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第176話
翌日。
消化器外科病棟では、グッタリした医師や看護師たちの姿がそこかしこに見えた。
「平日にやるもんじゃないよね、飲み会」
クスクスと笑っている日下部は、かなり飲んでいた割に、平気そうな顔をしている。
「おっさんなのにタフ過ぎません?」
頭痛い、と机にもたれて不満を漏らしているのは原だ。
「言うね。ガキンチョみたいな無茶な飲み方をしない大人と言って欲しいね」
フッと嫌味を嫌味で躱す日下部に、原のジトッとした恨めしい目が向く。
「そう言いますけど、山岡先生だって佐々木先生だって、相当グロッキーでしたよ、今朝」
「知ってる。全く、断れないんだから…」
あんなに飲まされて、と苦笑する日下部は、休めと言っても聞かなかった山岡を思い出している。
「病み上がりなのに…」
「まぁ本人に自覚ないんでしょ?」
「らしいね」
「悔しいけどおれ、やっぱり日下部先生には敵わないんだろうな、って思いました」
不意に顔を起こして、ニコリと笑う原に、日下部が何事?と首を傾げている。
「本当に悔しいんですけど、山岡先生をこっちに連れ戻したのは、やっぱり日下部先生なので」
負けます、と微笑む原に、日下部は意味がわからず、曖昧に微笑んだ。
「本当、悔しいです…」
「まぁ、俺と張り合おうなんて、きみには100年早い」
「はぁ?100年したら、アンタもういないでしょうが」
おっさん、と膨れる原に、日下部のニコリとした悪い笑みが浮かんだ。
「アンタね?」
「っ…い、言いましたよ!か、課題でも仕事でもドッサリ押し付けたらいいですよ!」
ふん、と開き直る原に、日下部がおや?と首を傾げた。
「Mの世界に目覚めたの?」
「目覚めましたよ!Mの世界じゃなくて、消化器外科医にね」
ニッと笑う原に、日下部の目がふわりと緩んだ。
「決めちゃうの?まだ他を回るのに」
「おれは、きっと日下部先生以上のオーベンには、もう巡り会えません。だからアンタ、責任取って、おれを引き取ってください」
挑戦的に言いながらも、小さく震えた原の声に、日下部はちゃんと気づいていた。
「うちにするんだ?この先後期研修。すっかりどMだね」
「っ!じゃぁ…」
「俺はさ、1度犯したきみの誤ちを、許せはしないんだけど、その上でなお、きみの心根と腕を鍛え上げたいと思うくらいには、きみに興味があるんだよね」
「っ!おれは、あなたに、何が何でもついていきます。ここより魅力的な科は、きっともうありません」
「ふぅん。ま、いいんじゃない?」
ニコリと軽く笑う日下部は、まだ原を縛らない。
それでも原は、揺らがない。
「よろしくお願いしますっ!」
「とりあえず未来の話より、今だよね、今。ひとまず2日酔いの情けない顔、引き締めて来てくれる?その後、ラパロの手技トレーニングね」
しごくよ、と笑う日下部に、原がパッと椅子から立ち上がり、慌てて医局を飛び出して行った。
「急にどうしたかな?あいつ…。まぁ、山岡か」
こっちに連れ戻したのがどうとか、負けたとか悔しいとか。日下部は何となく、原の心境を察した。
医局を飛び出した原は、洗面所に向かいつつ、昨日の一幕を思い出していた。
飲み会がお開きになり、タクシーを止めてくると言う日下部に、その間だけ山岡を託された時だ。
「ん…千洋?」
「え?違いますよ、おれですよ、原です」
「千洋…ありがとう…。オレのこと見つけてくれて…」
「山岡先生?」
「ありがとう。真っ暗闇にね、ずっと聞こえていたよ。オレを掬い上げてくれたのは、千洋の手だった…」
ふにゃりと微笑んで眠ってしまった山岡の言葉の意味の大半はわからなかった。
だけどきっとそれが、記憶にはない、昏睡のときの、深層に埋まってしまった記憶の欠片なんじゃないかと原は思った。
「待たせたな。原?あぁ、山岡寝ちゃったか。悪いな」
原にもたれて寝息を立てている山岡を引き取り、日下部が難なくその身体を抱き上げた。
「んっ…」
無意識に日下部の首に腕を回し、安心したようにへにゃりと緩む山岡の表情を見て、原は2人の絆の深さを感じた。
「お疲れ様でした」
「うん。原も気をつけて。また明日」
「はい、また明日」
ペコリと頭を下げて2人が去っていく姿を見送り、原の心に1つの決意がおりた。
「見惚れんばかりのオペをする天才外科医。その人が1番信頼する医者のおれのオーベン。おれはあなたたちの側で、一人前の医者になりたい。日下部先生に並べるような医者になって、山岡先生の側に、今度は信頼できる同僚として立ちたい。認めて欲しい」
