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第120話

そうしてこちらは、更衣室から全力ダッシュをし、日下部から逃げてきた山岡が、外来診察室に向かっていた。 「はぁ。嘘、ついちゃった…」 咄嗟に口から出てしまった嘘に、今になって後悔と困惑をしていた。 「どうしよう、オレ…」 ぼんやりと考えながら歩いていた山岡は、診察室裏のバックヤードで器具の準備をしていた看護師とぶつかってしまった。 「わっ…」 「え?あ…」 ガッシャーン! 金属のトレーごと、上に乗っていた様々な器具が派手な音とともに床に散らばった。 「っ、す、すみません、オレ。ボーッとしてて…」 「あ、いえ。大丈夫です。私、拾っておきますので…」 「本当にすみません…」 ペコンと深く頭を下げる山岡に苦笑して、ぶつかられた看護師が床に散らばった器具を拾おうとしゃがみ込んだ。 「診察時間ですから、先生はいいですよ」 早く行ってください、という看護師に再度謝って、山岡は診察室内に入って行った。 (はぁ…。駄目だ、駄目だ。切り替えて仕事はちゃんとしないと。私情でミスなんて許されない) グッと腹に力を入れた山岡は、必死で日下部とのことを頭から追い出し、診察する時の椅子についた。 「あ、山岡先生、おはようございます。今日3番担当です、よろしくお願いします」 担当についてくれる看護師が顔を覗かせ、何冊かのカルテを持ってきた。 「あ、はぃ。よろしくお願いします」 カルテを受け取りながらペコと頭を下げた山岡は、ふとその中に川崎彗河の文字を見つけて、ビクッと手を震わせた。 「あっ…」 「っ…」 山岡が受け取り損ねたカルテが、バサバサと床に落ちる。 渡し損ねた看護師が慌ててしゃがみこんだ。 「すみません」 「いえ…オレが悪いです、すみません…」 山岡も椅子から立ち上がり、慌てて散らばったカルテを拾い始めた。 「はぁ…っ」 「山岡先生?調子悪いんですか?」 思わず溜め息をついてしまった山岡を心配そうに見た看護師に、山岡はハッとして慌てて首を振った。 「だ、大丈夫です、すみません」 今日は朝から謝ってばかりだな、と思いながら、山岡はどうしても考えずにいられない昨夜から今朝までの全ての出来事に振り回されていた。 そんな絶不調の中、診察が開始された。 とりあえず予約患者の1人目を無事にさばいた山岡は、カルテの2番目にあった人の名前を呼んだ。 「おはよう、山岡先生」 ノックの後にヒョコッと診察室に入って来たのは、先日退院した川崎だ。 「おはようございます、川崎さん、どうぞ」 微妙に覇気のない声で椅子を勧めた山岡に頷いて、川崎はストンとそこに腰を下ろした。 「えっと、その後、どうですか?」 「うん、なんとか食事にも慣れてきて、そこそこ順調にやってるよ」 「そうですか。何かお困りのことは」 「今のところ特に」 「今日は採血して、マーカーとその他の数値を確認しますね」 「うん」 カタカタとパソコンを弄りながら話す山岡をジッと見て、川崎がわずかに眉を寄せた。 「山岡先生、何かあった?」 不意に尋ねてきた川崎に、山岡の身体が明らかにビクッと硬直した。 「な、なにかって…オレは別に…」 「嘘。すぐわかるよ、山岡先生、分かりやすいもん」 クスクス笑う川崎に、山岡の顔色があからさまに悪くなっていった。 「オレ、そんなに分かり易いですか…?」 「まぁ、付き合いの長さも関係あるかもしれないけれど…」 「っ…」 「でもそれって、何かあったって白状してるよね。おれで何か協力できることはある?」 ん?と首を傾げる川崎に、山岡はわずかに考えた後、小さく頷いた。 「あの…。聞かれることなんてないと思うんですけど…。もし日下部先生に何か聞かれたら、昨日の夜、オレは川崎さんの家に泊まったことにしておいてください…」 ストンと俯きながら小声で言った山岡に、川崎の眉がひそめられた。 「昨日?なに?アリバイ工作ってこと?」 まぁ嘘の所在地を答えろ、と言ったも同然の山岡に、川崎の顔がいよいよ不審なものに変わった。 「っ…オレ…」 ギュッと歯を食いしばって震える山岡を見て、川崎はゆっくりと息を吐いた。 「まぁ、おれは頼まれれば別にそう証言するけど。もちろん、本当は何があったかも聞かないし」 「っ…」 「山岡先生はそれでいいんだね?」 微妙に良心が揺れている山岡に気づきながら、川崎は念を押した。 「っ…はぃ」 ギュッと何かを堪えるように一瞬目を閉じた山岡が、結局はっきりと頷いた。 「そう、わかった。おれがそうすることで山岡先生に協力できるんだったら、何でもするよ」 任せて、と笑う川崎に、山岡はフラリと目を揺らした。 「それじゃぁ、おれはもういいのかな?」 「っぁ…さ、採血室に…」 「うん、わかった。…ねぇ山岡先生。困ったことあったら、いつでも言ってな。おれはいつでも山岡先生の味方だよ」 ニコリ、と笑って椅子から立ち上がる川崎にコクンと頷いて、山岡はスッと再び机の上に視線を落としてしまった。 サラサラとカルテに何かを書き込む山岡をチラリと見て、川崎は静かに診察室を出ていった。 パタン、と閉まった診察室のドアの音を聞いて、山岡がコトンとペンを置いた。 そのまま両肘を机につき、ガバッと頭を抱える。 「オレ…川崎さんにまで嘘をつかせる…。っ、なに、やってるんだろう…」 うぅ、と呻きながら、机に突っ伏して頭を抱える山岡のもとに、バックヤードから看護師が不意に入って来た。 「山岡先生?どうしました?頭、痛いんですか?」 「っ、オレは…最低だ…」 うーっと机に突っ伏す山岡に、看護師がオロオロした挙句、他の看護師を呼ぼうと身を翻した。 「っ、待って!」 それに気づいた山岡が、慌てて看護師を呼びとめた。 「大丈夫ですから、すみません。えっと、採血オーダー受付に回したので出力されたら患者さんに。次の方、呼びます」 パッと机から起き上がり、必死で背筋を伸ばした山岡に、看護師はわずかにホッとしたあと、指示に頷いた。 山岡は机の上のスイッチに手を伸ばし、次の患者を診察するべく、その名前をマイクで呼んだ。

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