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第103話

「退院おめでとうございます」 「ありがとう」 ニコリと微笑んで頭を下げる山岡の前に、同じく晴々と微笑んでいる川崎。 そして何故か山岡の後ろには、山岡の背中を支えるように嘘くささ全開の笑顔の日下部が立っていた。 「あの…日下部先生。外来は?」 ジトーッと後ろを振り向いて、山岡が呆れた声を出している。 「ん?あぁ、原先生が、勉強のためにど~しても代診入りたいって聞かないから、30分だけ預けてきた」 ニコリ。完全に作り物の笑顔を浮かべている日下部に、山岡が長めの前髪の間から、胡乱な目を向けた。 「無理矢理押し付けて抜けて来ましたね?」 何やってるんですか、もう…と呆れる山岡に、日下部は綺麗な笑みを崩さない。 「だって山岡先生が他の男と浮気しそうになっているから、見張っておかなくちゃ」 ニコリと、公衆の面前で平気でとんでもない発言をする日下部に、さすがに山岡がワタワタと暴れた。 「なっ…なにを言って…」 そんな2人を、川崎が思い切り苦笑して眺めていた。 「退院の日まで見せつけて下さらなくていいですよ、先生方」 半分呆れ、半分からかうように言う川崎に、山岡がカァッと顔を赤くして固まり、日下部がそれはそれは得意げな笑顔を浮かべた。 「本当、山岡先生のことになると、あなたは子供ですか…」 「ふふ、何とでも」 「また可哀想に…」 山岡がとても怠そうに身体を引きずっていることも、微妙に目を泣き腫らしていることにも気づいている川崎が苦笑する。 「だからこうしてフォローに来てるんですよ」 クスッと笑う日下部に、川崎はどうあってもこの人のペースは崩せないな、と苦笑を深くした。 「あ、あのっ…です、ねっ…」 何故か日下部に会話を持っていかれそうになっていた山岡が、慌てて2人の間に割り込んだ。 「あぁ、山岡先生。うん。ありがとうな。約束、果たしにわざわざ来てくれたんだろう?」 ふと、山岡に向き直った川崎が、ニコリと笑った。 さすがに日下部もそれを邪魔する気はないのか、静かにスッと身を引くところが、やっぱり出来る男だ。 「っ…覚えて…?」 「当たり前だろ?まだ、完治退院ではないけれどな。それでも嬉しいよ」 「はぃ。オレも嬉しいです」 少し照れくさそうに微笑む山岡を、川崎は誇らしそうに見つめた。 「じゃぁそろそろ行くな」 「はぃ」 「ありがとう」 「っ…」 ふわりと微笑んだ川崎に、山岡の目が微かに潤んだ。 タイミング良くスッと腰を支えた日下部に気づいて、川崎はそのまま一礼して背中を向ける。 ゆっくりと去って行くその後ろ姿を見送り、山岡がクタッと日下部に寄りかかった。 「大丈夫?」 「あ、すみません…」 こんなに人目があるところで、こんな風に身体を預けてくるとは。山岡がかなりしんどいのだと知れて、日下部はさすがに苦笑した。 「だから休めって言ったのに…でも、約束って?」 山岡がどうしても見送りに拘った理由がそれかと察し、日下部は小さく首を傾げた。 「っ…はぃ…。本当に、他愛もない口約束なんですけど…」 「うん」 「昔…やっぱり同僚だった人が病に倒れて…オレたちが見送ったんです」 「うん…」 「窓のない部屋から…」 ストンと俯く山岡の言葉の意味は、日下部にはちゃんと分かった。 「そう…」 「そのとき、何気なく約束したんですよね。もしどちらかがいつかお世話になるときがあったら、必ず正面玄関で見送りましょうって。霊安室へ送るエレベーターの前でなんか頭を下げない。裏口から静かになんか見送らない。笑っておめでとう、ありがとうって…。絶対絶対約束しようって…」 それがそのときの感情に振り回された、深い意味のない口約束だとはわかっていた。 だから本当にどちらかがどちらかの主治医になる日が来るとは思っていなかったし、それが絶対などと言えるほど、互いが腕を驕っていたわけでもなかった。 