッと腹に力を入れながら、ボソリと呟いた原に、その言葉こそが証拠だろ、と日下部は笑ってしまう。
「うん。俺も、きみがやったとは言ってない」
クスッと笑う日下部に、原がグシャリと顔を歪めた。
「誰もきみの話をしているなんて、一言も言ってないんだけど」
クスクスと、勝ち誇ったように笑っている日下部に、原はギリギリと奥歯を軋ませた。
「本当にどSですよねっ。そうやって人を追い詰めて、追い詰められた人間が悪あがきするのが楽しいんですか!」
「おおいにね」
悪びれなくフッと笑う日下部に、原ごときが敵うわけがないのだ。
グッと言葉を詰まらせた原に、日下部がさも楽しそうに、ニコリと微笑んだ。
「こどもの悪戯で済んでいるうちは無視してようと思っていたよ?けれど、今日のはいただけない」
「っ…」
「看護師たちが気付かずに、あのまま滴下されてたらどうなったと思う?」
「そんなのっ…気付かないわけが…」
敢えて気付かれるように、めちゃくちゃな数値を書き込んだのだ。
言い訳がましく言う原に、笑顔だった日下部の表情が、一瞬にして真剣になった。
「死ぬんだよ」
「っ…」
「きみがしたことは、そういうことだ」
「っ、おれは別に…」
「山岡への嫌がらせ?ふざけるな。それで人1人の命、弄んでんなよ?」
ズシン、とそれ自体が重力を持ったかのような、重い日下部の声だった。
「だっておれはっ…日下部先生のことが好…」
ガタタンッ。
不意に、原が叫ぼうとした瞬間、入り口の方で、不審な物音が響いた。
同時にパッと振り返った日下部と原。
そこには、入り口のドアにもたれるようにして背中をぶつけた山岡の姿があった。
「っ!山岡先生っ」
「あ、えっと、オレ…すみません、失礼しますっ…」
マズイ、と焦りを浮かべた日下部の呼び声に、ハッとなった山岡が、ガバッと頭を下げて慌てて部屋を飛び出して行った。
いつ入って来たのか、どこから聞いていたのか。
原を追い詰めることにかまけていた日下部は、ただでさえ気配を消して生活しているような山岡に、まったく気付かなかった。
それは原も同様で、ポカンと呆けた顔をしている。
「くそっ…」
最後の原の言葉と、その前の日下部の言葉が聞かれたのは確実だろう。
下手をすると日下部が原の顔に顔を近づけていたのも、そこまでの言葉たちも目と耳にしている可能性があった。
「原、後で覚えとけよ…」
ギリッと歯を軋ませた日下部が、ヒラリと白衣を翻す。
山岡を追ってしまう、と咄嗟に思った原は、パッと椅子から立ち上がって、踵を返した日下部の背中に飛びついた。
「嫌ですっ、行かないでくださいっ…」
ギュッと後ろから日下部に抱きついた原が、身を切るような思いで叫んだ。
その腕の力に捕らわれた日下部の体が、ガクンと一瞬止まってしまう。
「離せ原っ…」
「嫌ですっ。行かないでください。山岡なんかを追わないでくださいっ…」
震える原の手が、さらに力を込めて、ギュッと日下部を後ろから抱き締めた。
「ぐっ…苦しっ…」
締め上げる勢いで抱きつかれ、日下部がくぐもった呻きを漏らした。
それでも原の腕は緩まない。
「離したら消えてしまうでしょう?おれを置いて、山岡の元へ行ってしまうでしょう?」
「離せ…っ」
「嫌ですっ。何でですかっ!何で山岡なんですかっ…。おれも…おれだって、日下部先生が好きだっ!山岡より、絶対に好きだっ」
泣きそうに揺れた、原の叫びだった。
その腕から逃れようともがいていた日下部が、フッと身体から力を抜いた。
「逃げないから、離せ…」
フゥッと息を吐いた日下部に、原はピクンと肩を揺らしながら、恐る恐るその腕の力を緩めた。
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