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第88話
そうして2人は、食堂の片隅で向かい合っている。
嫌でも注目を集める存在の日下部に、共にいるのが新入りで、誰もが振り返るほどの美人の土浦なのだ。
周囲の視線が一気に集まるのはもう諦めの境地だ。
(まさか海面下で腹の探り合いをしているなんて思いもされてないんだろうな…)
面倒くさい、と苛立ちながらも、日下部の表面にはそんな内心わずかも見えない。
(さっさと潰すか)
ニコリ、と綺麗な笑みを向けた日下部に、土浦は負けじと美しい笑みをはいた。
「それにしても、まさかこんな形で再会するなんて驚きましたね。この病院には偶然?」
再会時の反応を思い出す限りそうだとは思うが、川崎の件もある。調べようと思えば調べることができる医師の所在、意図して近づくことができないわけではないだろう。
探るように、けれどそれを見せずにサラリと尋ねた日下部に、土浦は綺麗に微笑んだ。
「本当、驚いたわ。まさかたまたま人手不足で声が掛かった病院に、日下部くんがいるだなんて。しかも医者になっていたのね」
すごいわ、と素直に感心しているらしい土浦に、嘘はなさそうだ。
「高校時代から頭は良かったものね。医学部も納得だけれど、あたしを追ってくれたわけではないのね」
同じ大学で会わなかったことが、それを裏付けていて、土浦は少しだけ悔しそうに目を揺らした。
「この再会まで、麻里亜先輩のことはすっかり忘れていました」
ニコリ。残酷な台詞を綺麗過ぎる笑顔で言い放つ日下部は、本当にたちが悪い。
しかもそれが相手の反応を探るために計算して行われているところが、この男の怖いところだ。
「それくらい承知よ?再会したとき、すぐに名前が出て来なかったもの。あなたがそういう男だということは、良く知っているわ」
簡単に動揺など見せず、内心をおくびにも出さない土浦もまた、手強い女だった。
「ならばこんな冷血な最低男とは、もう関わらない方が良いのでは?」
むしろ放っとけ、と笑顔で言っている日下部に、土浦は小首を傾げて微笑む。
「女はそれをクールっていって、決して欠点だとは思わないのよ」
ふふ、と笑う土浦は、本当に厄介で面倒くさかった。
「俺の方はもうあなたと、ビジネス以上の関係を持つ気はありません」
はっきりと引導を渡さなければ、いつまでも腹の探り合いだ、と思った日下部が、きっぱりと線を引いた。
土浦の目が、一瞬だけ悔しげな光を宿す。
「それは本命ができたから?」
笑顔がわずかに崩れたのを見て、日下部は内心でほくそ笑んだ。
(ようやく本心を漏らしたか。こっちのペースだ)
どちらが上手か、一瞬たりとも気の抜けない攻防が続く。
「ご想像にお任せします」
「っ…。山岡泰佳」
揺らがぬ日下部の笑顔に、土浦の声がとうとうブレた。
「どこがいいのよ。顔?あなた、面食いだったものね」
決して特定の彼女を作らなかった日下部が、身体だけだとしても側に置いた相手の容姿は、みんな一定以上だったのを思い出しているのだろう。
「なかなか自意識が高くていらっしゃる」
ニコリと笑う日下部の言葉は、意地悪で嫌味。土浦の発言は、自分も美人だと言ったのも同然だからだ。
「っ…!そういうことじゃないわ。あれは駄目よ。顔なんかで選んだら、酷い目にあうわ」
ついに口調を乱した土浦に、日下部は余裕の笑みを浮かべた。
「知らないのなら教えてあげる。山岡泰佳は…あの男は、関わる人間をことごとく不幸にしていく疫病神。周囲を滅茶苦茶に壊す、悪魔のような男よ」
ふっと勝ち誇ったように言っている土浦に、日下部の身の内がスゥッと冷めていった。
「俺が何も知らないと思っているのだとしたら、あなたはとてもおめでたい人だ」
壮絶に笑った日下部に、土浦の目が大きく見開かれた。
「まさか…」
呆然、という言葉がピッタリの土浦の表情だった。
「俺は、どんなに容姿が綺麗でも、心の醜い人間を選びはしませんよ」
「っ…」
「かつてあなたは…。あの頃の俺が、あなたを選んだことを、間違いだと思わせないで下さい。少なくとも俺の方は、あなたとは相性が良かったと思っているんですから」
ニコリ。どこまでも魅力的な笑みを浮かべる日下部に、土浦が言葉を無くして唇を震わせた。
「俺を…俺自身を幻滅させないで下さい」
ふわり、壮絶な色気を含んだ笑顔だった。
「あなたは変わらず悪い男ね…」
ふっと微笑する土浦は、敗北を認めたようだった。
けれど土浦は、日下部が思うよりずっとずっとプライドが高い女だった。
だから日下部は初めて、この狡猾で腹黒い土浦に対して、大きな計算違いをした。
けれども今この時、土浦をやり込めたと思っている日下部は、その誤算に気づいていなかった。
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