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第92話
「ふふ。なんか、改めて話すとなると、変な感じだね」
トントンとまな板の上で包丁を鳴らしながら、日下部がニコリと笑った。
キッチンカウンターのこちら側から日下部の手元を覗き込みながら、山岡が期待に目を輝かせている。
日下部との約束を守って、前髪はきちんと上げているから、その表情がよく見える。
「それで、何が聞きたい?」
ん?と首を傾げる日下部に、山岡は僅かに考え、ニコリと笑った。
「日下部先生は、どんな高校生だったんですか?」
まぁその時代か、と思いながら、日下部はゆったりと過去を思い浮かべた。
「そうだな。どんな、と言われると、まぁそこそこ普通の、少しやんちゃな高校生だったかな。でも不良ってやつではない」
「やんちゃ…ですか」
う~ん、と首を傾げる山岡は、普通の高校生の基準がわからない。
「自分で言うのもなんだけど、成績は良かった」
「でしょうね~」
ふふ、と笑う山岡は、髪で隠れていないとかなり表情が動くようになったことがわかる。
「俺はさ…山岡からしたら、きっとすごく贅沢なんだろうけど…」
「日下部先生?」
「ちゃんと血の繋がった家族っていうのがいて、ごく普通の、はたから見たら円満な家庭があって、経済的にも恵まれていて。けれど、それを幸せだと思ったことが、なかったんだ」
「そう…ですか…」
ほんのりと首を傾げた山岡は、けれど不快になった様子はなかった。
「見た目には穏やかで幸せそうな家族だったけれど…その実情は、それぞれに興味も愛情もない、仮面家族だったんだ」
「仮面…」
「うん。だから俺は、愛なんてものを、信じちゃいなかった」
ふっと笑って遠い目をする日下部にも、過去に蓋のできない傷があるようだった。
「俺の両親は、初めは確かに好き合って結婚したんだと思うよ。だけど俺が知る限り、俺の父親は、外に別の相手がいた。しかも複数ね」
「っ…」
「かと思えば、それを知った母親は、責めるでもなく、嘆くでもなく、自分も外に相手を作った」
「っ、それって…」
「うん。いわゆるダブル不倫ってやつだろ。それで何で離婚しなかったかっていうのは、単に世間体。そういう人たちだったんだよ」
クスッと笑う日下部が、高校生の時点でそれを諦めと共に受け入れていたのかと思うと、山岡は少し切なくなった。
「ちゃんと家族がいても満たされないことは、初めからいないより辛いかもしれないですね…」
ほんのり微笑む山岡は、何でこんなに優しいのだろうと日下部は思った。
「どうかな。ただ俺は、だから愛なんてくだらないって、そんな風に思う、ひねた子供だった」
「ん…」
「ただ、あの人たちは、愛情の代わりに、金だけは過ぎるほどに与えてきたよ」
馬鹿だろ、と笑う日下部が、当時本当に欲しかったものはそうじゃないと、山岡にすら簡単にわかった。
「日下部先生…」
少し辛そうに目を細める山岡を見て、日下部は苦笑した。
「やめる?」
自分のほうがよっぽど辛い過去を歩いて来ているのに、山岡にこんなに切ない顔をされる予定ではなかった。
「いえ…。オレは知りたいです。日下部先生のことならなんだって」
「そう?じゃぁ続けるけど…。そんな俺が高校生の頃にはさ、もう家族とか愛とかを期待することはなくなってて、俺も俺のしたいように好き勝手してた」
その好き勝手が、土浦の言っていた女性関係のことも含んでいるんだな、ということは、山岡にも何となくわかった。
「高校は一応ちゃんと出席してた。部活はしてなかったけど、勉強は人並みにこなしてた。それでもそれなりに色々器用にできてな、正直、モテた」
クスッと笑う日下部は、傲慢なのだけれど、本人があまりにあっさり言うから、山岡はそんな風に聞こえないところがすごいと思った。
「でも何となくわかる気がします。カリスマ性って言うんですかね」
「ふふ、当時もよくそんな風に言われていたよ」
「やっぱり」
「うん。だからなのか知らないけど、告白してくる女子も多くてな。だけど俺は、女子が好きです、って言ってくる言葉を、1つも信じなかったんだ」
「っ、それは…」
「うん。愛ほどあてにならないものはない、って本気で思ってた。だから、ヤラせてくれるんなら付き合ってもいいよ、って言って、俺に愛とか恋とかを求めない女だけを側に置いた」
