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第98話

そうしてどれくらいの時間が経ったのか。 コツコツと、地下への階段を下りてくる足音が1つ、聞こえてきた。 「山岡…?」 「ふふ、ちゃんと1人で来たわね?」 革靴の足が見えて、土浦がクイッと男の1人に顎をしゃくった。 素早く階段の方に走った男が、恐る恐る下りてきた日下部を瞬時に捕まえた。 「っ!…貴様っ…」 日下部は山岡ほど鈍くはなかった。 すぐに反撃に繰り出される足を、男が間一髪で受け止める。 その様子を見た土浦が、山岡がいるテーブルの側から、不意に声を飛ばした。 「大人しくして。さもないと、山岡泰佳が痛い目にあうわよ」 ふふ、と笑った土浦の声に、ピクッと反応した日下部の動きが止まる。 その瞬間を逃さず、日下部を捕まえに行っていた男がロープを取り出し、日下部の手を後ろ手に、足を揃えて1括りに結んでしまった。 そのせいで歩けなくなってしまった日下部を、引きずるようにして男が中へ連れてくる。 山岡たちとは大分距離を取った床に、日下部は膝をつくように跪かされた。 「っ、日下部先生…」 その可哀相な姿を見た山岡の目が、一瞬辛そうに揺れる。 反対に日下部は、見た目には何の危害も加わっていなそうな山岡の姿を見て、ホッと安堵していた。 「山岡、大丈夫?」 「はぃ、オレは…」 コクン、と頷く山岡を見て、日下部が土浦に視線を移す。 「麻里亜先輩…こんな真似をして…」 ギリッと憎しみを向ける日下部の視線を、土浦は平然と受け止めた。 「ふふ、話があるのは、あたしじゃないわ。山岡先生のほうよね?」 スッと日下部の視線を躱し、山岡に向かって微笑んだ土浦に、山岡がコクンと頷く。 つられるように山岡に視線を戻した日下部は、山岡が前髪をスルリと上げ、それはそれは綺麗に微笑んだのを見た。 「オレと別れてください、日下部先生」 ニコリ、と誰もが見惚れてしまいそうなほど、美しい山岡の笑みだった。 一瞬ボウッと見惚れた日下部だが、その言葉にすぐに正気を取り戻す。 「山岡?何言って…」 「オレと、別れてください」 真っ直ぐに繰り返した山岡に、日下部の目が疑問に揺れた。 「脅されているのか…?」 他に突然山岡がそんなことを言い出す理由に心当たりがない。 山岡はふわりと微笑んで、軽く首を傾げた。 「オレの意志です」 キッパリ。少しも揺れない山岡の声に、日下部の視線の方が頼りなく揺らいだ。 「嘘だ…」 「嘘じゃありません。オレは、オレの意志で、あなたと別れたい。そしてこの人に抱かれます」 ニコリと微笑んだ山岡が、スルリと服を脱いだ。 「何して…っ、山岡っ!やめ…っ」 「……」 日下部の叫びにゆっくりと首を振った山岡が、上半身を目の前のテーブルに預ける。 後ろに突き出した尻の後ろに、先ほどのもう1人の男が立っている。 「山岡っ!」 日下部の怒声にも、山岡は怯まなかった。 チラリと後ろに視線を流し、早くやれと男を促す。 「好きなように抱いていいですよ」 ふっと笑った山岡は、全身から力を抜いて、静かに目を閉じた。 黙って山岡に近づいた男が、指を軽く舐め濡らしただけで、山岡の後ろに触れる。 「っ…う」 ズブッとまったく滑りの足りないそこに指を突きたてられ、山岡の身体が痛みと恐怖にビクリと竦んだ。 「っ!やめろっ!やめろっ…俺のだっ。触るなっ!山岡っ…やめさせろっ」 縛られて自由にならない身体を必死に揺さぶり、日下部が山岡の元へ近づこうともがいている。 けれど、そちらはそちらで身体を押さえつけている男がいるため、まったく思い通りにはならない。 そうしている間にも、山岡の胸元に差し込まれた男の手がそこの突起を弄び、もう片方の手はペニスを扱き上げている。 嬌声とは程遠い、けれど愛撫に反応はしている吐息を山岡は漏らしている。 