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第171話
翌日。朝早くから、ナースステーションでは看護師たちの噂話に花が咲いていた。
「本当、ヤバかったよね~」
「え?なになに?」
「昨日の夜!日下部先生、山岡の病室を人払いしてさぁ、面会謝絶札かけて、数時間出て来なかったんだよ」
「え~?それだけじゃ、2人でのんびり過ごしただけかもしれないじゃない」
キャッキャとはしゃぐ看護師たちの話は途切れない。
「いやぁ、決定打があるからこうして話しているんでしょ~?」
「えっ、えっ?何よ、もったいぶらずに教えなさいって」
「ふふ。何故か、清拭の1セットを持っていったのよ!」
どうよ?と自慢げに笑う看護師に、周りの看護師たちがキャァッと声を上げた。
「だって山岡もう動けるんでしょ?」
「そうよ~。だから決定打なのよ」
「つまり~?」
「つまり~、山岡が動けない状態になったってことでしょ」
「キャァッ。つまり、動けないほど…」
「動けなくさせちゃったのは…」
キャァッと悲鳴が上がったナースステーションに、早めに出勤してきた日下部がヒョッコリ顔を出した。
「おはよう。相変わらず、朝から元気だね」
ニコリと爽やかな笑みを浮かべて登場した日下部に、看護師たちの悲鳴がさらに増した。
「キャァッ、おはようございます、日下部先生」
「ふふふ、日下部先生、もうさすがに認めちゃってくださいよ?」
「ん?」
「うちじゃぁ暗黙の了解ですけど、日下部先生たちの口からは聞いてないですもん。もう言っちゃってください」
「そうそう。この際ですから、日下部先生の口からちゃんと公表して、本当の公認にしましょうよ」
今更ですけど、と言う看護師たちに、日下部はふわりと魅力的な笑みを浮かべた。
「俺の一存では何とも。相手があることだからね。今夜、飲み会だよね?その時までに許可が取れたら公表してあげる」
ニコリと綺麗に微笑む日下部に、看護師たちのテンションは最高潮に達していた。
「それじゃぁ早速、そのお相手の退院診察に行って来ようかな」
キャッキャとはしゃぐ看護師たちの間をすり抜けて、日下部は山岡の病室へ足を向けた。
コンコン。
「はぃ…」
何日も、何日も返らなかったノックの音への返事が、当たり前のように返ってきた。
そのことが、ただただ嬉しい。
「山岡先生、診察だけど」
「あ、はぃ」
「って何でワイシャツにネクタイ?まさか退院して直に仕事に出る気じゃないよな?」
荷物をまとめて、呑気にベッドに腰掛けていた山岡の姿に、日下部がギュッと眉を寄せた。
「いぇ、一度家には帰ってこようと思っていますけど…」
「帰って来る?来なくていいから。今日は山岡休みだから」
「……」
「でも定時頃に病院においで」
ムスッとなる山岡にニコリと笑って、日下部はベッドに座る山岡に近づいた。
「え?」
「今日、山岡の退院祝い。病棟のみんなで飲み会の予定だよ」
ふふ、と笑う日下部に、山岡の顔がキョトンとなった。
「え…?」
「おまえ主役だからな。不参加とか認めないってさ」
企画した看護師に念を押されている日下部は、ニコリと笑顔で山岡の頭を撫でた。
「病院から一緒に行こうな。さて、診察って言っても名ばかりだし。もう出る?」
診るところない、と笑う日下部に、山岡はコクンと頷いた。
「じゃぁお見送り…」
「い、いりませんよ?やめてくださいね」
恥ずかしい、と首を振る山岡に、日下部は苦笑した。
「まぁそっか。じゃぁあと看護師さん寄越すから。今日は家に帰ってゆっくりしてろよ?昼も作ってあるから、温めて食べろな」
いい子いい子と山岡の頭を撫でながら、日下部が微笑んだ。
「すみません。ありがとうございます」
「ん。じゃぁ、退院おめでとう」
ニコリと笑って、サッと掠めるようにキスを奪った日下部に、山岡の顔がパッと赤くなった。
「あ、あの…本当に色々とありがとうございました」
ヒラリとベッドから下りた山岡が、深く深く頭を下げた。
その後やって来た看護師に、リストバンドを外してもらい、書類だなんだを受け取って、山岡は退院して行った。
日下部は午前中フリーで、医局で同じくフリーの原に絡まれていた。
「って言うか、今日の病棟飲み会、当直は研修医の中から誰かって酷くないですか?」
「なに?原先生負けたの?」
「まだ勝負はこれからです!でも、先輩医師たちは始めから除外とか、不公平ですよね」
ブーブー文句を言っている原は、今日の昼休みに行われるらしい、当直決めじゃんけんが、研修医たちだけというのが気に入らないらしい。
「こっちからはオンコール出すんだからいいじゃない」
「だってオンコールなら飲み会参加できますもん」
つん、と口を尖らせる原に、日下部は苦笑した。
「まぁね。せいぜいじゃんけん頑張って」
「いいなぁ。日下部先生は無条件で飲み会参加でしょう?」
「ふふ。こっちは光村先生がオンコール引き受けてくれたからね」
ニコリと笑う日下部に、原がゲッと潰れた悲鳴を漏らした。
「部長様が?自ら進んで?」
「いい上司だろ?なんてな。まぁ大人の世界には色々とあるわけだよ。ガキンチョと違って」
ふふ、と笑う日下部は、原にはとっても腹黒く見えた。
「じゃぁ日下部先生もいい上司を見習って、当直進んで引き受けちゃうとか」
「俺が参加できないんだったら、そんな飲み会自体潰してやる」
ニコリと綺麗に笑いながら、とんでもない発言をサラリとかます日下部に、原の目が胡乱なものになった。
「そ~ゆ~人でしたよね、アンタは」
「アンタ?」
「っ!げ、幻聴です!」
うっかり口を滑らせた原に、ヒヤリと温度を下げた日下部の空気。
慌てる原をさも楽しそうに流し見て、日下部はバサリとファイルの束をデスクに置いた。
「当直を免れても、残業なんてことになったら笑えるね」
「笑えませんっ!」
ハッキリとは言わず、真綿で首を絞めるように回りくどい言動をする日下部に、原はブンブンと首を振りながら縋るような目を向けた。
「山岡なら可愛いけど、きみにそんな目をされてもゾクリとも来ないんだけど」
面白くないよ、と小馬鹿にする日下部に、原はガックリと項垂れた。
「日下部先生を楽しませたいわけじゃありませんて…」
このどSの俺様に付き合っていると疲れる、と思いながら、原は決定的なことは言われずにホッとしていた。
「まぁとにかく、昼のじゃんけんに勝ちたないことには、ですね。おれ、ここでの飲み会初めてですし、絶対行きたい」
うっしゃ!と力が入る原を眺めて、日下部がどうでもよさそうにふぅん、と気の無い声を上げていた。
(そういえば原が来てから初めてだな…。山岡も、いつも不参加だったし、今日は楽しみだ)
病棟の飲み会があるといえば、いつも山岡は進んで当直を引き受けてしまっていた。きっと自分なんかが参加しても、という気持ちがあったのだろうことは容易く想像できる。
(今回は強制参加だからな)
山岡の反応を楽しみにしながら、日下部は向かいのデスクでメラメラ燃えている原を鬱陶しそうに眺め、ストンと手元の書類に目を落とした。
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