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第80話
そうして昼休み。
やはり大量の仕事を押し付けて原を撒いた日下部は、山岡を連れて、久々の中庭隅にやって来ていた。
それぞれ売店で買って来たお弁当を広げながら、並んで座ったベンチから景色をのんびり眺めている。
後で必ず話す、と言っていた山岡を信じ、日下部は自分からはそのことを切り出さない。
隣で黙々と食事を口に運んでいた山岡が、ふと、半分くらい食べ終わったところで、ゆっくりと口を開いた。
「麻里亜先生…」
「うん」
「大学病院のときの…」
ポツリ、ポツリと話し始めた山岡に、日下部は静かに相槌だけを返した。
「うん」
「……」
急に黙ってしまった山岡に、日下部は急かすでもなく怒るでもなく、ただそっとその手に触れた。
「辛い?思い出したくない?」
山岡の手が小さく震えたことに気づいていて、日下部は優しく山岡の手を包んだ。
それは冷んやりと酷く冷たい。
「無理するな」
話すと言ってくれたけど、こんなに冷え切るほど嫌な記憶なら、無理に掘り起こさなくてもいいと日下部は思った。
幸い情報源なら、病室にも1人いる。
きっと知っているだろう川崎のことを思い浮かべ、優しく微笑んだ日下部に、山岡はわずかに躊躇してから、小さく首を振った。
「でも麻里亜先生はうちの病院にいて…オペもきっと入りますよね…」
避けて通れない、と呟く山岡の手を、日下部は励ますようにキュッと握った。
「土浦教授。オレの後見をしてくれた教授の…山岡さんが残した派閥の…敵対派閥の教授です」
「それは…」
「はぃ。麻里亜先生の実父です。オレを疎う…オレを邪魔に思う敵対派閥の教授の娘さんが、麻里亜先生でした」
握られていた日下部の手を、ギュッと握り返して一気に言った山岡に、日下部はクルクルと思考を始めた。
「彼女自身も?」
「はぃ。オレを憎んでいたと思います…」
「そう…」
「オレにはそんなつもりはありませんでしたけど…オレが土浦教授の出世の邪魔っ…」
ギュゥッと日下部が痛みを感じるほど強く手を握ってきた山岡に、日下部はそこでストップをかけた。
「もういい、山岡。もう分かったから、止めよ」
「っ…」
小さく震えて、ますます冷たくなっていく山岡の手を感じて、日下部はそっとその肩を抱き寄せた。
「守るよ。俺が必ず守るから。大丈夫。大丈夫だよ、泰佳」
そっと囁くように耳打ちしてくれる日下部に、山岡の身体から、少しだけ力が抜けた。
「ごめん…なさい、心配かけて…」
この状況で、日下部に謝る山岡に、日下部はたまらない思いが湧いていた。
「心配なんて俺がしたくてしてるの。余計なお世話だったらごめんな」
コツンと山岡の頭を軽く触って、日下部は明るく笑った。
「そんなことないですっ。ただ、オレの問題なのに悪くて…」
パッと顔を上げる山岡から、多少悲壮感が消えた。
「山岡の問題は俺の問題。恋人ってそういうものだよ」
「っ…はぃ」
以前なら、関係ないとでも言われたか。
今回は素直に寄りかかることを選んでくれた山岡に、ますます愛しさが込み上げた。
「じゃぁ俺も言っておく」
「日下部先生…?」
「あまりいい話じゃないけどな。他人から伝わるのは避けたいから」
「あの…」
急に身体も手も離して、身体ごと山岡に向き直った日下部が、ジッと山岡を見つめた。
「土浦麻里亜は、俺の高校時代の先輩。それで、何度か寝た相手」
逃げも誤魔化しもせずハッキリ言った日下部に、山岡の目が微かに揺れた。
「恋人さん、だったんですか…?」
前髪の間から、覗くように見つめられ、日下部は苦笑して首を振った。
「付き合ってはいなかったよ」
「えっと…それって…」
壮絶な生い立ちの割に、まったく擦れていない山岡を日下部は知っている。
だから戸惑った山岡が分かって、日下部は苦笑を深くした。
「まったく威張れた過去じゃないんだけどな。若気の至りと言うにはあまりに俺は最低男だったよ」
「えっと…」
「うん。麻里亜先輩は、ただそういうためだけの相手」
「っ…」
山岡にとってはそんな人間関係があるなんて信じがたいのだろう。だから流石に、それが複数いたことは敢えて言わない。驚いたように固まってしまう山岡を見て、日下部はひたすら苦笑するしかなかった。
「お互い割り切った関係だったよ。麻里亜先輩の卒業と同時に関係は切れてるし。それ以上は何もない」
「そ、そうなんですね…」
「うん。まぁ気にするなって言うのは難しいかもしれないけど、もし誰かが何か言ってきても惑わされないで欲しい」
苦笑しながらも真摯な目をしている日下部は、今は真っ直ぐに山岡だけを見ているというのは感じられた。
「わかりました」
「ごめんな。俺の過去は本当、中身がなくて、どうしようもなくて」
