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第144話

「っ…まずい、寝ちゃった…」 ふと目を覚ましたら、もう朝だった。 慌てて取り出した携帯の時計は午前5時半。 「シャワー浴びて支度しなきゃ」 ガバッとソファから起き上がった山岡は、フラフラと浴室に向かった。 「まだ痛い…。お腹空きすぎかな?」 止まずに続くお腹の痛みに首を傾げながら、山岡は熱いシャワーを浴びて、着替えをしてから、キッチンに向かった。 冷凍庫の中から、日下部がいないとき用にと作り置きしてくれてある食料を取り出す。 レンジで温めれば食べられるようになっているそれを、ありがたくいただく。 あまり食欲がないけれど、何とかそれをお腹に入れた山岡は、洗い物を済ませて病院に向かった。 「あっ、山岡先生、おはようございます」 「おはようございます…」 パタパタと病棟の廊下を早歩きしていた看護師が、奥の個室に向かって行った。 「ん?」 ざわめく空気で、何かあったのだとすぐにわかる。 山岡は、とりあえず鞄を置いてから聞いてみようかと更衣室に足を向けたところで、患者の家族がバタバタと奥の個室に走って行くのを見た。 「あ…」 そういうことかとすぐにわかった。 (この時間じゃぁ日下部先生か。朝から嫌だろうな…) ズシンと気分が重くなったと同時に、吐き気が込み上げてきた。 「う…」 まずい、と思った山岡は、急いで近くの病棟のトイレに駆け込んだ。 個室に入った山岡は、吐き気に押されるまま、ゲホゲホ吐いた。 朝食べたものはほぼ全部戻してしまった。 「あ~?本気で胃腸炎?時間空いたら診てもらおうかな…」 相変わらずお腹は痛いし、嘔吐は深刻だ。 「はぁっ…」 この忙しいのに、体調を崩している場合じゃないよな、と思いながら、山岡はトイレを出て更衣室に向かった。 途中ナースステーションで、看護師が見送りの準備をしているのと、奥の廊下で家族が泣いているのを見た。 「日下部先生は医局か…」 最近は葬儀屋も決まっている人が多く、送り出すまで長く病院に留まる人は少ない。 死亡診断書もすぐに発行することになるため、きっと今は作成中だろう。 「会わずに外来行こう…」 多分1人になりたい、と思う山岡は、更衣室に鞄を置いて白衣に着替え、そのまま外来に下りた。 そうして外来診察を始め、とにかく患者をさばきまくった山岡。今日もなかなか大盛況だったが、それなりのペースで診察が進んだ。 そんな中、どんどん痛みが増していくお腹に、山岡はさすがにまずいと思い始めていた。 痛すぎて冷や汗まで出てくる。 「っ…あと30分か…」 チラリと見た時計は、正午まであと少し。診察待ち人数は予約が3。 「ごめんなさい…初診さん、隣に回してもらっていいですか?調子悪い…」 痛たた、と机に突っ伏しながら、山岡が担当看護師にお願いした。 「大丈夫ですか?山岡先生…」 心配そうな看護師に頷いて、何とか身体を起こす。 「予約の3人だけなんとか診ます…」 大丈夫、と青褪めた顔を微笑ませる山岡に、看護師は頷きながらカルテを差し出した。 そうしてどうにかこうにか診察を終えた山岡は、絶え間なく襲ってくる腹痛に、診察椅子に座ったまま動けなくなっていた。 「まずいこれ…」 徐々に下へ、右へと移動してきた痛みに、たまらない吐き気。微熱が出ているのか怠い。 山岡は自分の症状が胃腸炎なんかじゃないことに、さすがに気づき始めた。 「っ…日下部先生…」 どうしよう、と思ったのは一瞬で、すでにポケットから取り出したPHS。 プッシュする番号は日下部のPHS、と、ボタンを押そうとしたとき、バサッとバックヤードに続くカーテンが開いて日下部が飛び込んできた。 「山岡先生、大丈夫っ?」 