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第160話
ドンッ!
山岡は、ものすごい衝撃と音を聞いた気がして、目を開けた。いや、開けたと思う。
やっぱり視界は真っ暗闇で、目を開けているのか閉じているのか定かではない。
ドンッ!
また、激しい衝撃と音が聞こえた。
山岡がいる真っ暗な小さな小箱を、誰かが激しく叩いてでもいるのか。
「だれ…?」
誰か、と言われても、山岡に浮かぶ人物の名前はなかった。
『ここから出ては駄目。出ては駄目よ』
それが声なのか音なのか。空気を震わすことのない言葉が、山岡に迫る。
山岡は、横たわっていた身体を起こし、両腕で膝を抱え、その間に顔を埋めた。
「うん」
ゆっくりと閉じた目は、真っ暗闇のまま何も変わらない。
「出ないよ。ここにいる。行きたい場所もない。…ない?」
あれ?と、不意に意識のどこかに何かが引っかかった。
ゆるりと開いた目は、やはり小さな小箱の中の暗闇を映す。
「だ、れ…か?」
ふと、脳裏に浮かぶ人の顔があったような気がした。
けれどもそれは泡沫のように消えていく。
「気のせいだ…」
暗い暗い小箱の中、山岡は小さく身を縮め、再び目を閉じ眠り込んだ。
*
「っ!」
日下部は、ふと目を覚まし、起こそうとした身体にビンッと引かれるような抵抗を感じて目を見開いた。
「なっ…?」
見回したこの場所が、個室の病室だということがわかる。
必然的に自分が横たわっているのがベッドだということも。
けれど何故、手足と胴が拘束されているのかがわからない。
「なんなんだ…」
窓に引かれたカーテンの向こうが明るいから、今が夜でないことは認識できた。
「確かオペを終えて、夕方山岡のところに行って…そうだ、とらと原!」
目を覚ます直前までの記憶を辿り、日下部は苛立ちと共にバタバタと手足を暴れさせた。
コンコン。
「失礼します…あら、起きていらっしゃいました?」
不意に、ノックの音に続いて、看護師がヒョッコリと姿を見せた。
「ねぇ、これはどういうこと?」
にこやかに入ってきた看護師に対して、日下部の方は恐ろしく不機嫌だ。
看護師はジロッと向けられる日下部の視線にも怯まず、呑気に点滴の準備をし始めた。
「光村先生のご命令で、日下部先生は今日1日休暇です。ここで強制的に休んでいただくことになっています」
「休暇って…強制的って…。いや、今日1日って、今日はいつ?山岡は?」
ハッとして身体を起こそうとした日下部は、忘れていた拘束に、グンッと身体を押し留められてベッドに沈んだ。
「とりあえずこれ外してよ。こんな縛りつけて、何のつもり?」
許されないでしょ、と恨み言を言う日下部にも、看護師は怯まなかった。
「お目覚めになったら起きて逃げるだろうからと、それも光村先生が」
ニコリと微笑まれ、日下部は寝たまま疲れたように首を振った。
「あの人は…。じゃぁその光村先生を呼んで来てくれる?」
話にならない、と溜息をつく日下部に、看護師は困ったように苦笑した。
「会議中です」
「……」
思わず胡乱な目をして黙ってしまった日下部に、看護師はテキパキと点滴を始めた。
「何それ。ラクテック?ソルデム?俺、必要ないんだけど」
はぁっと大袈裟に溜息をつく日下部は、ゆっくりと1度瞬きをした。
「わかった。もう今日は休ませてもらう。もう逃げも隠れもしないから、拘束を解いて。俺、まだ術衣じゃん。着替えもしたいし…」
お願い、と自分の魅力を十分承知した笑顔を向けた日下部に、看護師は顔を赤くしてフラフラと頷いた。
「は、はい。それでしたら…」
「は~い、ストップ。やっぱり見に来てよかったわ。外科部長さん、ちぃのことよぉわかっとるわ」
スタスタと、ノックもなしに病室に乱入してきた谷野が、ニカッと笑った。
「とら!おまえ…」
「看護師さん。ちぃにほだされて拘束解いたらあかんで。ちぃを一旦逃すと、鎮静剤使わな簡単に捕まらんのやから」
駄目や、と言いながらベッドの側まで来た谷野に、日下部の鋭い目が向いた。
「俺は檻から逃げ出した猛獣か!」
「ええツッコミやな。ほんでえぇ格好や。どや?どSのちぃが拘束される側になるて。癖になるやろ」
カラカラと笑っている谷野に、日下部の機嫌は地の底まで落ちた。
「ふざけるな」
「怖い顔しても駄目や。それにおれはふざけとらん。なぁ、これ見てみぃ?」
フッと息を吐きながら1枚の紙を見せて来た谷野に、日下部はギュッと眉を寄せた。
「こんな患者がおるんよ。食欲不振、不眠、倦怠感、そんでその数値や。なぁちぃ。ちぃやったらなんて診断するん?」
