184 / 426
第184話
その日、山岡と日下部は珍しく残業もなく、定時に2人揃って上がり、一緒にマンションに帰って来たところだった。
「あれ…?」
「ん?」
ゆっくりと近づいた部屋のドアの前に、ちょこんと小さな人影が見える。
それは、日下部たちの部屋のドアに寄り掛かり、膝を抱えて座り込んだ少年のものだった。
2人は顔を見合わせ、その少年の前に立つ。
少年が2人の気配に気づいて、チラリと顔を上げた。
「あ…あの、ちーくん、ですか?」
コテンと首を傾げて口を開いた少年に、山岡と日下部はまたもお互いと顔を見合わせた。
「え?ちーくん?」
キョトンと山岡が呟き、隣の日下部が怪訝な表情を浮かべた。
「きみは?」
「あの、ぼく、八代将平(やしろ まさひら)と言います。あの、ママから、少しの間、ここに行くように言われて…」
カサリとメモを取り出しながら日下部をチラリと見上げた将平と名乗る少年から、メモ用紙を受け取ってそれを開いた。
「うん。うちの住所だね。で、ちーくんっていうのは?」
何となく答えを察していながら、敢えて尋ねた日下部に、将平はケロリと口を開いた。
「パパ、って聞いてます。くさかべちーくん」
ドカンと爆弾を投下した将平に、日下部が苦笑して、山岡がピシッと固まった。
「俺のことかなぁ?」
呑気に呟く日下部に、山岡の不安そうな目が向いた。
「いや、心当たりはないよ?」
小さく首を傾げて山岡を見る日下部は、将平と山岡の視線を受けて苦笑した。
「八代でしょ?覚えないんだよな…」
まぁ寝た女すべての苗字までもわかるかと言われたら、答えはノーだが。
つくづく最低だったな、と思いつつも、日下部は将平をジッと見つめた。
「まぁ、似てるよな…」
自分に、と苦笑する日下部は、年齢差を考慮して、容姿がそっくりなことに気づいていた。もちろん山岡も同じことを思っている。
「将平くんだっけ。ちなみに何歳?」
ん?と首を傾げた日下部に、将平は片手のひらをパーにして突き出した。
「5さい」
「5~6年前か。グレーだな」
「っ…」
はぁっと溜息を吐く日下部は、山岡と出会う前のその頃も、相変わらず女を食い散らかしていた記憶はある。
「まぁ避妊に失敗した覚えはないけど。絶対と言えないところは申し訳ないな」
そっと窺った山岡の表情は固い。
「将平くん、ママの名前は?」
何とか潔白を証明しないとな、と情報を探る日下部に、将平は不安な表情のまま口を開いた。
「杏香です」
「キョウカ、キョウカ…。お仕事は?」
「看護師さん」
「あ~?」
キョウカという名前に覚えはあるが、看護師ではなかった気がする。
「それに俺をちーくんとは呼んでなかったけどな…」
はぁっと溜息をついた日下部に、山岡と将平が同時にビクリと身を竦ませた。
「あ~、参ったね」
どうしたものか、と考える日下部に、不意に山岡がジリッと足を1歩引いた。
「山岡?」
「っ、オ、レ…。ご、め、んなさい…」
「えっ?ちょ、山岡?」
「その子、今日は置いてあげ…っ、オレは別のところに泊まるのでっ」
早口に言った山岡がパッと身を翻す。
「ちょっと待てよっ」
「ごめんなさい。責めたいわけじゃないです。責めるつもりもない、だけど…ッ、今は、ごめんなさい」
一瞬立ち止まって一瞬振り返った山岡は、ペコリと頭を下げて、それだけ言って足早に去っていった。
「っ…くそ」
後を追おうとして、ふと足元の将平に気づいた日下部は、1人置き去りにするわけにもいかず、グッと押し止まる。
「はぁっ。俺、今ほど自分の過去の行いを後悔したことないわ…」
最後に見た山岡の表情が、信じたい、と物語っていたことに気づいて、日下部は深い深い溜息をついた。
「あの…」
山岡と日下部のやり取りを不安そうに見ていた将平が、困ったように眉を下げていた。
5歳にしてはとても大人びた少年だと思う。
「あぁ、ごめんな。大人にふりまわされて。とりあえず今日は遅いから、うちに入ろう。俺もさすがにもう少し情報が欲しいし」
ふぅ、と息を吐いて、とりあえず何の悪気もないだろう将平を家に上げ、日下部は今後どうするかを考えた。
日下部によく似た将平の不安そうな目が、ずっとついてあるいていた。
ともだちにシェアしよう!