63 / 426
第63話
「はぁっ。どこ行ったかな~…」
原をこっ酷く振り、ついでに思いっきりいびって発散してきた日下部は、きっと勝手に落ち込みまくっているだろう山岡を探して、ナースステーションのほうに足を向けていた。
山岡が詰め所を飛び出してしまってから、少し時間が経ってしまっている。
影も気配も見えない山岡に、日下部はたまたま通りかかった看護師を捕まえた。
「ねぇ、山岡先生見なかった?」
「え?山岡先生ですか?さぁ?」
「そう。ありがとう。う~ん、参ったな…」
目撃証言を取れずに、日下部は行く方向を思案する。
この広い病院内、やみくもに探したところでたどり着けないだろう。
とりあえず足を向けたナースステーションに、数人の看護師がいるのが見えて、ひとまず聞き込みに入ることに決めた。
「ねぇ、山岡先生見なかった?」
またも同じ台詞を繰り返した日下部。
中にいた看護師たちが目を見合わせてから、首を傾げた。
「見かけてませんけど…」
「病棟にはいないと思います」
「お探しなら、PHS呼んだらどうです?」
手っ取り早いでしょ?と提案する看護師に、日下部は軽く首を振った。
「見てなきゃいいんだ、別に。ありがとう」
それは、小さな意地だった。
きっと、看護師が言ったように、PHSを鳴らせば、山岡のことだ。どれほど私情に流れていても、瞬時に応じてくるに決まっている。
けれど日下部は、きっと再び暗い昏い穴に落っこちかけているだろう山岡を、自分の方からきちんと探し出してあげたかった。
そうして一応、当直室と空き病室を覗いたけれど、そのどちらにも山岡の姿はなかった。
あとは…と考えて向かってみた山岡お気に入りの中庭隅。そこにもやっぱり山岡はいなかった。
他に、病院内でひとけにつかず、1人になれるところは…と考えながら、日下部は候補をいくつか浮かべる。
(トイレにこもってるんじゃないだろうな…。診察室も今は無人だろうけど…)
だがどれもしっくり来なくて、どうしようかと建物内に足を向けた日下部は、不意に閃いた。
「非常階段か」
確信的に思い、向かった非常階段。
消化器外科病棟のある6階から出て、下に向かいかけた日下部は、5階と6階の間の踊り場に、チラリと白衣の裾が見えているのを見つけた。
(隠れているつもりかね)
5階の階段入り口からも、6階のドアからも死角にはなっている。
けれども、直に踊り場のコンクリートに座り込んでいるらしいそこから、はみ出している白衣の裾に、思わず笑ってしまう。
日下部は、声と気配を押し殺し、そっと階段を下りた。
「見ぃつけた」
山岡のいる段まで下りた日下部は、ヒョコッと山岡の目の前に顔を突き出し、ニコリと笑った。
「っ…」
山岡は、途端にビクリと身体を竦ませ、慌ててワタワタと立ち上がろうとする。
「山岡」
「っ…。オレに、構わないでください…」
逃げ損ねた山岡は、ギュッと自分で自分を抱き締めるように腕を回して、抱えた膝の間に頭を埋めた。
「放っておいてください」
ギュゥッと縮こまる山岡を見下ろし、日下部が小さく息をついた。
「やだ」
「っ…」
「やだよ。放っとかない」
言いながら、日下部はそっと山岡の頭に向かって手を伸ばした。
「っ!」
その気配を感じたか、山岡が膝を抱えていた手をパッと持ち上げ、パシッと日下部の手を振り払った。
さすがにそんな拒絶を予想していなかった日下部は、はたかれてピリッと痛んだ自分の手をジッと見つめた。
「オレに触らないでください…」
「山岡…」
「オレは疫病神だから…」
ギュゥッとまた小さく縮こまって、山岡はフルフルと首を振った。
せっかく、かなり心を開いていたのに。また元に戻っている山岡に、日下部は苦笑しつつ、それならそれで何度だって教えてやる、と山岡に向けて微笑んだ。
「山岡は疫病神なんかじゃない」
「……それは嘘です」
