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第177話

日曜日、日下部は珍しく寝坊をし、緩やかな微睡みの中にいた。 ふと、隣にあるはずの温もりが手に触れないことに気づき、ガバリと身を起こす。 「泰佳?」 昨夜は確かに腕の中に抱いて眠りに落ちたはずだ。 そして大抵毎朝、先に起きるのは日下部の方で、隣には山岡の温もりがあるはずなのに、今日はそれが見当たらない。 「っ…」 ふと、嫌な錯覚が、日下部を包み込む。 山岡を取り戻したことは夢で、もしかしてまだ山岡は、病院のICUで身動き1つせずに眠り続けているのではないかと。 「泰佳!」 思わずベッドを飛び降り、走るように寝室を横切って、飛びついたリビングへのドア。 ガチャリと乱暴に開けたそのドアの向こうに、誰もいないリビングが見える。 「泰佳?」 恐る恐るリビングに出た日下部に、ふと人の気配が動いた。 「日下部先生?おはようございます。慌ててどうしました?」 少し不思議そうに、けれどニコリと微笑みを浮かべた山岡が、キッチンカウンターの向こう側にいた。 「あぁ。いや、おはよう」 ドッと安堵した心を誤魔化すように、日下部はふわりと笑ってキッチンの方へ向かいかけた。 そしてふと気づく。 「って、山岡?」 何故かキッチンカウンターの向こう側、調理台の前に立って、手元で何かをしている様子の山岡が見える。カウンターが調理の手元を隠すようになっているから、そこは見えないのだけれど、調理台の前に立ってすることは、料理しかないだろう。 「おい、山岡…」 「あ、日下部先生。今日はオレが早く起きたので、朝ごはん作ってみました。食べてくれます?」 ニコリと楽しそうに微笑む山岡に、日下部の機嫌が急降下した。 「俺はまだおまえに料理の許可出してないんだけど」 ジロッとカウンターごしに睨みをきかせる日下部に、山岡の顔が急に焦ったものに変わった。 「あのっ、オレ、その…」 ワタワタと手を振って何かを言おうとしている山岡なのだが、慌てすぎて言葉になっていない。 日下部は、朝から泣かさないとならないのか、と溜息をつきながら、ゆっくりとカウンターを避けてキッチン側に足を踏み入れた。 「パドルで100発だったよ…あれ?」 まさか実行する日は来ないだろうという脅しだったのに、言ったからにはやらないわけにはいかない、と内心困りかけた日下部は、山岡の手元が見える位置まできて首を傾げた。 「包丁もまな板もないな…」 ん?と山岡の手元を眺める日下部に、山岡がようやく僅かに落ち着いて、コクンと頷いた。 「や、約束は破ってませんよ。オレ、包丁使わないでも出来るものを…」 頑張って作ってみた、と言う山岡の手元に並んでいた皿には、目玉焼きに焼いたベーコン、レタスとミニトマトだけのサラダとこれから湯を注ぐだけであろう、インスタントの粉末が入ったマグカップがあった。 「なるほどね…」 「ちゃ、ちゃんとトーストもありますからね」 ニコリと笑う山岡に、日下部はなんだかホワンと胸が温かくなった。 「そっか。ちゃんと包丁使わずに。えらいえらい」 約束をきちんと守る山岡が嬉しくて、その上でこんな風に気持ちをくれる山岡が愛おしくて、日下部は一瞬前の不機嫌も忘れ、山岡の頭をポンポンと撫でた。 「ありがとう、いただくよ」 まずはデザートから、とふざけながら、日下部はスルリと頬を滑らせた手で山岡の顎を捕らえ、そのまま深いキスを奪った。 「んっ…あ、朝からっ…な、っあ、んっ」 巧みな日下部のキスで、いつでも蕩けさせられてしまう山岡は、文句をいいつつも、結局今朝もクタンと身体から力が抜けるまで、日下部の好きなように口内を蹂躙されてしまった。 「ふっ、はぁっ…もっ、やぁ…日下部先生っ!」 カクンと折れてしまった膝に、山岡は必死で日下部の腕に掴まって身体を支える。 恨めしそうに日下部を睨みつける目は、すでに潤んでしまって迫力がない。 「ふふ、泰佳だ」 何かを確かめるようにギュッと身体を抱き締めてきた日下部に、山岡はその心を察して文句が言えなくなった。 「いますよ。ちゃんとここにいます」 ギュッと抱き締め返せば、途端にクスッという意地悪な笑い声が聞こえてきた。 「キスは気持ちよくなっちゃうから、だめ~、なんだよな~?」 ふふ、と笑う日下部が言っていることがわからずに、山岡はその腕の中でコテンと首を傾げた。 「何ですか、それ?」 キョトンとなった山岡に、ゆっくりと身体を離した日下部の意地悪な目が向いた。 「飲み会で言ってたよ?」 ニコリと笑う日下部に、山岡の顔がサァッと青褪めた。 「そんなことを…」 みんなの前で?と思った山岡が、今度はカァッと赤くなる。 「クスクス、忙しいね」 「うぅ。もうなんか、オレ、怖すぎる…」 他にも一体何をしゃべってしまったのやら。まったく記憶にない山岡が、今度は落ち込むのを眺めて、日下部はヒョイッと2人分用意されていた皿をカウンターに乗せ、クルリとダイニング側に回った。 「まぁ、飲みの席でのことを揶揄うのは俺くらいだから大丈夫」 カウンターの上から、テーブルへ山岡が作った朝食の乗った皿を運びながら、日下部がニコリと笑った。 「でも看護師さんたちの生温かい視線の理由が何となくわかってきました…」 冷たいわけでもなく、だからと自然ではない看護師たちの、何とも半端に温かい視線が、気にはなっていたのだ。 「生温かいの?多分、普通に温かく見守ってくれてるよ」 「いや、でもなんか…微妙です…」 「そう?まぁそのうち飽きるよ。それより食べない?山岡がせっかく作ってくれた朝ごはん。パンとスープもあるんでしょ?」 出してよ、と笑う日下部に、山岡はとりあえず思考を切り替えることにした。 「はぃ」 過ぎたことをグタグタ言っていても仕方ない。そう割り切るくらいには、山岡は男前だった。 「ふふ、美味しそう。包丁使わなくても意外と作れるものだね」 「はぃ…」 「ねぇ、泰佳。これ食べ終わったら、今日はデートしない?」 揃ってオフだし、たまにはいいでしょ、と笑う日下部に、山岡はフラフラと目を彷徨わせた後、コクンと頷いた。 「じゃぁ決まり。そうと決まったら、早く食べよう」 山岡が出したスープとパンもカウンター越しに受け取ってテーブルに並べ、日下部はダイニングに出てきた山岡を座らせた。 向かいの席に自分も座る。 「いただきます」 「いただきます。なんか、初めての山岡の手料理。食べちゃうのもったいない」 「え?食べてください…」 食べない方がもったいない、と真面目に言っている山岡に、日下部の笑い声が響いた。

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