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第94話
「お疲れ様でした」
「お疲れ様でした、途中すみませんでした」
ガウンを脱ぎ、帽子を外して手術室を出た日下部に、山岡も同じようについてきて、ペコンと深く頭を下げた。
その後ろには、原がチョコンとついてきている。
「いや。結果オーライ」
「でも…」
「ふふ、まさか山岡先生が、麻酔できるなんて。初めて知った」
器具をばら撒いたことを気にしている山岡に、日下部はシラッと笑った。
「えっと、まぁ…」
フラリと視線を彷徨わせた山岡に、日下部は全てを察していた。
「2度目?」
「っ!」
「すぐに見破ったの、変だと思って」
「…わかりましたよね…」
「うん。同じことやられてなきゃ気付かない。動揺しない」
フッと笑った日下部に、山岡はしんみりと頷いた。
「はぃ…。だからオレ、麻酔も身につけたんです…」
ニコリと力なく笑う山岡に、日下部の目が痛ましそうに細められた。
かつての大学病院時代、やはり土浦が仕掛けただろう麻酔科医に、同じことをやられたことがあった。
オペの途中での仕事放棄。
オペ中の患者の全身管理をしてくれる麻酔科医の存在は大きくて、それを失うことは外科医にとっては大きな痛手だ。
山岡は、当時のそのときの恐怖を忘れていなくて、修行をして、麻酔科医を名乗れるくらいにはできるようになっていた。
「土浦麻里亜…」
「無駄ですよ。きっと証拠はありません」
ふっと笑う山岡は知っている。当時も結局、それを仕掛けたのが土浦だという証拠は上がらなかった。
「……くそ」
憎々しげに舌打ちする日下部に、ふと後ろにいた原がビクッと身を竦めた。
「あ、あぁ、原先生、お疲れ様。緊急事態にもよく対処したよ、えらかった」
第2助手の山岡に突然抜けられ、経験の少ない原はかなり焦ったことだろう。
それでも最後まで弱音を吐かずに立っていた原を褒めた日下部に、途端にドッと原の身体から力が抜けた。
「はぁぁぁっ…」
「緊張してたのか。休憩、たっぷりとっていいよ」
ふふ、と笑う日下部は、先輩たちのわけのわからない話を聞いていながら、何も言わずに黙っている気遣いのできる原に感謝していた。
「はい。お疲れ様でした」
ペコン、と頭を下げて出ていく原を、日下部はのんびり見送り、ゆっくりとオペ室の扉の方を振り返った。
同じように山岡が振り返ったところに、そのドアが開く。
ヨロヨロと出てきたのは、結局最後まで床に蹲り、項垂れていた麻酔科医だった。
「……聞きたいことがある」
不意に、日下部がその医師に向かって口を開いた。
途端にビクッと身を竦ませた医師が、ズルズルと俯いていく。
その姿を鋭く睨み、日下部は低い声を出した。
「意図的か」
体調不良と言われればそれまでだが、問い詰めずにはいられない日下部の声に、麻酔科医は思いの外素直に頷いた。
「はい」
「っ!」
途端にブワッと湧いた日下部の怒り。
殴りかかる、と思ったのを、山岡が慌てて止めた。
「駄目です、日下部先生っ…」
「庇うなっ、そんなやつ!」
振り上げられた日下部の腕をガシッと掴みとめた山岡に、日下部が鋭い視線を向ける。
山岡はそれをジッと受け止め、静かに左右に首を振った。
「違います。庇っているのは日下部先生の手ですよ」
「…山岡?」
「駄目ですよ、外科医が大切な利き手で、人を拳で殴ったりしては」
ね?と首を傾げる山岡に、日下部の渦巻いていた怒りがフッと消え、それに晒されていた麻酔科医がクタンと腰を抜かしたように床に尻もちをついた。
「すみませんっ…すみませんでしたっ…」
突然、ウワーッと泣き出した麻酔科医が、床に頭をつけて謝りだした。
土下座のようになっているその姿を見下ろした、日下部と山岡の冷めた目が向く。
「すみませんでした、おれ…っ」
「……」
ジッと見下ろす日下部は、もう声をかけてやることすらする気がない。
ただ謝る麻酔科医を、何の感情もなく見下ろしている。
一方山岡は、辛そうに目を細めて、そんな麻酔科医を見下ろした。
「誰かに頼まれましたか?」
「っ…いいえ」
「誰かのために、自主的に動きましたか?」
「…っ、それは…」
「日下部先生の足を引っ張って欲しい…と、漏らした人がいますね」
確信的に言う山岡に、麻酔科医はフルフルと小さく首を振りながら、新しい涙をポロポロと流した。
「どうせベッドでの睦言で済まされるだろ…」
「多分」
「明確なことは何も指示してないだろうし。こいつが勝手に考えてやった」
「そうなるでしょうね」
決して尻尾を掴ませることなどないだろう土浦を思って、山岡は諦めたように微笑んだ。
「もういいです。患者さんは無事だから」
それが守れたのならもういい、と呟く山岡に、日下部の方は簡単に許せなかった。
「お咎めなしかよ?」
「それはこの人が一番よくわかっていますよ」
少し寂しそうに呟く山岡は、きっとこの麻酔科医は医者をやめてしまうんだろうな、と泣きそうな思いで考えた。
「また、オレのせいでこんなこと…」
「山岡、それは違う」
「はぃ…」
「そそのかした土浦が悪い。それを思い留まらなかったこいつが悪い。心の弱さに負けた、本人が悪い。山岡じゃない」
「っ…ん。元は…オレが恨まれてなければ、起こらなかった、と思うんです…。だけどきっと、日下部先生が言うのも正しい…」
「あぁ」
「最後に選んだのは、この人だから…。それはきっともう、オレのせいじゃない…」
たとえ、土浦が仕掛けたとしても。それを実行に移した弱さは、本人のものだ。
山岡は何をしかけられても揺るがない強く真っ直ぐな日下部を見て、それをようやく理解していた。
「悪意に、自分の正義を貫けないことの責任は、自分の中だけにある」
スッと強い光を目に宿して、静かに言った山岡は、そのままもう麻酔科医に目を向けることなく、その場を黙って去って行った。
「ふふ、俺が選んだやつは、いい男だろ?」
悪戯っぽく笑った日下部は、最後にチラッと麻酔科医を一瞥して、やはりもう見向きもせずに山岡の後を追って行った。
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