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第147話

滞りなく無事手術を終え、運び出されていく山岡を見送った後、日下部もガウンだけ脱ぎ、手術室を出た。 特に説明をする家族等もいないため、そのまま真っ直ぐ、山岡が運ばれて行ったICUに向かう。 途中、消化器外科病棟の階についたところで、何故かフラリと歩いていた谷野に会った。 「とら?」 「あ、ちぃ、ナイスタイミング」 「は?」 グッと親指を立てて笑った谷野に、日下部の怪訝な目が向いた。 「山岡センセ、アッペでオペんなって入院したんやろ?」 ニカッと笑う谷野に、日下部の顔が歪んだ。 「どこから漏れるわけ?個人情報だろ」 いくら内部の人間とはいえ…と表情を険しくする日下部に、谷野はあっけらかんと笑った。 「ちぃ、病棟の看護師さんらは口止めしとったけど、外来まではしとらんかったろ」 「はぁ?おまえ、あっちまで手回ししてたのか…」 「まぁな。って、おれもすっかり忘れとったんやけど、前に山岡センセのレア情報あったらくれゆうといたん、まだ有効やったみたいで」 そう言えば前に谷野が嗅ぎ回っていたんだった、と日下部も思い出す。 「で?俺の写真、まさかばらまいてないよなぁ?」 「どやったかな~?」 シラッとあらぬ方向を見る谷野に、日下部の鋭い目が向いた。 「回収しておけよ」 「うへぇ…」 谷野が日下部に負けたところで、ちょうど病棟前についた。 「それにしても、消化器外科医が自分アッペんなって入院て、新手のギャグかいな」 笑えるわ、と言って本当に笑う谷野に、日下部が苦笑した。 「まぁ、医者も人間ってことだ。それよりとら、何しに来たんだよ」 そもそも、泌尿器科の医師である谷野が、この階に用がある理由がわからなかった。 「ん?そんなん、山岡センセの見舞いや。という建て前で、ひと目見てやろうかと思うてな」 「何を」 「だからナイスタイミングってゆうたんや。ちぃ術衣やし、ちょうど山岡センセのオペ終わって上がってきたんやろ?」 ひひひ、と悪戯な笑みを浮かべている谷野に、日下部はまともな用件でないことをヒシヒシと感じ、嫌そうな顔をした。 「そうだけど、それが?」 「っちゅ~ことは、もうすぐ麻酔がさめるわけや」 「……読めてきた」 「ふふ、さっすが。うわ言で、千洋!千洋!って連呼するの、拝んでやろうかと思うてな」 ニヤリ、と笑う谷野に、日下部が呆れた溜息を漏らした。 「プライバシーの侵害だ。ついでに、そんなこと言うとは限らないだろ」 人としてどうかと思うぞ、と呆れる日下部にも、谷野はめげなかった。 「自信ないん?おれは絶対、山岡センセはちぃの名前呼ぶと思うんやけど」 「……」 「賭けてもええで」 ニッと笑う谷野は、本当に医者として、人としてどうかと思う。 けれど負けず嫌いの日下部が、ここで黙っていることも出来なかった。 「賭けにならない。俺も呼んでもらえると思ってるから」 「へいへい。それじゃぁまぁ、確かめに行こうや」 ニッと笑う悪友に引き摺られ、日下部はついうっかり谷野を病棟内に入れてしまった。 「あ、日下部先生、お疲れ様です」 「ん。山岡先生は?目、覚ました?」 「ICUです。まだですね」 チラリとガラス張りの部屋の方に目を向けた看護師に、日下部と谷野の視線が向いた。 テクテクとその中に入っていく日下部の後に、しれっとして谷野も続く。 日下部は、酸素マスクをはめられ、すでに自発呼吸をしている山岡を見下ろした。 「なんや、ほんまに目覚める直前や」 「うちの麻酔科は優秀だよ」 ふふ、と笑った日下部の目の前で、山岡の頬がピクンと引きつった。 「お?」 「山岡?」 くにゃりと歪んだ唇が、ゆっくりと動く。 「…ぁさん…」 「なんて?」 「シッ…」 「…かぁさ…」 ポツリ、ポツリと山岡が無意識に何かを呟いているのがわかった。 「おかぁさん…」 ギュッと眉を寄せてはっきり呟いた山岡に、日下部がピシッと固まった。 「なんや。おかんか。ぷぷ、ちぃ、おかんに負けんねんや…ちぃ?」 「っ…」 「なんや、そないにショックやったんか?山岡センセ、マザコン疑惑」 つまらん、と笑う谷野にも、日下部は呆然となったまま立ち直れなかった。 「違う…」 「諦めえ。負けや、ちぃの負け。開口一番、おかんやもん」 楽しげな谷野に、日下部は黙って首を振った。 「ちぃ?」 さすがに日下部の様子がおかしいことに気づいたか、谷野が不審そうに眉をひそめ、ふざけるのをやめた。 「山岡?」 そっと山岡の額に手を乗せた日下部が、優しく目を細める。 手術中にディスポキャップを被せられていたせいで、前髪が上がったまま綺麗な顔が露わになっている。 「戻っておいで、俺はここだよ」 髪を撫で付けるように、額からこめかみへと、何度も優しく手を滑らせる日下部。 いい子、いい子と撫でるようなその仕草を、谷野が黙って見守る。 「山岡…?」 スウッとひと筋、山岡の目から涙が伝った。 「んっ…」 ガクッと山岡の頭が動いた。 まだ半覚醒状態でグラグラ頭を振る山岡から、日下部の手が離れる。 「んっ、つぅ…」 「痛む?」 ギュッと眉を寄せた山岡を、日下部が心配そうに見つめて、山岡から繋がれている色々な機械に目を走らせた。 「う、んっ…」 小さな呻き声を上げて、山岡の目がユルユルと開いていった。 「き、もち、わる…」 「吐きそう?」 「揺れ…て、る…?みたい、な…ぐらぐらぁ…」 へにゃっと笑う山岡に、日下部がホッとして頬を緩めた。 「あぁ、麻酔のせいだ」 「あ…だぁれ…?」 「ん?」 「ねぇ…ありがとう」 ニコリと笑う山岡に、日下部の顔も自然と微笑んだ。 「悪かったな。おれ、先に出てるわ。そや、おれ、何も聞いとらんから」 じゃ、と言って出ていく谷野を振り返ることなく、日下部はジッと山岡の全身やモニターに目を走らせていた。 「痛くない?どう?」 「だ、いじょ、ぶ…」 ふわりと微笑んだまま、また山岡がスウッと眠ってしまった。 日下部は、ガラスの向こうの看護師を振り返った。 すぐに視線に気づいた看護師が中に入ってくる。 「どうしました?」 「今、目を覚ましたから。また寝ちゃったけど」 「わかりました。バイタルは…」 「安定しているね。少し酸素が低いかなぁ?いつから自発してる?」 「戻ってきたときにはすでに」 「ん。まぁ問題ないか。じゃぁ俺は少し休むね、後よろしく」 「はい」 「何かあったらすぐに呼びつけて」 「わかりました」 ニコリと微笑んで頷く看護師に後を任せて、日下部は集中治療室を出て行った。

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