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第146話
コンコン。
「山岡先生?」
「……」
「おい、山岡?大丈夫か?」
「え?あ、日下部先生」
どれくらいぼんやりしていたのか、不意に目の前に日下部の顔があって、山岡は驚いて仰け反った。
「あぁ、よかった。目を開けたまま失神しているのかと思ったよ」
「あはは、そんなことないですけど」
「身体起こしてて辛くない?大丈夫?」
「えぇまぁ…。あ、オペ終わったんですね?お疲れ様です」
ニコリと微笑む山岡に、ふと日下部はその目が見つめていたものに気がついた。
「あぁ、書類?ふふ、この第一緊急連絡先、俺な?」
この欄もらった、と笑って、胸ポケットに手を伸ばした日下部が、ボールペンを取って、サラサラと勝手に自分の携帯番号を書いてしまった。
「ちょ…」
「続柄…恋人?」
「ふ、ふざけてないでください」
「え~?結構本気なんだけど。山岡の一番身近な人間だと俺は思ってるよ」
ニコリ、と微笑んでペンをしまった日下部に、山岡はストンと俯いてしまった。
日下部はそんな山岡をチラリと見下ろし、クスッと笑いながら、ポケットからあるものを取り出した。
「はい」
「え…?」
「ふふふふ、アッペと言えば、剃るだろ~?」
ニヤリ、と意地悪く笑ってシェーバーを突き出している日下部に、山岡がハッと顔を上げて眉を寄せた。
「いつの時代の話ですか…」
もう、と呆れる山岡は、日下部がわざと明るく振舞ってくれたことに気がついた。
「すみません。オレは大丈夫です」
「何が?さぁほら、ズボン脱いで」
ニコリ、と綺麗な笑みの中の、目だけがとても意地悪な光を宿している。
山岡は、オペへの不安や家族と言われて言葉に詰まった自分を、こうして自然にフォローしてくれるスマートな日下部が、やっぱり好きだなぁ、と改めて認識した。
「でも日下部先生。ここでセクハラはやめてくださいよ…」
看護師や原とか、いつ誰が入って来るかもしれない病室なのだ。
「ちゃんと鍵かけたって」
「そういう問題なんですか?」
「うん。ほら、脱いで」
「やですよ。そもそもうちはしない方針でしょう?」
この病院では、手術のためにわざわざ毛の処理はしない方向で行われている。
お互いよくわかっているくせに、ただの嫌がらせのためだけに言っている日下部は、本当に意地が悪い。
「面白くないね…」
「面白がらなくていいです、そんなこと…」
病人相手にも容赦のない日下部に苦笑しながら、山岡はふともっと重要な疑問に行きついた。
「ラパなんですか?」
「ん~?ラパロでいく?」
「オレはそのつもりかと…」
一緒にエコーを見ていた山岡は、てっきり腹腔鏡かと思っていた。
開腹も視野にいれているらしい日下部に、コテンと首を傾げる。
日下部は、フッと苦笑して、わずかに真面目な顔をした。
「山岡先生が、川崎さんのオペをしたこと…俺、尊敬するよ」
不意に、何のつながりがあるのか、ポツリと言い出した日下部に、意味を取りかねた山岡はますます首を傾げた。
「え…?」
「正直、たかがアッペだろ?それなのに、オペ前にこんなに震えるなんて初めて」
ほら、と手を差し出してきた日下部の手は、小さく震えて、とても冷たくなっていた。
「ごめん。こんな執刀医に任せられないよなぁ」
はは、と笑う日下部の手を、山岡はそっと握った。
「任せますよ。オレが天才なんだったら…そのオレが、一番信用できて、一番大好きな外科医の手が、これです」
ニコリと微笑む山岡に、日下部はヒュッと息を鋭く飲んだ。
「まったく、敵わないな…」
「日下部先生が?」
「うん。正直、怯んでた。症状もエコーもアッペだよ?多分、間違いない。けれど8割」
「ん…?」
「絶対だ、というには、腹を開けてみないことには8割しかないだろう?もし違ったら、もしもっと重度だったら、もし…って考え始めるときりがなくて」
あの日下部が。傲慢で俺様で何様な日下部が、ただ恋人が患者になっただけで、こうも脆くなるか、と思ったら、山岡は何だかとてもとても愛おしさが込み上げた。
「じゃぁオレが保証します。間違いありません。だからサクッと切っちゃってください」
大丈夫、と力強く笑う山岡に、日下部がようやくふわりといつもの強気な笑みを浮かべた。
「ん…。任せろ」
「はぃ」
ニコリと笑った山岡の口に、日下部の唇が重なる。
「んっ…」
「また1週間近く泰佳を抱けない。くそぉ。今夜楽しみにしていたのに」
チュッと音を立てて唇を離した日下部が、ニヤリと意地悪そうに口の端を吊り上げた。
「あ…そうでしたね」
「これは復活したら、覚悟しておけよ~?」
「う…」
顔を赤くして言葉に詰まる山岡を満足そうに見て、日下部がゆっくりとベッドから離れた。
「麻酔科がまだ準備整わないから、後30分後くらいになるかな」
「日下部先生、大丈夫ですか?少しでも休んでいてください」
日下部の白衣の下は緑の術衣のままで、連続オペだということを認識する。
「まぁ大丈夫だけど、準備もあるし、少しそうする」
「はぃ」
「んじゃ、ラパロで全麻な。説明いる?」
「いいです」
いらないよな?と笑う日下部に頷いて、山岡も笑った。
「んじゃ同意書書いといてな」
「はぃ。…あの」
「ん?」
「もしも、もしもですよ?何かあったら…」
「なにもないよ」
山岡の言葉の意味を察し、日下部が遮るように口調をきつくした。
「ゼロとは言えません。でもそのときは…千洋に全部任せます」
「っ…」
「オレの一番身近な人でしょう?全部千洋に委ねますから」
ニコリと笑う山岡に、日下部は渋々頷いた。
2人とも医者だ。自分たちのすることに絶対がないことなど、痛いほどよく知っている。
万が一大量出血、万が一オペ中急変。それが決してゼロではないと。
「よろしくお願いします、日下部先生」
「任せて下さい、山岡さん」
ふふ、と悪戯っぽく笑った山岡に、日下部もニコリと悪戯に微笑んだ。
そうして、時間が来て、山岡はオペ室に連れて行かれた。
「へぇ。こっちの景色ってこんなですか…」
オペ台に寝かされ、自分を見下ろしてくる日下部のガウン姿を見上げる。
「呑気な患者だこと。麻酔入れるぞ」
「はぃ…」
さすがに顔が緊張した山岡が日下部から見えた。
「大丈夫だよ」
「はぃ…。ん…好き、千洋…」
すぐにトロンとしてきた山岡の目が、スゥッと閉じていく。
何か口走っていた声が聞こえ、日下部が苦笑した。
「口外無用」
マスクの下でニヤリと笑った日下部の言葉と意味が、その場にいたスタッフ全員にわかった。
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