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第93話
そんな、ある日、それは起きた。
その日は、日下部の執刀で、前立ちに原、助手に山岡が入っていたオペのときだった。
そのオペに入っていた麻酔科医は、土浦ではない比較的若い男の医師で、日下部も特に注意はしていなかった。
オペが開始され、順調に進んでいた、そのときだった。
「ん~?血圧上がってきてない…?」
「……」
「横隔膜動くよ?自発呼吸が出て…麻酔?」
ふと、患者の様子がおかしいことに気づいた日下部が、術野から目を離し、麻酔科医に視線を向けた。
「術中覚醒とか笑えな…おい?」
「……」
「ちょっ、麻酔浅いって言ってんの。何ぼんやり…」
早くなんとかして、と要求しようとした日下部は、その声を完全無視して、装置からも患者からも目を逸らして俯いている麻酔科医を見つけた。
「なっ…どうしたんだ?」
「……」
「おい!しっかりしろ!」
完全に手術の手を止めて怒鳴る日下部に、麻酔科医はフラフラと足を引いて、その場にストンと蹲った。
「ちょっ…なに」
「っ!」
慌てる日下部と、床に蹲ったまま患者の全身管理を放棄した麻酔科医。
その様子を見た山岡が、不意にめまいを起こしたかのように、フラリと一歩下がった。
カラーン…。
手にしていた器具が落ち、無意識にカバーを掴んでしまった山岡の手に引っ張られて、その上に乗っていた道具のトレーが落下する。
ガシャーンッ!
派手な音が鳴り響き、山岡の身体がビクッと強張った。
「ちょっと山岡先生までっ、どうしたの?原、そこ離すなよ?」
急に動揺が走ったオペ室内に、執刀医の日下部のさすがに焦った声が響く。
場慣れしていない原もその動揺に引きずられそうになるのを、日下部が引きとめる。
「っ…」
どうしたものか、と日下部が考えたのは一瞬で、すぐに動揺に引きずられていないオペ看に器具の揃え直しを頼む。
「急いで。落ちたのそのままで、新しいの早く」
「はい」
日下部の指示にパパッと動く看護師を見て、日下部はようやくハッとした山岡に一瞬視線を向けた。
「っ…すみません」
「いや」
動揺を消した山岡の目に安堵した日下部を見て、山岡は瞬時にするべきことを行動に移した。
「日下部先生、オレ抜けても手元大丈夫ですか?」
原と2人でどうか?と尋ねる山岡に、日下部は力強く頷いた。
「大丈夫だけど」
「じゃぁオレ、手下ろします。麻酔入ります」
「え?できるの?」
「できます」
パッと手術台の前から外れ、モニターや機械が見える位置に移動した山岡。
床に蹲っている麻酔科医の肩をトンッと叩いて、その場を退かす。
「代わります、退いて下さい」
「っ…おれ…」
「いいから退いて!オレは、ただクランケを救いたい。あなたの思惑なんてどうでもいいんです!退いて」
ピシ、と張り詰めた山岡の声に、麻酔科医がビクリと肩を揺らし、日下部がふと、山岡の言葉の意味を理解した。
(くそ…。あの女の息がかかってたのか…)
小賢しい、と苛立ちながらも、手元は迷わず正確にオペを進めていく。
クタンと脱力した麻酔科医をどかし、山岡がその代わりの仕事をこなす。
「ペアン…コッヘル…」
「わわわ、日下部先生っ、これ…」
「大丈夫。ここを押さえてみ?うん、そう、ゆっくり…」
まだまだ下手くそな原にも迷わず、日下部は淡々とオペを進める。
山岡がクランケの全身管理をする声と目に、日下部は絶対の信頼を寄せる。
多少のトラブルはあったものの、最終的に予定時間を大分オーバーしながらも、手術は無事終了した。
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