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第85話

午後。 オペのない山岡が、ナースステーションでのんびりカルテ整理をしていたところに、ふと廊下を通り掛かった川崎が顔を見せた。 「やっほ。山岡先生1人?」 ヒョコッとカウンターの向こう側から中を覗いた川崎に、山岡は見ていた書類から顔を上げた。 「あれ?川崎せ、さん。どうかしましたか?」 椅子から立ち上がり、ゆっくりと廊下の方に歩いて行く。 みんな仕事に散っているのか、看護師たちの姿は1つもない。 「いや、ちょっとリハビリがてら散歩しようかと思って…」 「そうでしたか。もうすぐ退院ですものね」 「うん。時間あるなら付き合わない?」 ニコリと笑う川崎に誘われ、山岡はう~ん、と考える。 「あぁ、勝手に山岡先生を連れ出したら、おっかない人が黙ってないか」 「おっかない人って…」 「じゃぁダーリン?」 クスクス笑う川崎に、山岡が苦笑した。 「何なんですかそれ。でも、日下部先生なら、今オペ中ですよ。今日、原先生の初執刀ですって」 言いながら、山岡はチラリと時計を見た。 「へぇ。あの坊やがね。どう?使えるの?」 興味ありそうに身を乗り出す川崎に、山岡は苦笑した。 「1度助手に入れましたけど…ボーッと人の手元見てぼんやりばかりしていて、日下部先生に蹴られてばかりいました。腕自体はさっぱり」 わかりません、と笑う山岡に、川崎が声を上げて笑った。 「山岡先生のオペ、初めて見たら、誰でもそうなるよ。見惚れるもん」 クスクス笑う川崎は、大学病院時代にその腕前を見知っている。 「他は、熱心で素直で、きっといい医者になりますよ」 「へぇ」 「川崎せ、さん。体調いいようなら、中庭まで行ってみます?」 散歩、と言う山岡に、川崎は嬉しそうに大きく頷いた。 ゆっくりと歩く川崎のペースに合わせながら、身体の状態のことや、退院後の生活のことなど、他愛もない会話をしながら、中庭まで向かう。 ポカポカと午後の日差しが暖かい中庭は、芝が張られ、中を通る遊歩道を爽やかに彩っている。 のんびりと散歩や日光浴をしている患者の姿もちらほら見られる中、山岡も川崎と並んで歩きながら、ふと休憩したいという川崎に合わせて、適当なベンチに腰を下ろした。 「ふぅ。たったこの程度の距離で疲れる…」 「まぁそうでしょうね。1日の安静臥床でも筋力は落ちますから。何日も寝てる時間の方が長かったんですから、取り戻すには1ヶ月や2ヶ月は」 「だよな~。キツ…」 ベンチに座って苦笑している川崎に、同情的な視線を向けながらも、山岡はふわりと微笑んだ。 「まぁ慌てずゆっくりです」 「ん。今は焦って取り戻したい時間があるわけでもなし。のんびりいくよ」 ふふ、と笑う川崎の周りが、何故か温かなオレンジ色に見えて、山岡は軽く首を傾げた。 「何だか、昔の、オレの救いだった頃の川崎先生に戻ったみたいです」 手術前はかなり弱っていた川崎だが、今はそんな気落ちの気配はまったく感じられない。 「そう?だとしたら嬉しいな」 「はぃ。オレが迷わずにいられる光です、川崎先生は」 「だから、先生じゃないって」 「はぃ…。あの…」 ふと、山岡が過去に目を眇めるように、小さな呟きをもらした。 「ん?」 「あの…」 言いにくそうに言葉を区切った山岡に、川崎はふわりと笑って山岡が言い出したいだろう名前を口にした。 「土浦麻里亜先生?」 「っ、知って…?」 「うん。看護師さんたちが噂していたし、日下部先生からも聞いた。同姓同名の別人、ではないみたいだね」 「はぃ…」 ストンと俯いてしまう山岡の傷を、川崎は今山岡の側にいる誰よりも知っていた。 「怖い?」 「正直、はぃ」 「だよね。されたことがされたことだからな。逃げちゃえ」 「え…」 「この先生の麻酔じゃオペできません~って我儘言っちゃえ」 「そんな…」 「日下部先生が喜んで聞いてくれるよ。まぁ山岡先生が言わなくても、あの人ならもうそれくらいの手回し、すでに済んでいそうだけど」 ケラケラ笑う川崎に、山岡の目が困惑に揺れた。 「オレの問題で、周りにそんな迷惑をかけるわけには…」 真面目な山岡らしい発言に、川崎はあっけらかんと笑った。 「じゃぁ麻里亜先生に麻酔に入られて、執刀医に怯えながらオペされるクランケの身になれ」 「っ…」 「オペ中にフラッシュバックして動揺でもされたら?よっぽど迷惑」 ふっと笑う川崎は、決して意地悪で言っているのではなかった。 「他のスタッフに迷惑掛けないことがそんなに大事?山岡先生が守りたいのは、人への気遣い?違うよな。患者の命じゃないの?」 「っ…」 「ベストコンディションでオペに臨めなくなっていいわけ?」 「それは…」 「だったら、そんなスタッフ、執刀医の権限で外して構わないとおれは思うけど。山岡先生が守りたいのは、何?」 かつてと変わらない、真っ直ぐ揺るがない川崎の目だった。 「クランケの命です」 だから山岡は、道を見失わないでいられる。 「じゃぁ答えは出てるじゃない」 「はぃ。ありがとうございます。やっぱり川崎さんは、オレの光です…」 ほんのりと笑う山岡に、川崎は少し寂しそうに微笑んだ。 「おれは守れてる…?」 「え?」 「いや、何でもない。そろそろ戻ろうかな」 大分休んだし、歩けそう、と言う川崎に手を貸して、山岡もベンチから立ち上がった。 「なんだか川崎さんの気晴らしじゃなくて、オレの相談になってしまってすみません…」 「いいさ。だっておれは、山岡先生に掬い上げてもらった命だからさ。いくらでも山岡先生の為に尽くすよ」 「っ…もったいないですよ…」 「おれがそうしたいんだからいいの」 ニコリと笑いながらゆっくり歩き出す川崎を、慌てて山岡が追った。 「何だか最近、オレを甘やかす人が増えた気がします…」 「そりゃ、山岡先生の人望だ」 「オレに?人望?まさか」 はは、と笑う山岡は、相変わらず自己評価が低い。 けれどもう、どうか幸せになってくれ、と願う人間が周囲にいくらでもいることに、そろそろ気づいて欲しいと川崎は思っていた。

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