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第75話
日曜日。
オフの日下部と山岡は、以前の約束通りに、近くのスーパーマーケットで、こども包丁と食材を買って、日下部のマンションにいた。
「ふふ。なんか可愛いね」
さっそくパッケージを開けた包丁は、刃先と刃元が丸く、両端には刃がついていないタイプのものだ。
しかも可愛いクマのキャラクターの絵付き。
「これって本当に手は切れないんですか?」
ちゃんと金属で、多少可愛らしいものの、包丁にしか見えないそれ。山岡は何を思ったか、その刃先をスッと自分の手のひらに押し付けた。
「おい!」
「あ、本当に切れませんよ」
包丁の刃と自分の手のひらを日下部に向かって呑気に突き出して見せた山岡に、日下部がげっそりと溜息をついた。
「切れようが切れなかろうが、包丁を手に向ける馬鹿がいるか!それから、人に向ける奴も!そこからかよ…」
小学生でも知ってる、と怒鳴りそうになった日下部は、すんでのところでそれは思い止まった。
「う…。ごめんなさい…」
途端にシュンと俯いた山岡が、それまで多少テンション高くはしゃいでいたのはわかっていた。
これまで、こんなごく普通の経験すらさせてもらって来なかった山岡が、どれほど今日を楽しみにしていたかも。
「だからって、危ない真似は許さんよ」
「はぃ…」
「ちゃんと俺の言うことを聞くこと」
「はぃ」
コクンと頷いて素直に従う山岡に、日下部の目が緩んでしまう。
「よろしくご指導お願いします。日下部先生」
「クスッ。今日は先生は先生でも、医者じゃなくて教師だな」
可笑しそうに笑う日下部は、そういうプレイもいいな…などと、内心で変態的な悪い考えを浮かべていた。
「ねぇ、日下部先生、これ切るんですか?」
「いや」
「あっ、じゃぁこれ切るんですか?」
「切らないよ」
「…じゃぁこっちですか?」
「……あのな、山岡」
いつにも増して、山岡の声が軽く弾んでいる。
日下部は、出す食材出す食材、片っ端から切りたがる山岡に苦笑しつつ、無邪気なこどもみたいな山岡を楽しんでいた。
「とりあえず先にスポンジを作るから…まずは包丁を置いて、これを泡立てろ」
日下部は、山岡に包丁を置かせ、ボウルに割った卵を入れ、ハンドミキサーを手渡した。
「何ですか、これ」
「ん?泡立てる道具。こうして…」
カチッとスイッチを入れ、ウィーンと回転を始めるミキサーをボウルに突っ込んで見せる。
「へぇ。オレにも出来そうです」
「どうぞ」
日下部がやったのを見て、同じようにやり始めた山岡は、中々上手くできている。
「これは出来るんだ…。まぁ、基本器用なんだよな…」
何故か包丁だけが不器用な山岡を不思議に思いつつ、日下部はオーブンの予熱を始めた。
そうしておいて、自分はバターを湯せんで溶かす。
横では山岡が卵を綺麗に泡立てていた。
「よし。ありがとう」
綺麗に泡立った卵を受け取り、砂糖とふるった薄力粉を入れて混ぜる。最後に溶かしたバターを入れて混ぜ、生地のタネが完成した。
「それじゃぁスポンジが焼き上がる間、やっとお待ちかねの包丁だよ」
クスクス笑いながら、食材をまな板の横に並べる日下部に、山岡のテンションが再び上昇した。
「どれを切るんですか?」
「これ全部」
イチゴにバナナ、キウイフルーツに黄桃といった、色とりどりのフルーツだ。
「わぁ」
「いいか?まず切るものをこう乗せて、押さえる方の手はこうして指を丸めて猫の手…」
山岡の横で、自分は普通の包丁を使いながら切り方を見せる日下部の手元を、山岡が真剣な顔をして見ている。
「包丁を持つ方の手はこうして…」
「はぃ」
説明しながら、ストンとイチゴを真っ二つにした日下部に、山岡がホゥと感心の声を上げていた。
「クスクス。ほら、やってごらん」
スッと脇に退いた日下部を見て、山岡がさっそくフルーツに手を伸ばす。
言われた通り、まな板の上に乗せて押さえ、包丁を握ってスッと刃を入れた。
「あ、できた」
「び、微妙に怖いけど…まぁ合格」
ぎこちない手つきにドキドキしながら、日下部はイチゴを半分に切った山岡の頭をナデナデと撫でてあげた。
「これも切っていいですか?」
「どうぞ」
今度はバナナを手に取り、皮を剥いてまな板の上に乗せた山岡。
日下部の視線の先で、きちんと言われた通りに手を添わせている。
「どうやって切ります?」
「2センチくらいの薄切り」
「はぃ」
スッ、スッと、初めよりは慣れた手つきで、けれどもまだまだ見ている方がドキドキしてしまうような切り方で、バナナを切り進める山岡。
日下部はその手元を、いくらこども包丁とはいえ、怪我をしないようにジッと見張っていた。
「切れました」
バナナを薄切りにし終わって、山岡が嬉しそうにニコリと笑った。
日下部がまた、山岡の頭をナデナデしてあげる。
「へへ。次は…キウイですか?」
「うん。先に輪切りにしてから、扇形にして」
「はぃ」
またもまな板に乗せて、スッと包丁を向ける山岡。
慣れてきたのか、だんだん危なげなく切れるようになってきていた。
そのとき、ピンポーンとインターフォンの音が響いた。
ピクンと手を揺らした山岡が、ふと顔を上げる。
同じように日下部も顔を上げ、画像が映る室内機に目を向けた。
「宅配便?悪い、ちょっと待ってて」
「はぃ」