だから決めた。消化器外科医になる。
日下部についていく。恋や愛ではなく対等な医師として山岡の側にいく。
「っ、くしゅん!」
「山岡先生、今度は風邪です?」
外来で、2日酔いの頭を抱え、必死に診察をしていた山岡に、担当看護師が苦笑した。
「髪のせいかな…」
「いやいや、下ろしたら日下部先生に怒られるんでしょう?」
病棟の友達に聞きましたよ、と笑う看護師に、山岡は苦笑した。
「だから、寒いって理由をつけてですね…」
何とか髪を下ろしたい、と呟いている山岡は、日下部の命令により、今日も前髪は頭の上にあげてヘアゴムで止められている。
「ふふ、きっと誰かが噂をしているんですよ」
「うぅ…」
「何せ、公言したんですよね~?」
「う、まぁ、はぃ…」
「今度ぜひ外来とも飲み会して下さい」
ニコリと笑う看護師に、山岡は小さく首を傾げた。
「途中から記憶ないのが怖すぎで…。ちょっと飲み会は当分遠慮したいかな…」
出勤後、やけに病棟ナースステーションが歓迎状態だったのが謎過ぎて、正直ビクビクしている山岡だ。
「山岡先生のファンができたらしいですよね。わたしも、こうして話してみると、山岡先生って意外と話し易いと思ってるんですけど」
「うぅ、ファンとか、いりませんから」
ぜひそっとしておいて欲しい、と思いながら、山岡は次のカルテを開いた。
「あっ、川崎さんだ」
パッと気を取り直した山岡が、不意に医者の顔に戻って、患者を呼ぶ。
「仕事、仕事」
「は~い」
バックヤードに消えていく看護師と入れ替わりに、正面から川崎が入ってくる。
「こんにちは…あれ?髪」
「あ、こんにちは。うぅ、みんな第一声が…」
「ふふ、そうかそうか。日下部先生も、やるね」
「え?」
「いや。それより先週代診だったけど、山岡先生どうかしてた?」
いなかったね、と気軽に問う川崎に、山岡が小さく苦笑した。
「ちょっとアッペになりまして。その後何かとこじらせまして…」
恥ずかしそうに言う山岡に、川崎はキョトンとした挙句、遠慮がちに笑い出した。
「山岡先生がアッペねぇ…」
「な、何ですか?いいですよ、堂々と大笑いしても。消化器外科医のくせに情けないと思ってますから」
恥ずかしいです、と苦笑する山岡に、川崎はクスクス笑ったまま首を振った。
「それを言ったら、元消化器外科医のくせに、MKこじらせたやつもいるからさぁ」
あはは、と笑う川崎は、同類だった。
「そういえば」
「だろ?気づかないわけじゃないんだけど…自分疎かになりがちだな、って痛感するだろ」
「はぃ。反省してます」
「ま、どうせ日下部先生がさらっとオペしたんだろ?」
「まぁ…」
「それに懲りたら、身体、大事にしろよ?っておれが言えた義理じゃないけど」
「いえ。大事にしないと、と思いました」
「そっか」
「はぃ。オレは…この命を掬い上げてくれた人たちのために、この命を守っていきたいです」
真っ直ぐ前を見て、それまでは他人の物だけだった山岡のその思いが、ようやく山岡自身のものにも及んだ。
「日下部千洋か…」
「え?」
「いや何でもない。今日も採血?」
ニコリと笑う川崎は、山岡をここまで掬い上げたのは、日下部だと分かっていた。
前を向かせ、顔を隠す眼鏡を外させ、髪までも。表情を出すことを教え、自分を疎む心さえも引き上げ…。
「敵うかっての。でも傷つけたな~。物理的に」
「川崎さん?」
「なぁ、オペ跡見せて。単孔?」
日下部ならそうだろうと思いながら笑う川崎に、山岡は小さく首を振った。
「え?まさかそんな。あの人が」
「ん?そんな驚きます?」
「まぁ…。でもそっか」
「え?」
「いや。で、診察は?」
コテンと首を傾げている山岡に合わせて、川崎もお茶目にコテンと首を傾げて見せた。
「あ、そうですね。えっと、採血です、はぃ」
「クスクス、大丈夫?」
「昨日飲み過ぎて…」
そう言って苦笑する山岡は、本当にごく普通に表情がクルクル動いていた。
「そっか。まぁほどほどに。じゃ、採血室行ってきます」
「お願いします」
ニコリと笑う山岡に手を振って、川崎が診察室を出ていく。
「はぁぁっ。後何人だ…?やっぱりお酒はもう少し控えよう…」
今日は、あちらこちらで同じ呟きが漏らされているとは知らず、山岡もまた、怠い頭と身体を奮い立たせ、仕事に励んでいた。
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