貧血、ビタミン、ミネラル不足が明らかな採血結果に、日下部は大きく溜息をついた。
「名前隠してても、俺のだろ。無断でいつ採血なんか…」
「で?」
「いたって健康体だね」
フッと笑って言い切る日下部に、谷野の胡乱な目が向いた。
「どんなヤブ医者やねん。嘘つくなや」
「……」
「ほんまに、そんな患者いたら、ちぃはなんて言うん?ふざけとらんではっきり答え」
怒るで?と睨みを効かせる谷野に、日下部は諦めたように溜息をついた。
「過労ですね。心身を休めましょう」
半ば自棄になりながら言った日下部に、谷野の満足そうな目が向いた。
「せやろ?なら実行せぇ」
「嫌だね」
「はぁ?ちぃ、ほんまふざけとらんと…」
「ふざけてなんかない。俺は…」
大丈夫、と答えようとした日下部は、その言葉になんの説得力もないことに気づいて言葉を途切れさせた。
「なぁちぃ。山岡センセが起きない今、ちぃまでダウンしたら、ほんま他の患者はどうなるん?ちぃが山岡センセを大事なのはわかるんやで?きっと他とは比べられないほど大切なんはわかる」
「……」
「せやけど、他の患者ほっぽって、山岡センセのことだけ考えて…それで山岡センセは喜ぶん?」
静かな目をして言葉を紡ぐ谷野から、日下部は自然と目を逸らしてしまった。
「ちぃが休みもしないで、暇さえあれば山岡センセの側にいて。それで過労で倒れて、他の患者診れなくなったら。山岡センセは逆に怒るんと違う?」
谷野の言葉に、「何してるんですか!」と悔しそうに文句を言う山岡の姿があっさりと思い浮かんだ。
「そうだな…」
「せやったら…」
「でも…頭ではわかっても、心が納得しないんだ。山岡の側にいたい。本当は24時間側にいて、ずっと呼びかけ続けたいんだ…。それを我慢してる。自分でもどうかしているのはわかってる。だけど、どうにもできない」
パタンと全身から力を抜いた日下部を見て、谷野はそっと日下部の手足の拘束に手を伸ばした。
「せやから強引なのは承知で、こうして無理矢理休ませてん。でもな、ちぃ、もう少し信じたらどうや?」
シュルリと手の拘束を解いた谷野が、小さく微笑んだ。
「……?」
「自分とこのスタッフ。山岡センセをちゃんと預けられへんほど頼りないんか?」
「いや…」
「それからちぃ自身」
「え…?」
「山岡センセにとって、ちぃのが軽いか?ちぃは過去に勝てへんか?」
「っ…」
「過去より、ちぃと過ごした時間を山岡センセは選ぶと思わんか?ちぃの思いと山岡センセの思いを、もっと信じひんか?おれは2人の絆をちゃんと知っとるで。山岡センセは、何があっても、最後は必ずちぃを選ぶ」
シュルッと足の拘束も解き、身体の拘束も解いた谷野が、揺らがない声と笑顔を見せた。
「ほら、自由やで。行くなら行き」
ホールドアップしてベッドから2、3歩下がった谷野に、日下部はけれども寝転んだまま動かなかった。
「ちぃ?行かんの?」
ニッと笑う谷野は、もう日下部にその気がないことはわかっていた。
「はぁっ…。とらに諭されるとか。俺も相当参ってるわ…」
「せやな。ちぃがほんまに正常なら、おれは勝てへんやろな。つまりはそんだけちぃは限界やねん」
ケラケラ笑う谷野に、日下部は静かに目を閉じた。
「俺は信じてるよ…。山岡は必ず俺のもとに戻る。だから今日は、ありがたく休むことに決めた」
「そか」
「なぁとら。眠剤処方して」
「何がいいん?」
「任せるよ。今日1日はしっかり休む」
「それがええ。明日からまた、バリバリ仕事せぇ」
「うん。…とら、ありがとう」
「ま、人が悪い外科部長に言い。おれは貸し作ってん。これで山岡センセのオペ見学ゲットやで」
にひひ、と笑う谷野は、まだそれを諦めていなかったのか。
思わず苦笑してしまった日下部は、ハッと目を開けた。
「っ、とら。おまえってやつは…」
「ふふ。尊敬してええで」
ニッと笑う谷野に、日下部は笑いながら、泣きそうになっていた。
「そうだな。山岡は必ず戻る。そして復帰して、またオペをするんだ。必ず必ずそうなるんだ」
谷野の言葉には、その未来しかなかった。
だから日下部も、その未来だけを描く。
「ちぃが認めた天才外科医の腕、おれは絶対見るんや」
「ん…」
「だからちぃ、今日はゆっくりおやすみや」
「ん。おやすみ…」
両腕を目の上に重ねて乗せて、再び静かに目を閉じた日下部を見て、谷野は黙って病室を出て行った。
日下部は、それから翌日の未明まで、泥のように眠った。
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