真摯な日下部の声に返ったのは、頑なな、わずかも耳を貸す気のない山岡の声だった。
「嘘じゃない。山岡は…」
「嘘です。オレは疫病神だ。周りのみんなを不幸にする、醜い存在なんです」
ギューッと頭を限界まで膝の間に押し付け、山岡が絞り出すような声で言った。
(思い切り後ろ向きやがって…。しかも、深いな…)
まるで初めの頃に戻ってしまったみたいだ。自分を貶め、深い闇の中に身を沈めて息を殺して生きる山岡に。
日下部は、どうしてやろうかと思案して、一瞬無言になった。
その隙を、山岡がスルリと奪った。
「覚えています…昔も、同じことがありました…。オレに敵意がある人たちが…オレを陥れようと、嫌がらせを…」
「山岡…?」
「カルテが消えたり、オーダーが変わってたりなんて日常茶飯事で…」
「っ…」
「オレのせいです。オレが悪い」
「それは違う」
「違いませんよ。オレが日下部先生に近づいたから。オレなんかが日下部先生の側にいるから…。原先生は、オレに…」
ギュゥッと両手に力を込めて、山岡が震える声で言った。
「オレのせいで…守らなくちゃいけない命が脅かされる…」
「違う、山岡」
「違わないっ!オレに向かう敵意が、関係のない人の命を危険に晒しているんです!オレが目立ったせいでっ…こんな醜いオレなんかがエースの側をウロついたからっ」
身体を抱いていた手で今度は頭を抱え、山岡が唸るように叫んだ。
「だから山岡は山岡なんかじゃないって何度言えば…」
過去の記憶に引き摺られ、過去に戻ってしまったような山岡に、日下部はどうしたものかと考えた。
「俺は山岡を…」
「本当は日下部先生も、オレなんかといるより、原先生の方がいいでしょう?…原先生、日下部先生のこと、好きみたいですし」
ははっと笑って言った山岡に、それまで余裕を持っていた日下部の中で、何かがプチンとキレた。
「もういっぺん言ってみろ」
「っ…?」
「本気で言ってるのか」
頭を抱えていた山岡の手をベリッと剥がし、頭の横の壁に左右に開いて押さえつけた日下部が、山岡の顔をギリッと睨みつけた。
「っ…」
真っ正面から睨まれ、山岡は目を逸らして伏せてしまう。
日下部は両手を押さえた、その手首を、跡がつきそうなほど強く握った。
「痛っ…」
ズキリと走る痛みに、顔を歪めた山岡。日下部はそんなことには構わずに、山岡をギリギリと睨みつける。
その目には、真剣な怒りが宿っていた。
「山岡」
「っ…は、なして、くださ…」
「山岡、俺の目を見ろ」
ジッと山岡の顔を見つめて言う日下部に、山岡はフルフルと小さく首を振った。
「山岡!」
ビシッと鋭い日下部の声に、山岡がビクッと飛び上がった。
「ふぅ…。山岡」
完全に怯えてしまった山岡に、1つ息をついた日下部は、わずかに手の力を緩めて、そっと山岡の顔を覗き込んだ。
「山岡。俺は、おまえが好きだ」
「っ…」
「山岡泰佳が、好きだ」
「……」
「原だとか、エースだとか、関係ない。ただ俺が、山岡泰佳という1人の人間を好きなだけだ。側にいたいと思っているんだ」
真っ直ぐ、誠実に。
ただひたむきに想いを込めて伝える日下部の声に、山岡の目がフラリと揺れた。
「オレは…」
「山岡」
「オレは…信じ、ない…っ」
イヤイヤと、まるで駄々っ子のように、山岡は首を左右に振った。
「山岡っ…」
「嘘です。だって原先生は明るくて、とてもいい子で…日下部先生のことを本気で好きで…若いし、可愛いし…オレなんかよりずっと…」
グタグタと言い始めた山岡に、日下部のまとう空気が、スッと冷えた。
「だからなんだ」
「え…」
「それが俺が山岡を好きなことと、何の関係がある」
「っ…だって…」
「俺は、山岡が好きだと言ったろう?俺は、自分に無頓着で、でも美味しいご飯を食べると素直に喜んで、素直で、けれど頑固で、最高の腕を持った外科医で、実は美人で、そして何より、誰より一番真っ直ぐに、命と本気で向き合う、そんな山岡泰佳が、好きなんだ」
