91 / 426

第91話

パタパタと、3階の廊下を走っていた日下部は、ある面談室から土浦が出てきたところをちょうど見つけた。 「麻里亜先生…」 「あら、日下部くん。どうしたの?」 にこりと自然に微笑む土浦に、日下部はさり気なさを装って近づいた。 「いえ。今日はインフォですか?」 「まぁね。今終わったところよ」 サラリと言う土浦だけど、少なくとも日下部が見た限り、患者が出て来たところは見ていない。 (とっくに終わっていたくせに…) 白々しい、と思いながらも、日下部はふわりと綺麗に笑った。 「お疲れ様です。消化器外科でした?」 「えぇ。山岡先生よ」 あっさり答える土浦に、疚しいところはないのか。 拍子抜けした日下部が、先ほど土浦が出て来た部屋のドアを見つめた。 「まだ中にいるんじゃないかしら」 「そうですか」 「じゃぁあたしはこれで」 「えぇ」 「またオペでよろしくね」 「はい」 平然としたまま去って行く土浦を見送り、日下部は山岡がいるという面談室に飛び込んだ。 「山岡先生っ…」 バンッとドアを開けた日下部は、中にポツンと、真っ白い顔をした山岡が立っているのを見つけた。 「山岡っ…どうした?何をされた?」 カチャンと素早く鍵を閉めて、山岡に手を伸ばす。 そのままギュッと腕の中に抱き込んだ山岡の身体は、驚くほど冷たかった。 「っ、あの女…」 「ぁ…日下部先生?」 不意に、ぼんやりとしていた山岡の目が、日下部に焦点を結んだ。 途端に強張っていた表情が崩れる。 「どうしたんですか?」 コテンと傾げられる山岡の首に、日下部はギュッと抱き締める腕の力を強めた。 「どうしたじゃない。それは山岡の方だろう?」 「オレですか?」 「あぁ。あの女に…土浦麻里亜に、何をされた?」 色を失っていた山岡の顔から、何もなかったとは思えない日下部は、必死で問い詰めた。 「麻里亜先生に?えっと、何も…」 「嘘だ」 「っ…本当に、何も」 フルフルと小さく首を振る山岡に、日下部の怪訝な視線が向いた。 「こんなに冷え切って、何もなかったはずがない」 「でも…話をしていただけです」 「悪い話か」 原因はそれだ、と確信する日下部に、山岡は少し困ったように微笑んだ。 「麻里亜先生は、きっと今でもオレを憎んでる。だから、わざとキツイ言葉は使っていただろうけど…内容自体は、ただの事実です」 だから、何をされたわけでもない、と言う山岡に、日下部は土浦への苛立ちを隠せなかった。 「っ…日下部先生」 「なんだ」 「日下部先生は…」 「うん?」 「あ、いぇ…。あ、そうだ。日下部先生って、やっぱり高校時代にもモテていたんですね」 へへ、と笑う 山岡が急に何を思ってそんなことを言い出したのか。日下部は思わず一瞬毒気を抜かれてしまった。 「そんなことを言われたのか」 「はぃ。その…麻里亜先生みたいな関係の人が複数いたって…。今もいるに決まってるって…」 チラ、と上目遣いに見てくる山岡に、日下部は深い溜息をついた。 「はぁっ、それを信じたのか?」 「いいえ。オレは日下部先生を信じてます」 それで大体、土浦が何を目論んだのかを察した。 「でもオレは、日下部先生のことをそこまで知らないな、って…」 ポソッと言う山岡の発言が、土浦の撒いた言葉への嫉妬だと聞き取って、日下部は苛立っていたのも忘れ、思わずにやけてしまった。 「麻里亜先生が知っている俺の過去を、山岡が知らないことが悔しい?」 「えっと…少し、はぃ…」 「ふふ、嫉妬してくれるんだ?」 「し、嫉妬っ?えっと、あの…」 「知りたかったらいくらでも話すよ。まったく面白い話じゃないだろうけど」 「っ…聞きたい、です…」 ユラッと期待を浮かべた山岡の目に気づき、日下部は嬉しくて嬉しくて、顔がにやけて行くのを止められなかった。 「俺のことを知りたがってくれるなんて、感動なんだけど」 「な、なんですか、それ…」 「恋人に自分のことに興味持たれて、嬉しくないやつはいないだろ」 「迷惑じゃ…?」 「ないね。嬉しい。じゃぁ今夜」 「え…?」 「絶対に仕事を終わらせるから、夕食うちで。そのときに話してあげる」 ポンポンと頭を撫でた日下部に、山岡の顔がふわりと嬉しそうに綻んだ。 そこにはもう、先ほどまでの蝋人形のような山岡はいなかった。 (ふふ、土浦麻里亜…。これは誤算だろ?ざまぁみろ) きっと山岡を惑わせたかったのだろうけど、そう簡単にいくものか。 (また1つ俺らを近づけるスパイスを投入しただけだったな。残念だけど、あなたの思い通りにはいかないよ) もうここにいない土浦に向かって勝者の笑みを浮かべながら、日下部は腕の中で体温を取り戻した山岡を、愛おしそうに抱き締めた。

ともだちにシェアしよう!