「え…?日下部先生?」 「お昼にしようと迎えに来たら、看護師さんが山岡先生が調子悪いって…どうした?」 青い顔で呻く山岡を見て、さすがに日下部も慌てた。 「お腹痛い…」 机に突っ伏してしまいながらボソッと言う山岡を、日下部は急いで抱き上げた。 「は?え?ちょっ…」 「ストレッチャー持って来て!」 バックヤードに向かって叫びながら、すでにそちらに歩き始めている日下部。 看護師がすぐに押して来たストレッチャーに山岡を寝かせ、お腹に手を当てる。 「ここ?」 「っ…ちが…」 「こっち?ん?」 「っ、たぁっ!痛ぁ、痛い痛い痛い…」 右脇腹を押されて叫んだ山岡に、ギュッと日下部の眉が寄った。 「反跳痛・・・。他は?」 「吐きました…」 「いつ?」 「朝…」 ボソッと言った山岡に、日下部が小さくため息をついた。 「右下腹部の痛みに嘔吐?で?」 「昨日は胃かと…ずっと痛い…」 「みぞおち付近から移動して、今は右下腹部痛?っていうかさ、そこ、マックバーニー点。嘔吐に、反跳痛。食欲は」 「ありません…」 問診、触診の挙句、日下部は痛みに呻く山岡に呆れた目を向けた。 「おまえ、消化器外科医だよな?」 「っ、はぃ…」 「これだけ典型的な自分の症状、何かわからないわけないよな?」 「はぃ…」 はぁっと溜息をついた日下部が、心配そうに様子を見ていた看護師を振り返った。 「すぐに採血。あとUS(超音波検査)空いてるか確認して、ねじ込んで」 ピッと指示を出した日下部に、看護師は素早く動いた。 「うぅ…痛い…」 ストレッチャーに寝転んだまま、身体を丸めて唸っている山岡を、日下部が見下ろす。 すぐに採血セットを持ってきてくれた看護師からそれを受け取り、日下部は山岡の腕をまくった。 「アルコール大丈夫?」 「はぃ…」 「血とるよ」 「うぅ…針やです…痛い。絶対痛い」 日下部が持った真空採血管と針を見て唸る山岡に、日下部がさすがに呆れた目を向けた。 「子供か…。ほら、馬鹿言ってないで…」 人には平気で刺すくせに、自分がされるのは嫌だというのはよくある話。ましてや痛みにすごく弱い山岡を知っている日下部は、注射を嫌がるのも理解はできる。 けれど今はそんなことを言っている場合じゃない。 「うぅ…」 山岡の苦情を無視して、パチンと医療用手袋をした日下部は、駆血帯を巻き、ススッと血管を探る。 「ん、採りやすそう」 太目で真っ直ぐな血管を見つけた日下部が、その部分を消毒し、迷わずスッと針を刺した。 山岡の身体がピクッと震える。 「力抜け。拳開いて…。指先痺れてないか?」 「大丈夫です…」 「ん…」 真空採血管をセットして、スーッと血が流れていくのを見つめる。 「気分は?」 「大丈夫です…」 「ん。オッケー」 必要量が採れたのを見て、日下部は駆血帯を外し、針を抜いた。 「ちょっと押さえてろ」 アルコール綿を山岡に持たせ、軽く振った管を看護師に渡す。 「悪いけどラベル出して貼って、すぐ検査室回して」 「はい」 そうして山岡に向き直った日下部は、アルコール綿をどかし、小さな四角い絆創膏を貼った。 「う~、痛い…」 お腹、と涙目になっている山岡を見て、日下部は苦笑した。 「結果出るまでかかるかもな~。まぁ、時間が時間だし、そこまでは待たないだろうけど…」 「痛い~」 グズグズとぐずっている山岡に苦笑しつつ、日下部は少し苛ついていた。 「日下部先生?」 「ん?」 「怒ってます?」 わずかに漏れる日下部の苛立ちを感じ取ったのか、山岡が痛みに顔を歪めながらも日下部を心配そうに窺った。 「まぁ、苛立ってはいる」 「ごめんなさい…」 「え?山岡にじゃないよ。俺に」 「え…?」 「なんで気づいてやれなかったかな、と」 フッと自嘲気味に笑う日下部に、山岡は小さく首を振った。 