「っ…ふ…」 「やめろ!やめろぉぉっ!おい、土浦っ、やめさせろ!あんなの、あんなの山岡の意志であるはずがない!」 「ふふ、そうかしら?」 「山岡があんなこと言い出すわけがない。するわけがない!何をした。あんた山岡に何をしたんだよ!」 愛する男が目の前で別の男にいいようにされていくことに苛立ちながら、日下部は矛先を土浦に移し叫んだ。 けれども土浦も余裕の表情をわずかも崩さず、叫び暴れる日下部を可笑しそうに見下ろす。 「山岡泰佳が選んだのよ?利き手を潰す、って言ったら、あっさりあなたと別れることを選んだわ」 ほほほ、と勝ち誇ったように笑う土浦に、それを聞いた日下部の心が、怒りに燃えた。 それは、別れを選んだ山岡に対してではない。 「おまえ…」 ずし、とドスがきいた、地底から響いてきそうな日下部の呻き声だった。 ピクンと土浦の肩が揺れる。 「許さない…」 「ふふ、それは、山岡泰佳を?医者であることを選んで、あなたをあっさり捨てたあいつを?そうでしょう?あなたの信じた愛は、しょせんその程度なの。山岡泰佳に、あなたへの愛なんて存在しないわ。あったとしても、医者という仕事に…その大事な利き手に負ける程度のものよ」 高慢に笑う土浦に、日下部はフッと小馬鹿にしたような笑い声を漏らした。 「あんたは可哀相な女だな」 「なっ…」 「その取り引きで、やっと意味がわかった。やっぱり山岡は、俺を裏切ったりしない。好きであんなやつに抱かれようとなんかしない」 「なにを…」 「あんたは愛を否定したくてやったみたいだけどな、やっぱりあいつは、俺を愛してる」 ふふん、といつの間にか完全優位な態度を取り始めた日下部に、土浦の目が動揺を映した。 「なんなのよ…。だって現に、利き手を守るためにあいつは…」 「そう、利き手を守るため」 「な、によ…?」 「あんたが知るわけないんだけどな。俺が、一番初めに山岡に惚れたのは、何だと思う?」 「え…?」 「あの、手だよ。驚くほど正確に、繊細にオペを行う、あの右手に惚れた。真っ直ぐ真っ直ぐ人の命を掬い上げるためだけにある、山岡の手に惚れたんだ」 フワリ、壮絶に魅力的な笑みを放った日下部に、土浦の足がフラリともつれた。 「あいつが何より一番守りたいのは、医者としての自分だと本気で思ったのか?」 「っ…」 「あいつが守りたいのは、人の命だよ」 「っ!」 揺らがず、ぶれず、真っ直ぐ言い放つ日下部に、土浦がカクンと膝を折った。 「そんな山岡だから、俺は愛したんだ」 「っ、それ、は…」 「うん。だから山岡は、全力で俺の愛に応えるんだ。俺を、愛してくれているから」 ふっと気高く笑った日下部に、土浦の全身からとうとう力が抜けて、ドサッとその場に座り込んでしまった。 「どうして?どうしてなの…?」 「ん?」 「ただあたしは…あたしも、愛が、欲しかっただけなのよ…」 スゥッと土浦の目から伝い落ちた涙が、パタパタと埃っぽいコンクリートの床に散った。 「うん…」 ポツリと呟いた日下部の声に、土浦がポロポロと泣きじゃくり、床にいくつもの染みを作って行った。 「俺たちは、あの頃、それを言うべきだった」 「っ…日下部くん…?」 「互いの家族にさ、ぶつけるべきだったんだ。そして、互いにも」 「っ、そ、んな…」 「うん。欲しいくせに、目を背けて突っ張るだけじゃ手に入らないことを、俺は知ったよ?」 「っ、それは…」 「うん。山岡に惚れて、愛を求めて与えて…そうやって行動すること。今の幸せを知って、俺にはわかったんだ」 「っ…」 「もっと早く気付いていたら、俺たちは間違えずに済んだかな?愛はな、自分で求めないと、手には入らないんだ」 ふわりと笑う日下部に、土浦の目が完全に敗北に染まった。

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