「でも、守れた…」 ポツンと呟いた山岡の、川崎との絆の深さを感じ、日下部は少しだけ妬きもちを感じた。 「そっか。良かったな」 ポンッと頭を軽く撫でた日下部に、ふと顔を上げた山岡が、それはそれは嬉しそうに微笑んだ。 「はぃ」 「やっぱり浮気かな」 「えぇっ」 「嘘うそ、冗談。だけど少しだけ羨ましい」 「日下部先生が?」 「うん。俺がどれだけ頑張っても、もう山岡の過去には入り込めない」 だから当たり前のようにその中にいる川崎が、思っても仕方ない思いだとはわかりながらも、羨ましく思ってしまうのをどうしようもなかった。 「日下部先生…」 「はは。本当、川崎さんじゃないけど、山岡のことになると、俺は理性が働かなくなるらしい」 タイムマシンにでも乗って、山岡の過去に存在して、それすら独占したくなるなんて、子供でもわかる夢物語を本気で描きそうになる。 「日下部先生。今週の日曜、お暇ですか?」 不意に、山岡が脈絡なく言い出した。 「え?日曜?空いているけど」 「その日1日、オレにもらってもいいですか?」 ジッと日下部を見つめる山岡に、不思議に思いながらも日下部は頷いた。 「いいけど」 「付き合ってもらいたいところがあるんです。一緒に行ってもらえませんか?」 ニコリと微笑む山岡に、日下部はふわりと笑顔を浮かべた。 「デートのお誘い?喜んで」 「でっ…、い、いえ、そんないいものではないんですけど…お墓に…」 少し困ったように目をフラつかせた山岡に、けれど日下部はパッと嬉しそうに顔を輝かせた。 「山岡氏の?」 「はぃ。ちょっと遠いんですけど…」 駄目かな?と上目遣いに見上げてくる山岡に、日下部は愛しさが込み上げて、ここが衆人環視の病院エントランス内だということも忘れ、思わず抱きしめそうになった。 「行くよ、喜んで。ぜひ連れて行って」 「まったく面白くないですよ?」 「うん。でも嬉しい」 「過去はもう変わらないけど、オレの未来を一緒に歩く人を…山岡さんに見せたいな、って」 少し照れくさそうに微笑んだ山岡に、日下部は内心飛び跳ねそうに喜んだ。 「山岡っ」 「はぃ?」 「今すぐ当直室行って抱きたい」 「え?」 「嬉しすぎてどうしようか」 ニコリと満面の笑みを浮かべる日下部に、山岡は半分本気を感じ、ゾッとしてソロソロと身を引いた。 「な、なに言ってるんですか…?あっ、ほら、日下部先生、外来サボっているんでしょう?原先生がきっと困っていますよ。早く戻ってあげないと…」 慌てて言う山岡にも、日下部の笑顔は揺るがない。 「大丈夫。なんならこのまま、午前中いっぱい代診させる」 「ちょっ…さすがに職権乱用し過ぎですって」 「じゃぁ代わりに原が外来の日に俺が代診入るってことで」 ああ言えばこう言う、の典型な日下部に、山岡が困って目を泳がせた。 ちょうどそこに、救急車の音が聞こえてきた。 「あっ、救急車。急患、うちかもしれませんよね?オレ、待機してないと」 PHS鳴れ~、と念を込める山岡に、さすがに日下部が苦笑した。 「その身体でオペ立たないでくれる?」 「っ…じゃ、じゃぁ、その身体をさらに抱こうとしないでください」 カァッと顔を赤くしながらも、至極真っ当な反論に出た山岡に、さすがに日下部が、可笑しそうに笑った。 「言うね。でも俺の負けだ」 ホールドアップの姿勢を取った日下部に、山岡がようやくホッと息をついた。 「クスクス。仕方がないから、外来戻るか」 「仕方がないって…」 「山岡先生はぜひ病棟でゆっくり休んでてな。厄介なの来たら呼べよ?」 「オレに無理だと判断したら、お願いします」 ペコンと潔く頭を下げる山岡は、決して自分の体調や腕を過信しない。 必ず最優先で患者の命を考える。 「ん。じゃぁさっさと外来さばいてくるから、また昼な」 「はぃ」 ニコリと笑った山岡に見送られ、日下部が少し足早に外来診察室の方へ去って行った。

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