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第71話
定時前に病院に向かった日下部は、外来前に、ふと病棟の川崎の病室にやってきていた。
「おはようございます、川崎さん」
「あ~、おはようございます、日下部先生?」
回診なら別の医者が来たよ?と首を傾げている川崎に、日下部はフルフルと首を振った。
「少しお時間いいですか?」
「はい?構いませんが…」
やけに真剣な顔をしている日下部に首を傾げながら、川崎は見舞客用の椅子を勧めた。
「どうも」
ストンと腰を下ろした日下部が、ベッドに起き上がって座っている川崎を見つめた。
その視線に居心地の悪さを感じながら、川崎は日下部の言葉を待つ。
「あの、もしご存じでしたら教えてください」
「はい?」
「山岡のことなのですが」
「山岡先生がなにか…?」
「大学病院での頃…点滴のオーダーミスといったことで何か事件が…?」
明らかに過去の現実をなぞっていたような山岡の発言が気になっていた日下部は、それを知るだろう人物にこうしてわざわざ会いにきたわけだった。
「っ…山岡先生が言ったんですか?」
ピクッと肩を揺らした川崎に、日下部はやはりこの人は知っていると確信する。
「まぁ、そんなようなことがあっただろうという程度ですが」
「ですよね…。全部聞いていたら、おれのところにわざわざ来ませんよね」
「はい。ご存知ですね?全容を教えてください」
ジッと真剣な目を向ける日下部に、川崎は、興味や好奇心ではないと察して、渋々口を開いた。
「楽しい話ではありません。それから…何故本人に聞かないんです?」
一番の疑問をぶつけた川崎に、日下部はフッと嫌味に笑った。
「思い出させたら傷つくから」
「っ…」
「でも俺は知りたい。知っておきたいんです」
ニコリ、と何の含みもなく素直に言われて、川崎はやっぱり負けるわ、と苦笑を浮かべた。
「わかりました。あなたなら悪くはしないでしょう」
「はい」
山岡に関しては絶対に信用できる日下部に、川崎はボウッと遠い過去を思い浮かべるようにして、話し始めた。
「まぁあれは、山岡先生が目立ち始めて…ある意味、山岡苛めっていうのが流行ってた頃なんですよね…」
「流行ってたって…」
「出る杭は打たれる。目立つ小さな芽は早めに潰す。そんなイビリがあったわけですよ」
「なるほど…」
あまりわかりたくはないが、結局どこの社会でもある小さな苛めの1つだったのだろう。
頷いて先を促す日下部に、川崎は言葉を続けた。
「山岡先生の受け持ち分のカルテがなくなることは日常茶飯事で、点滴オーダーの微妙な改ざんもちょこちょこあったんです」
「っ…」
「そのときすでに周囲に警戒していた山岡先生は、もうオーダー自体人を通さず、自分が全部チェックして歩いていて、事故という事故は起きませんでした」
多忙を極める医者が、さらに病室を回って点滴確認までしていたというのか。
いかに山岡が歩いてきた道が茨の道か、想像しただけで日下部はゾッとした。
「だけど、それって限度があったんです。もちろん、おれや山岡先生の味方だった人もフォローはしていましたよ?」
「はい…」
「でも、その全てをすり抜けたものがあった」
「っ…それは」
「えぇ。ミスと呼ぶにはあまりに大胆な書き換えが行われた1つが…注意していた人間の間をすり抜けて看護師に渡った。真に受けたまま病室に運ばれた点滴が…」
「ま、さか…」
「クス。山岡先生がすんでのところで気がついて、投与されることは避けられました」
ホッとするのと同時に、その瞬間の山岡の恐怖はいかほどだったのか。
想像すらできない感情を、日下部は持て余した。
「さすがの山岡先生もキレてね~。あの後はすごかったですよ」
「え…?」
「やった医者を探し当て、締め上げて…」
「山岡が?」
「そりゃそうでしょう。あれだけ命を大切にしているやつですよ?許せないに決まってます」
「まぁ…」
だけど激怒する山岡なんて想像がつかなくて、日下部は曖昧に首を傾げた。
「で、結局、上の力を借りて、その医者を追放した」
「っ!」
「いや、あまりに荒れる山岡先生を見兼ねて、あいつの後見が先んじて動いたってところかな」
いくら嫌がらせを受けたからといって、暴力沙汰にでもなれば、山岡も不利になりかねなかったから。
「だから…」
「ん?自分のこと、責めてました?」
「えぇ…」
わかってる、というような川崎の言葉に、日下部は静かに頷くしかできなかった。
「その後はまぁ、想像通りでしょうね。自分のせいで患者の命が危険に晒された。自分のせいで未来ある医者を1人狂わせた」
「っ…」
「それ以来山岡先生は、オーダー票に触れることはなくなりました」
「え…」
「他の医者も、その医者が見せしめに医師免許剥奪されたんです。それ以上は同じ真似は仕掛けてきませんでしたけどね」
やはり出てきた重い過去を聞いて、日下部の表情がわずかに曇っていた。
「それをここでオーダー出してたのは…周囲をちゃんと信用しようと努力した結果だったんだな」
「そうなるんですかね」
「それをあの馬鹿研修医が…っ」
ギリッと再び歯を軋ませた日下部に、川崎はあぁ、と苦笑した。
「新入りくん?やっぱりやらかしたか~」
「え?」
見越していた、とでも言わんばかりの川崎に、日下部が目を見開いた。
「初めに挨拶回りに来たでしょう?そのとき、感じましたよ。あぁ、あの頃の敵意に満ちた医者たちと同じ目を持っているって」
「っ…」
「危険だから気をつけろ、って山岡先生に忠告しときましたけど」
「そうでしたか…」
「無駄に終わったか。でも、あなたのことだ。守り抜いたんでしょ?」
クスッと笑う川崎は、本当によく回りが見えている、と日下部は思った。
「もちろんです」
「ふふ。おれはちゃんと、あなたとの誓い、守っていますからね」
よき先輩で、一生山岡の光でいるという、川崎の誓い。
「あなたも守ってくださいよ?」
山岡を傷つける、何からも、どんなことからも守る。一生愛し抜くという、日下部の誓い。
「えぇ、言われなくても」
「そうですか。…でもあの研修医くん、1発くらい殴ってもいいですかね」
「許しがたいですよね。でもまぁ、たっぷり罰は与えてますけど」
クスッと笑うサディスティックな日下部の笑みに、川崎も、あぁそうか、と納得してしまう。
「あなたが山岡先生にちょっかい出されて、黙っているわけなかったですよね」
いつぞやは自分にも向いた矛先だ。身を持って知っている川崎が笑うのに、日下部もニコリと壮絶に笑った。
「ふふ。山岡が責任を感じない程度にイビリ抜いてやりますよ」
「うわ~。自業自得とはいえ、喧嘩売った相手が悪かったですね~、研修医くん」
ご愁傷様、と笑う川崎に、深い笑みを浮かべる日下部。
まるで同士のように微笑み合う2人は、いつの間にかどこまで仲良くなったのか。
「お時間ありがとうございました」
「いえいえ。それを知ることで、山岡先生のメリットになるなら、いくらでも」
「はい、ありがとうございます」
「ではおれは少し休みますね」
「今日からリハビリでしたっけ?頑張ってください。では」
「は~い」
ペコリと頭を下げて、病室を出ていく日下部。
見送る川崎はその頼もしい背中に、プラリと手を振った。
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