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第95話

そんな事件があった数日後。 その間は特に何もなく、一見穏やかで平和な日々が流れていた。 「川崎さん、明日いよいよ退院ですね」 ふと、川崎の病室を訪れていた山岡が、嬉しそうに微笑んでいた。 「うん。まぁ、色々不安はあるけど、ひと段落かな」 「ですね。まぁでも今後も外来に通ってもらうことにはなりますけれどね」 「当分縁は切れないな」 ははっと笑う川崎は、当初と比べて大分元気を取り戻していた。 「ではまた。明日はお見送りに来ますね」 ニコリと微笑む山岡に頷いて、川崎はプラプラと手を振った。 その夕方、やはり仕事が立て込んでいるという日下部が残業すると言うので、特に仕事の溜まっていない山岡は、1人で先に帰ることにした。 「悪いな、ここのところ」 「いえ、仕事ですから」 「まったく、原も熱心なのはいいけど、こっちのペースも考えてくれ、って思うよ、さすがに」 はは、と笑う日下部だけれど、言葉ほどそれを厭っている様子はない。 「本格的に外科医目指すんですかね?」 まだまだ専門の科を選んでいる途中の段階の研修医を思い浮かべ、山岡がコテンと首を傾げている。 「どうだか。聞いてみたことあるけど、おれはマルチになんでもこなす医者になります、とかわけのわからないことほざいてたよ」 「マルチ…ですか」 「あの性格でそれを目指したら、全部中途半端で、何1つ大成しないと思うんだけど」 どう?と意地悪く目を細める日下部に、山岡はふわりと笑ってしまった。 「確かに、何か1本に猪突猛進、ってタイプですよね」 「だろ?あのど直球は、1科に絞って専門医目指した方がものになると思う…」 ま、個人の希望が最優先だけどな、と笑う日下部は、それなりに原を気に入っている様子が山岡には見えた。 「ふふ、日下部先生は、原先生のこと好きなんですね」 「は?」 「本当、いいコンビですよね」 「喧嘩売ってる?」 「え?いいえ?羨ましいな、と」 ニコリと微笑む山岡に毒気を抜かれ、日下部は思わず苦笑を漏らしてしまった。 「でも俺の一番のお気に入りも、一番尊敬している医者も、一番側にいたいと思うのも、全部山岡だよ」 「っ…」 「俺が惚れたのは、この手だけだ。他の医者になんか目移りしない。この手が一番だ」 「ちょ、また、そんな…」 恥ずかしいことを、と顔を赤くする山岡に微笑んで、日下部がその頭をポンポンと叩いた。 「まぁ、原は原でいい医者になりそうだけれどな」 「はぃ…」 「じゃぁ、気をつけて帰れな。夕食、ちゃんと食べろよ?」 「はぃ」 相変わらず、食にうるさい日下部に頷いて、山岡は支度を整え、帰路についた。 そうして山岡が病院を一歩出たとき、それは起きた。 「えっ…?」 突然、グイッと物凄い力で身体が引かれ、人気のない建物の影に引っ張って行かれた山岡の身体。 最悪なことに周囲に他の人の気配がない。 「嫌…っ」 放せ、と暴れる山岡だけれど、一般的な成人男性より華奢な山岡は、腕に覚えがあるらしい相手にまったく敵わない。 それどころか、2つに増えた拉致者の手が、山岡の口元に何かの布を押し付けてきた。 「っ…」 まずい、と思う山岡は医者だ。麻酔薬が沁み込まされていることを瞬時に理解し、極力息を吸い込まないようにする。 (少しくらい吸っても気絶なんかしない…) ドラマや映画ではないのだ。布につけられた少量の麻酔薬など、続けて何分間も吸い込み続けなければ気を失うことなどないと医者の山岡は知っている。 だから断続的に少しずつだけ呼吸をして、どうにか拘束から逃れようと身を捩る。 けれど一向に相手の力が緩まない。 「っ…」 どうしよう、と困惑したのは一瞬で、次にはチクッと腕に走った痛みに気付いていた。 (う、わ…。注射か…。まさか、筋弛緩剤?こいつら、医者…?) ガクンと力の抜けていく身体を感じ、山岡はぼんやりと、拉致相手の手に落ちていく自分を感じていた。 「た、すけ…ち、ひろ…」 声を出せたのかどうかすら定かではない。ただ、ガクッと崩れた体が軽々と担ぎあげられ、そいつらが用意していたらしいバンに詰め込まれていく自分の身体を、呆然と理解していた。

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