「っ…」
わずかに引きつった山岡の顔が見えて、日下部は苦笑した。
「最低だな。いいよ、軽蔑して」
「いえ…」
「ま、最初は好きだなんだと言っていた女たちもさ、結局最後は、1度でいいから抱いてくれって。愛がなくてもいいから、って、俺の身体だけを求めたよ」
「っ…」
「あぁやっぱり、愛なんてあてにならない、って思った。だから俺は、好きだという言葉を漏らした相手はすべて排除した。身体だけと割り切れる相手だけを側に置いた」
ふっと笑う日下部の顔は、自嘲を映していた。
「じゃぁ麻里亜先生も…」
「うん。そんな相手の1人だった。けれどあの人は、他の子たちよりも、少しだけ特別だったかな」
ニコリと微笑む日下部の目は、当時の景色を映しているようだった。
「特別…」
「うん。恋や愛じゃないよ?あの人も、俺と同じで、そういうものを信じていない人だったんだよ。あぁ、だからかな。同志みたいなものだったんだ」
「同志…」
「そう。あの人の家もさ…土浦家は、医者一家でな。って知ってるか。多忙で家に滅多に帰ってこない外科医の父親に、学会や研究に忙しい母親。確か兄がいたけれど、これまた医者になるべくして育てられたような勉強しか興味のない、他人に無関心な人間で、麻里亜先輩自身もそんな環境の中で、家族の愛とは疎遠な人だった」
「っ…」
土浦の家庭環境を知り、山岡はあの医者として出世することに拘る土浦の冷徹さの理由が少しわかった気がした。
「あたしも愛なんてくだらないと思う。愛なんていらないから、快楽と温もりだけちょうだい、だったかな。あぁこの人の側は居心地がいい、と思ったよ」
「そう、ですか…」
「うん。ガキだったよな。お互いにきっと、埋まらない飢えを、お互いの身体で満たしていたんだ。2人とも、自分が飢えていることにすら気づかずに」
ははっと笑う日下部は、それから随分と大人になっていた。
「山岡に出会って、山岡を愛した今だから、俺はそう思う。そう言えることに気づいた。俺は本当は、愛なんていらないんじゃない、愛が欲しくて、家族の愛情が欲しくてたまらない子供だったんだ。欲しくてたまらないのに手に入らないから、いらない振りをして、周囲から与えられる愛を自分から拒絶して…」
「日下部先生…」
「自分の存在を虚勢で守っていた、愚かな子供だった…」
薄く目を細めて呟いた日下部に、不意にカウンターを回り込んでキッチンに向かった山岡が後ろから抱きついた。
「わっ…危なっ…」
包丁を使っていた日下部が、突然体に回された山岡の腕に、ビクッと身を跳ねさせた。
「山岡?」
「好きです、日下部先生」
「ん…?」
「好きです」
ギュゥッと痛いくらい強く抱きついてくる山岡に笑って、日下部は穏やかな目を向けた。
「俺も好きだ。山岡に出会えて、俺はやっと満たされた。いま、幸せだよ、とても」
「はぃ…」
「まぁ、俺の高校時代はそんな感じ」
クスッと笑った日下部は、もう直前までの儚げな様子は微塵もなかった。
「そうだったんですね。なんかでも、少しだけ分かる気がします」
「わかる?」
「日下部先生が、女性の扱い上手いのとか」
ふふ、と笑う山岡は、今現在、看護師たちにモテモテの日下部を思い描いてでもいるのか。
緩んだ口元が、とても楽しそうだ。
「それは喜ぶところ?山岡が妬いてくれたら嬉しいんだけど」
「え~っと…なんていうか…日下部先生がモテるの、オレは嫌じゃないっていうか…」
「それが自分の男なんだぜ、って思うと、優越感?」
「いえ…。えっと…」
「ふふ、冗談」
「ん…」
「よし、そろそろ食事にしよう」
話しながら、手だけはテキパキ動かしていた日下部が、いつの間にか夕食を完成させていた。
「はぃ。あの、もっと色々聞いてもいいですか?」
「うん?」
「えっと、日下部先生は何で医者になったのとか…ご両親は何をしている人ですか?ご兄弟はいないんですか?」
次々と興味を示す山岡に苦笑して、日下部は完成した料理をゆったりとダイニングテーブルに運んだ。
「うん、全部答えるけど、ゆっくりな。時間はいくらでもあるから」
ふふ、と笑いながら、日下部は小さい子供がなになに攻撃をしてくるような無邪気な山岡の様子に、込み上げてくる愛しさを抱いていた。
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