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第83話

「はぁっ、はぁっ、はぁっ…」 山岡は、伸びてくる白い手から、必死に逃げていた。 「ゼィッ、ゼィッ、はぁっ…」 逃げて、逃げて、足がもつれて転びそうになっても、石に蹴躓いてよろめいても、必死で逃げた。 額に玉のような汗が浮かび、乱れた呼吸に肺が苦しい。 それでも立ち止まったら最後。伸びてくる手たちに捕まり、引きずり込まれるのは深い闇。 それを何故か知っている山岡は、ただひたすら走って走って…走り続けて…。 「っ!」 「…おか。…まおか!」 「あ…」 ぼんやりと目を開けた山岡は、目の前に日下部の心配そうな顔を見つけて、フゥと大きく息をついた。 「夢か…」 途端に全身からホッと力を抜く山岡は、それで自分の身体が強張っていたことに気づいた。 「大丈夫か?すごくうなされていたけど…」 心配そうに山岡の顔を覗き込み、汗の浮かんだ額にそっと手を添わせる日下部が、小さく首を傾げている。 山岡はその手のぬくもりにホッとして、ふわりと微笑んだ。 「大丈夫です、すみません。えっと、原先生は?」 今日は山岡の当直。ここは当直室で、仮眠をしていた山岡が本気寝をしてしまっていたところだ。 日下部は原と居残ると言って、本当に医局で仕事をしていたはずなのだが。 「適当に苛めた後、帰したよ。2日連続徹夜はさすがにマズいし、明日の執刀を本当に外させるつもりはないからね」 口ではあれこれ言いながらも、きちんと指導医らしく考えている日下部に、山岡はふふ、と笑ってしまう。 「いいコンビですよね」 「妬ける?」 「いえ。原先生は、いいオーベンに巡り合ったな、と」 それはつまり、日下部を褒めていることに他ならなくて。 計算のない山岡の言動に、日下部の目が緩む。 「山岡も経験的に、もう研修医持ってもいいのに」 「オレがですか?無理ですよ。人の指導になんて向きません」 ははっと笑う山岡だが、日下部はそうでもない、と思っていた。 けれども無理強いしても仕方がないし、それより今は気になる話題がある。 「怖い夢、見た?」 ふと、明るさを取り戻した山岡の様子を見計らって、日下部が何気なく尋ねた。 途端にピクッと肩を揺らした山岡に、日下部はキラリと目を光らせる。 けれども山岡は、またふわりと微笑んで、小さく首を振った。 「起きる瞬間まで覚えていたような気がするんですけど、忘れてしまいました」 よくあるでしょう?と笑う山岡だけれど、それが嘘だということは日下部には簡単にわかった。 だけど、あまりに拒絶の笑みを浮かべている山岡に、それ以上簡単に突っ込めない。 「日下部先生ももう帰るんですよね?それでここに来たんですか?」 帰宅の挨拶?と首を傾げた山岡に、日下部はどうしたものかと一瞬考え、ポンッと山岡の頭を1つ撫でた。 「俺はいるからな」 「え…?」 「いつだっておまえの側にいるからな。忘れないでな」 イイコ、イイコと頭を撫でる日下部に、山岡は日下部の優しさに気づいて、泣きそうになった。 「っ…ごめん、なさい…」 言えない自分が情けなくて、なのにそれを許してくれる日下部がありがたすぎて。 山岡は泣きそうに潤んだ目をグッと堪えて、日下部に向かって微笑んだ。 「日下部先生がいてくれるから、オレ、大丈夫です」 「ん…」 「キス…してもいいですか?」 ふと、窺うように目を上げてきた山岡に、日下部の表情がふわりと緩む。 「あまり可愛いことをいうと、せっかくやめてやろうと思ってた躾、本気でしちゃうぞ?」 クスクスと冗談めかして言う日下部に、山岡の顔がぎこちなく強張った。 「そ、それは困りますっ…。でも、キスはしたい、です…」 結局、当直室でどうのというのは、日下部の冗談だったらしく、今夜日下部がここに来たのは今が初めてだ。 しかも見た感じ、白衣は着ていないし、帰り仕度の整った姿だ。 それを見て安心している山岡は、んっと顎を突き出し、キスをねだった。 「まったく、人を煽って…悪い子だ」 「んっ…」 クスッと意地悪に笑いながらも、山岡の要求にサラリと応える日下部。 馴染んだ心地の良い唇に、うっとりと山岡の身体から力が抜けていく。 「んっ、ふ…」 ツゥーッと2人の間を唾液の糸が引き、離れて行った顔同士がすぐ側で互いを見つめ合う。 「おやすみ、泰佳」 「はぃ、お疲れ様です…ち、千洋」 「ん。急患ないといいな」 「はぃ」 「じゃぁまた明日」 プラプラと手を振って離れていく日下部に、山岡はコクンと大人しく頷く。 もうすぐ日付が変わろうかというその時間、ようやく日下部が帰宅していった。 山岡は、このまま寝当直だといいな、と思いながらも、またあの悪夢を見るのが怖くて、ベッドに横にはならなかった。 「オレは、もう、負けない…」 過去になんか引きずられるものかと、1人踏ん張る。 その傍らにある、日下部という心強い存在が、山岡を少しだけ強くしていた。

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