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第62話
「……」
緩んだ原の腕の中から、スルリと抜け出した日下部が、深いため息をつきながら原を振り返った。
真っ直ぐに見つめてくる日下部の目から、原がフラリと目を逸らす。
それはまるで、日下部の口が、次に何を言い出すのかに怯えているようで。
思わずハッと笑ってしまいながら、日下部は俯く原のつむじをジーッと見つめた。
「若いな…」
「っ?!」
ポツリ、と呟いた日下部の言葉に、原がガバッと顔を上げた。
その目が期待と不安にゆらゆらと揺れている。
「若いよ。そんなにど直球を投げて来られてもな…」
クスッと笑いながら、日下部は原の目を真っ直ぐに見た。
「俺は、答えられない」
真摯な、日下部の声だった。
原も、それが真剣な言葉だと、頭では理解する。
けれど、振られる予感に、心が拒否をした。
「嫌だっ。嫌だ、嫌だ、聞きたくないっ!」
途端にギュッと両耳を両手で塞いで首を振る原に、日下部は大きく深呼吸した。
そうして、駄々っ子のようにイヤイヤしている原の手を、ギュッと両手で掴んで下ろさせた。
「俺は、山岡が好きだ」
「っ…い、や…」
「山岡だけが大切だ」
「聞きたく…ない…っ」
「山岡しか欲しくない。だから、きみの想いに、俺は答えられない。ごめんな」
ブランと落ちた原の手を離して、日下部はハッキリと口にした。
原の目から、ポロリと涙が一筋落ちる。
「何でですか…?」
「ん?」
「どうして、山岡なんですか…。あんなに、暗そうで、見た目も変わってて、医者としてもどうかと思うようなあの人の、どこがいいんですか」
「どこがってなぁ…」
「絶対、おれのほうがっ…。見た目だってっ、医者としてだってこれからだしっ…日下部先生への想いなら負けないのにっ…」
ポロポロと泣きながら叫ぶ原に、日下部はふわりと笑った。
それはとてもとても綺麗な笑みで。
「惚れたんだ」
「…え?」
「俺は、命を…。目の前にある命を何より大切に想う山岡だから、惹かれた。たかが嫉妬で、命より自分の悪知恵を優先させるやつになんか、何があっても惚れない」
「っ…」
「医者としての腕も、クスッ。あいつの容姿、ちゃんと見たことないだろ。ものすごい美人だぞ」
「う、そだ…」
「嘘じゃない。俺は、山岡の医者としての腕にも、綺麗な容姿にも、その真っ直ぐな心根にも、すべて。その全てに惚れた。全てが愛おしいと思う」
「っ…そんな…っ」
「諦めろ。きみじゃ山岡に、何1つ敵わない」
ゾクリとするような壮絶な笑みを、日下部は原に向けた。
その目に映るのは、深い拒絶と、そして揺るぎない自信。
「く、さかべ…せ、んせ…」
「お前がこの先、もしも山岡を傷つけるようなことがあったら、俺はお前を許さない」
「っ…」
「俺の一番大切なものに手出しするつもりなら、それなりの覚悟を決めてかかって来い」
「っ、く…」
「そのときは、俺は全力できみを潰す」
ニコリ。それは笑顔なんだけれども、壮絶に恐ろしい、絶対的強者の笑み。
原ごときでは、いや誰であろうとも、決して太刀打ちできないとわかる、圧倒的力を持った笑顔だった。
「そんなにいいんですか…」
「うん」
「そんなにすごいんですか…」
「うん。今度オペ入れてやる」
「おれは、諦めなくちゃならないんですか…」
うぇぇぇっと泣き声を漏らしながら、グズグズとその場に座り込んで行ってしまった原の頭を、日下部は目を細めて見下ろした。
「想い続けても、俺の気持ちが変わることはない。俺は一生、山岡を愛していく」
どこまでも真っ直ぐで、揺らがない日下部の声だった。
床に座り込んだ原が、うわーんと声を上げて泣きじゃくる。
その頭を、日下部がお愛想程度にポンポンと撫でた。
「ごめんな。でも、想ってくれてありがとう」
クスッと笑った日下部の言葉に、原はますます激しく泣き出した。
「うぇっ、えぐっ…いや、いやです…、いや…」