山岡の歩いてきた道に比べたら、情けないほど薄っぺらい、と自嘲する日下部に、山岡はフルフルと首を振った。
「その人がそこまで歩いてきた人生ですよ?薄いも厚いもありません。今、その人がそこにいるために存在した大事な過去です。馬鹿にしないでください」
駄目です、と言い切る山岡に、日下部はスッと自嘲を微笑に変えた。
「オレも過去は重くて邪魔なだけだと思っていたんです。だけど…それがあったから、こうして日下部先生と出会えたんだと、今は思っているんです」
言っていてだんだん照れてきたのか、恥ずかしそうに小声になっていく山岡に、日下部はたまらない愛しさを感じた。
「だから山岡が好きだ」
「い、いきなりなんですか…」
「ん~?こんな格好悪いこと聞いても、そんな風に言ってくれるんだな、って。たまらなく好きだよ」
ふふ、と笑う日下部は、すでにいつものペースだった。
「格好悪いって…逆じゃないんですか?その…プ、プレイボーイだったって言うか…」
ごにょごにょ、と濁っていく山岡の言葉に、日下部は思わず爆笑してしまった。
「プレイボーイって。でも今ならかつての俺がどんだけ最低だったかよくわかる。山岡を愛しいと思うようになってからは、気持ちがないまま身体を重ねるだけっていうことの虚しさに気づいた。反省してるよ」
「え…?日下部先生が反省ですか?」
「なに?悪い?」
「え、いえ…。ただ、似合わないな、と」
クスクス笑う山岡に、先ほどまでの暗さはない。
ホッとしながらも、日下部は用心深く山岡の様子を見守る。もちろん山岡にはわずかも気取られないまま。
「山岡ね、俺を何だと思っているの?」
「え…いえ…その、お、俺様っていうやつかな?とか…」
「……原だな」
山岡の発言に、ギロッと空中を睨む日下部は、山岡自身からそんな言葉が浮かばないことなどお見通しだ。
「俺のいない隙に2人で話すことがあるの?」
「ま、まぁそれなりに…」
何やら怪しい流れになりつつある状況に、山岡がソォッと日下部から身を引いていく。
「で、自分の恋人捕まえて、俺様なんて言い草?」
「あ~、それは、その…」
「これはちょっと躾直しが必要かな」
「え…」
「恋人に対する評価がおかしいよな?」
「っ…えっと…」
「今夜…」
「当直ですよ!」
逃げる理由があった、とホッとしている山岡は甘い。
ニコリと意地悪な笑みを浮かべた日下部は、そんな理由ものともしない。
「なるほど。当直室っていうのも興奮するかもね」
「なっ…」
ニコリと笑って悪びれない日下部に、山岡が顔を真っ赤にして固まった。
「ん?どうしたの?山岡当直だから、俺に居残って躾して欲しい、って意味だったろ?」
クスクス笑う日下部は、どSのど変態か。
あまり免疫のない山岡は対応に困って完全にフリーズしている。
「ふふ、冗談だよ。だって最中に急変や急患が来たら困るだろ」
プッと笑う日下部は、初めから山岡を揶揄うつもりだった。
「っな!」
揶揄われたことに気づき、山岡が今度は違う意味で顔を真っ赤にしている。
「もう知りませんっ」
プンッと怒ってしまった山岡を、可愛いなぁ、なんて呑気に眺めながら、日下部はすっかり土浦の存在に凹んでいた様子がなりを潜めていることに安堵する。
「オレ、オペだからもう行きます」
「そうだね。そろそろ昼休み終わりだね」
サッとベンチから立った山岡に続いて、日下部ものんびりと立ち上がる。
「あのっ…」
「ん?なに?」
不意に日下部を振り返った山岡が、ペコンといきなり頭を下げた。
「話しにくいことを話してくれてありがとうございます。オレは日下部先生を信じてます」
パッと顔を上げた山岡が、ニコリと笑った。
「ちゃんと、信じてます」
ハッキリと口にして、またパッと踵を返してしまった山岡が、逃げるように病院内への入り口の方へ走って行く。
「っ…あいつ…」
ヒラリと翻った白衣の裾を見送り、日下部がゆっくりと口元に手を当てた。
「いつの間にそんな技覚えたんだよ…」
ニタッと緩んでしまう口元を隠しながら、日下部はふわふわと浮き足立つ気分を感じていた。
山岡が残していった言葉は、日下部が土浦と切れているうんぬんという話のことだけではない。
必ず守る、と誓う日下部を、ちゃんと信頼しているという意味もこもっていることに気づいて、日下部は嬉しさから込み上げる笑いを隠すことができなかった。
「絶対に裏切れないね」
真っ直ぐな信頼が嬉しくて、ものすごい原動力をもらってしまった日下部は、それを何の計算もなくやっていった山岡に完敗だ。
「まぁ元々、惚れたが負けって言葉もあるしな」
きっと山岡の方は山岡の方で、日下部にはどうしたって勝てないと思っていることだろう。
ある意味完全なバカップルな2人の受難が再び、ここから幕を上げた。
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