「無理ですよ…。本人のオレが、ちょっと疲れで胃に来てるくらいにしか思ってなかったんですから…」 はは、と笑う山岡の声は、痛みのためか力無い。 「昨日の帰り、山岡の顔色が悪いことに気がついたのに。俺もそうやって軽く考えたのが悔しい。もっとちゃんと話聞けば良かった。ちゃんと診てやれば良かった。俺は医者なのに」 体調が悪いとわかっている人間を目の前にして、何の策も講じなかった。それが日下部は悔しいのだ。 「うぅ…それを言われてしまうと、オレ、居た堪れないんですけど…」 「ん?」 「だってオレこそ医者なのに…。症状、医局を出た後も、夜も朝も今までずっとあったのに…自分の身体が一生懸命訴えている声を、全部無視してしまいました…」 医者失格でしょう?と苦笑する山岡の頭を、日下部はコツンと叩いた。 「確かにそれはな。今思えば、とかいう言い訳は通用しないわな。何せおまえは消化器外科の専門医だ」 「っ…はぃ」 「この症状がなんだ?胃腸炎か?誤診もいいところだぞ」 これまで我慢したところを見ると、その程度だと思っていたことを想像するのは容易い。 ずばり見破られ、山岡がフラフラと視線を彷徨わせた。 「元気になったらお仕置きだな~」 クスクス笑う日下部は、お互い自分を責めてしんみりしてしまう空気を一気に払拭した。 過ぎてしまったことをいつまでもウダウダ言っていても仕方がない。 「日下部先生、結果来ました」 ふと、バックヤードから消えていた看護師が戻ってきた。 「悪いけどプリントアウトしてくれる?」 「はい」 パソコン上でも見られるけれど、日下部は山岡にも見せたいと思った。 すぐに看護師はプリントアウトした紙を持ってきた。 「白血球…CRP…ふぅん。ほら」 数値を見た日下部が、薄く目を細めて、山岡に紙を手渡した。 「日下部先生、USもいけます」 「了解」 看護師の声に、日下部は山岡を乗せたストレッチャーを押し始めた。 「やっぱりアッペだよなぁ…」 採血結果を見ながらポツンと呟いた山岡に、日下部が苦笑した。 そうして超音波検査の機械がある部屋へ入り、ベッドに移った山岡の横の椅子に日下部が座る。 「お腹出して」 「なんか、こっちの立場、嫌です…っ、冷た!」 「無駄口聞ける余裕出てきた?」 ベッドに寝て服を捲り上げた山岡の腹に、日下部は遠慮なくジェルをつけたプローブを押し当てた。 「ズボンも少し下げるぞ?」 「はぃ…」 「ん~…ん?ん~?どこだ」 「あ、そこ…」 日下部が見ているモニターを山岡も横から見ながら、眉を寄せている。 「腸間膜リンパ節?腫大してるな~」 「う~」 「虫垂は…」 「あ、そこ、今…」 「あぁ、描出できた、これ…え~と、8.4mmか…」 ヌルヌル動くプローブにくすぐったそうにしながら、山岡も一緒になってモニターを見つめた。 「穿孔ないし、膿瘍微妙だけど…急性蜂窩織炎性でいい?」 「でしょうね…」 「オペか~。とりあえず入院な」 診断をつけた日下部に、山岡は情けなさそうに小さく笑った。 「自分とこに、自分が入院するとか、嫌なんですけど…」 病院移りたい、と嘆く山岡に、日下部のギロッと鋭い視線が向いた。 「俺以外に切らせる気?」 「っ…」 「却下」 ニコリと笑った日下部に、逆らう術は山岡にはなかった。 「日下部だけど、急患1人連れて行くから」 PHSを取り出して、病棟にかけているだろう日下部の声が響く。 山岡は痛みに呻きながら、その声をぼんやりと聞いていた。 「うん。山岡泰佳、男性。アッペ…うん。個室空けて。え?うん、そう。山岡先生」 最後はクスッと笑った日下部に、山岡は居た堪れなくて身を縮めた。

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