「……」
「だけどっ、叶わないのもっ、わかる…ふぇぇぇっ…」
「ん…」
自分が、日下部を想う気持ちが、山岡のそれに敵わないんじゃない。敵わないのは、日下部の想いだ。
原が日下部を想う気持ちは、日下部が山岡を想う気持ちの足元にも及んでいない。
それを、あまりにはっきり教えられて、原は泣きながら、失恋の痛みを受け止めた。
「明日までは…泣きます。泣いて泣いて、忘れてやります」
「そう」
「そして次は絶対にっ、日下部先生なんかより、もっとずっと素敵な人を見つけてみせますっ」
泣きながら、キッと顔を上げて日下部を睨む原に、日下部はこいつもそれなりにいい男なんだけどな、と決して本人には言ってやらない感想を浮かべる。
「クスクス。それは楽しみにしているよ。ところで」
「なんですか…?」
「あまり泣きすぎて、明日のオペ、目が腫れて前が見えないとか言い出さないでな?」
「っ~!」
「あと、散々山岡に嫌がらせしてくれた分と、今日の点滴オーダーの書き換え、許さないから」
ニコリ。綺麗なんだけど、どこまでもサディスティックな色気をまとった日下部の笑みに、原の体がギクリと強張る。
「たぁ~っぷりお仕置きしてあげるから、覚悟してな?」
「っ…」
「まずはこの症例報告書、隅から隅まで読んで。同じようにこの症例でレポートを書くこと」
「っ、はい…」
「こっちは明後日のカンファ資料。全部まとめておいてね」
「え…」
「それから来週のオペの予習は、これ」
ドサッと分厚い本を持ち出してきた日下部に、原の顔がどんどんと青褪めて行く。
「わからないところはこっちの本かパソコンででも調べて。それでもわからなかったら付箋入れておくこと。もちろん、明後日までにね」
鬼っ!という言葉が喉まで出かかった。
けれども明日と言わなかったところは、少し仏心があったのか。
「あぁ。俺明日、午前中は外来の代診に入る羽目になるだろうし。午後はオペだろ?残業なんてごめんだから、明後日見てやるな」
はい、完全に日下部自身の都合。しかもその午前中の代診予定というのは…。
(むこうも明日足腰立たなくするってこと…?)
やっぱり自分の指導医はどSだった、と今さら再確認しても後の祭り。
「だからって…この量はないですっ…」
「山岡に…ひいては俺に喧嘩を売ったきみが悪い」
クスッ。まさか、気付かれていなかったと思っていた散々の地味な嫌がらせが知られていたとは。
ついでに、そんな実害など大してない可愛い嫉妬に、こうも本気の仕返しがくるとは。
「誰が思うんですか、こんなの…」
「一番怒ってるのは、今日の書き換えだからね。とことん懲りてもらわないと」
医療事故を起こしてからじゃ遅いんだよ、と少しだけ本気を滲ませた日下部にギクリと身を強張らせながら、原はノロノロと床から立ちあがった。
「すみませんでした」
ペコン。腰を90度に折るほど頭を下げた原に、日下部が満足そうに目を細めて笑った。
「きみの素直なところは買ってるよ。素直すぎて真っ直ぐ突っ走るところがなければ、長所だよね」
褒めているんだか、貶しているんだか。
本当にどうしたところで一筋縄ではいかない指導医様に、原の脱力した泣き笑いが、カラカラと室内の空気を揺らしていた。
「さぁてと。俺はもう行くな。きっと今頃傷ついて泣いてる」
「え…?山岡先生が…?」
「やっと先生って呼んだ。…クスッ、当たり前だろ?」
「……」
「言っただろう?あいつは、誰よりも一番真剣に、命と向き合ってるやつなんだ。そして、どMでね。さっきのやり取り聞いて、今頃絶対自分を責めまくってるだろうよ。オレなんかが、オレのせいで、ってな」
「……」
「見つけて捕まえて慰めて、そしてたっぷり躾直してあげないと」
クスッ。やけに楽しそうな日下部だけれど、言葉と態度ほど、その目に余裕は残っていなかった。
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