コトンと包丁を置いた山岡の手元を見てから、日下部がインターフォンに向かった。
『宅急便で~す』という声がスピーカーから聞こえてくる。
リビングを通り、ドアの向こうに消えて行った日下部の姿を見て、山岡はふと手元に目を落とした。
「あ…」
日下部が使って脇に置いてあった普通の包丁が目に入った。
「やっぱりこっちとは違うのかな?」
自分が使っているこども包丁と見比べて、ふと普通の包丁に手を伸ばした山岡。
「この包丁に慣れたら、こっちも使わせてもらえるかなぁ…」
山岡はのんびりと呟きながら、普通の包丁を持ってみた。
「重…。でも日下部先生はすごく簡単そうに扱ってたな…こうだろ?」
食材を切るつもりはなく、まな板の上で日下部が持っていたように包丁を持って構えてみた山岡は、ふとキッチンカウンターの向こう側に見えた人影に気づいてハッとした。
「あっ…」
「え?おい!山岡っ!」
「ぁ…」
いつリビングのドアが開いたのか。いつの間にこんな側まで戻ってきていたのか。
小さめの段ボール箱をテーブルに置いた日下部が、山岡の手元を覗いて怒鳴った。
「何してる!」
「っ…違っ…」
慌ててパッと普通の包丁を調理台の上に放り出した山岡だけれど、それを持っていたところはバッチリ日下部に見られていた。
「違うんです。使おうとしたわけじゃ…」
ビクッと怯えて、必死で言い訳をする山岡を、日下部が射るような視線で睨んでいる。
怒気をまとってゆっくりとカウンターを回ってくる日下部から、山岡がビクビクと身を引く。
「違うんです…」
「何が違うんだ。包丁、勝手に持っていただろう?人がちょっと目を離した隙に…」
「違っ…」
ウルッと目を潤ませて言う山岡だけれど、包丁を持っていた、ということが違わないことは、自分が一番よくわかっていた。
「ごめ…なさい…」
シュンと俯いた山岡にも、さすがに日下部は怒りを引っ込めない。
「せっかく、包丁が使いたいって言うから、全面禁止は可哀相だし、見ていないところでこっそり使われて怪我でもされたらたまらないと、こうして俺の監視下で使えるようにしたのに…」
「っ…」
「結局、そうやって見てないとこでコソコソ使われるんじゃ、俺のしていることは全く無意味になるじゃないか」
「……」
ハァッと溜め息をつく日下部に、山岡の目にいっぱいの涙が溜まった。
「ごめんなさい…」
ズズッと鼻をすすりながら謝った山岡に、日下部の怒気が少しだけ和らいだ。
「この手が大切だ。大切なんだよ、山岡。なんでわからない?」
ゆっくりと山岡に近づき、その両手を恭しく取った日下部が、自分の両手で優しく包み込んだ。
「っ…」
「同じことでこうして怒られるの、初めてじゃないだろう?」
「っん…」
コクン、と頷く山岡は、以前、川崎の病室で勝手にナイフを持って怒られたことをちゃんと覚えていた。
「大切な手なんだよ。それを傷つけるリスクから、人が必死に遠ざけようとしているのに…。当の本人が一番それをわかっていなくて、あまりに軽々しく危険に晒しすぎやしないか?」
腹が立つなぁ、と呟く日下部の、両手を包んだ手が、小さく震えたことに、山岡は気がついた。
「っ…オレ…」
「大切なんだよ…」
ギュゥッと痛いほどの力で両手を握られ、山岡はポロ、と涙を流して頭を下げた。
「ごめんなさい…」
日下部の気持ちが痛いほどに伝わったから。
自分を大切にすることが得意でない山岡の分まで、過保護なほど大切にしてくれる日下部の想いを山岡は知っているから。
「ごめっ…ふぇっ、なさ…ぃ…」
ポロポロと、後悔と少しの嬉しさの涙を流しながら、山岡は謝った。
「はぁっ…。山岡、パドル持ってこい」
シュンと俯いていた山岡の顔が、日下部のその一言でガバッと上がった。
同時にそっと離された山岡の手が、ダランと身体の横に落ち、その首はブンブンと左右に振られる。
「山岡?」
ジッと怖いほど真剣な目で睨まれ、山岡の顔がクシャリと歪んだ。
「っ…ふぇっ…ひっく…」
日下部の指示することがどういう意味かわかって、それを受ける前からもうすでに泣き出してしまった山岡。
けれど、いつもの意地悪な表情ではなく、あまりに真剣な顔をしている日下部に、それを拒否する言葉は言えなかった。
「2度目だろう?前にも同じように叱ったよな?それでも懲りなかったってことだろう?」
淡々と正論を吐く日下部から、山岡はとうとう目を逸らして俯いた。
「っ…」
「なら、もっと厳しくされても仕方ないよな?絶対に守って欲しいんだよ。おまえの大事な手を守るためなら、今少し泣かせるくらい、俺はやる」
厳しい日下部の声だった。
山岡は、嫌だ、嫌だと思いながらも、震える足を寝室に向けるしかない。
「ふぇぇっ…」
ポロポロと泣きながら、山岡は恐ろしく長い時間をかけて、ノロノロと寝室のクローゼットに向かった。
そうして、これから自分を痛くするだろう恐ろしい道具を手に取る。
以前に1度だけ見たそれは、なんだかとても重く、大きく見えた。
「嫌だ…」
このまま手の中のそれを破壊して、逃げてしまいたい気分になる。
幸い、キッチンにいるらしい日下部が追ってくる様子はない。
「嫌だ…」
口ではそう言いながらも、結局山岡の足は、ノロノロとリビングへ、そして日下部の待つキッチンへと戻っていた。
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