冷たい笑みに、優しい瞳。両極端な表情と視線を向けて言う日下部に、山岡はギュッと眉を寄せた。
「そ、れは…」
「俺は、俺を好きになってくれたから、山岡が好きなわけじゃない。たとえ山岡が俺のことを好きじゃなくても、俺は山岡が好きなんだ。山岡以外は欲しくない」
「っ…そんなっ、オレはっ…」
ニコリと笑って堂々と胸を張った日下部に、ギューッと寄った山岡の眉が、ヘニャリと両側に下がった。
「オレは…」
「ふふ。知ってるよ。俺のこと、好きだろう?」
「っ…」
「だからおまえは、ただ俺を信じていればいい」
自信たっぷりに、傲慢に笑う日下部に、山岡は変な泣き笑いになった。
「オレは…いていいんですか…?日下部先生の側に…」
「当たり前だろ」
「オレがいるせいで…患者さんの害になりませんか…?」
「っ、当たり前だ」
酷く不安そうに揺れた山岡の瞳を見て、日下部は過去にきっと、これまた深い闇があることに気づいた。
「オーダー改ざんされて…ギリギリまで誰も気付かなくて…後1歩遅かったら…」
ゾワリと震えた山岡を、日下部は思わず抱き締めていた。
「大丈夫。大丈夫だ、山岡。俺がいる。俺がいるから。必ず守る。おまえも、おまえの大切なものも、必ず」
「オレのせいで…命…危険に晒されない?」
幼い子どものように、不安に揺れる目を上げた山岡を、日下部は強く抱き締めた。
「あぁ、大丈夫だ。俺がいる。おまえはただ、俺を信じていればいい。今日だって、ちゃんと気づいただろう?」
それが、たまたま看護師たちのざわめいていた場所にいただけだと言うことは教えない。
山岡を傷つける全てのものから守る、山岡の怯える全てのことから守り抜く。日下部はたとえそれが偶然の産物であったとしても、それが自分の運だ、自分の力だと迷わず言う。
「っ…」
「だからおまえは、堂々と俺の側にいればいい」
「日下部…先生…」
「何せ山岡泰佳は、俺が惚れた、唯一無二の存在なんだから」
ニコリ。いつでも揺るがない、自信に満ちた日下部の笑顔だった。
山岡の目から、スゥッと涙が伝って、その顔が、ふわりと綺麗に綻んだ。
「はぃ…」
不安の消えた、穏やかな山岡の微笑みに、日下部の腕から、ようやくわずかに力が抜けた。
「で?俺を信じないとか、原の方に行けとか。なんか散々酷いこと言われたような気がするんだけど」
ニコリ。山岡の激情が落ち着き、日下部も何とか闇から山岡を引きずりあげることに成功してホッとした後、パチンと入った日下部のSスイッチ。
「っ…それは…」
「そういえば、オレなんかの禁句も、大量に連発して聞こえたような気がするな」
ニコリ。笑顔なんだけど、どこまでも意地悪な日下部の笑みに、山岡の身体がギクリと強張った。
「しかも、触るな、なんて殴られたし、嘘つき呼ばわりもされたっけ」
ニィッと笑う日下部から、山岡はジリジリと後ずさった。
「な、殴っては…」
「なくないよ?手ぇ痛かったな~」
どんどん都合の悪い流れになっていることに、山岡はオロオロしながら、もうそれ以上下がれない後ろの壁に背中を押しつけた。
「っ…あの、その…それは…」
しかも、意地悪半分にしろ、言われている日下部の言葉は、実は全て事実なのだ。
山岡は困惑したまま、日下部の手の中に落ちて行く。
「でもそれ以上に、心はもっと痛かったな」
ふわり、と儚げに微笑んだ日下部の罠の中に、山岡はアッサリと陥落した。
「ご、ごめんなさい…」
(だからたまらない…)
S心を刺激し、あまりに従順な山岡に、日下部の笑みが深く、黒くなる。
「クスッ。泰佳、今夜はたっぷりお仕置きするよ」
「っ!」
「覚悟しておけよ」
ゾクリとするような色香をまとった日下部に、山岡の顔がクシャリと潰れた。
ともだちにシェアしよう!